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第43話
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慧は刀を握る両腕を垂らした。
閉ざしていた唇を開くが、声が出ない。喉に綿を詰められているかのよう。
彼が喋る前に、千奈美は視線を逸らした。
「帰って。私は追わないから」
どうあっても慧を殺そうとしていた千奈美が、諭すように言った。
彼女にとって最大限の譲歩だった。見逃す代わりに、自分と藤沢を見逃せと。
大切な人にようやく心が通じて、慧は握っていた刀を鞘に納めた。
だが、それだけで退くつもりはない。彼は足元に散らばる薬莢の一つを摘み、千奈美目掛けて放り投げる。
どういうつもりか理解できず、千奈美は慧に目を合わせる。彼女の少し困った様子とは対照的に、慧は決然とした眼差しで見つめ返す。
「俺は退くわけにはいかない。藤沢は、この手で終わらせる」
「それで私も引き抜こうって言うの? ワガママだよ」
「ワガママを通すだけの力はつけてきたつもりだ。俺は藤沢を殺す。止められるものなら止めてみせろ」
千奈美は手のひらの弾丸を眺めた。それを渡された意味を理解する。
慧は再び二本の刀を引き抜いた。千奈美の背後にある屋上へ続く階段に、悠然と歩んでいく。
「あたしは撃つよ。慧、今度こそ本当に死ぬよ」
「そう思うなら試してみろ。俺は絶対に死なない。死ねない理由がある限り」
弾丸を握る千奈美の拳が淡い緑色に輝く。慧は足を止めた。
千奈美は一歩、また一歩と、背後の階段を守るように後退する。
「……いいよ、そんなに死にたいなら、私が殺してあげる」
千奈美の放つ光が一息に強烈となる。薄闇に沈む部屋を曇りなく照らす。
部屋全体が、鮮やかな緑色の海に飲まれたかのようだ。
「前みたいに出し惜しみはしないから。慧が私と一緒にいてくれた時間は長かった。それは忘れられない思い出だし、その時間を私は幸せに感じてた。だからこそ、裏切られてきつかった。私の感じた痛みがどれだけのモノだったか、最後に教えてあげるよ」
燦然たる光をまとう拳を突き出す。その先にある虚空に、一冊の本が現れる。風もないのにページが勝手に捲れていく。
「第一六宝典魔術――」
千奈美の集中が始まると、宝典の燐光は緑から灰に変化した。
昨日、ヘリから降下した彼女が放っていた色と同じ色。その灰色は鮮やかで、美しいとさえ感じる輝きで場を支配する。
慧は足を前後に肩幅ほどに開く。両腕を身体の正面で交差させ構える。
左は逆手、右は順手であるがため、それぞれの直刀は天地を指した。呼吸を整え、訪れる時を待つ。
感覚が研ぎ澄まされ温度の変化に敏感となった慧は、室温が徐々に下がっていることに気づいた。冷たい秋の夜風より、わずかに冷える程度の違和感。そんな些細な変化も、覚醒した彼は見逃さない。
宝典から溢れる灰色の中心に、星のような煌きが生じる。発動まで間もない。
ふと彼の脳裏に、フリーフロムに入ったばかりの頃のとある情景が浮かぶ。
敵に宝典魔術師がいると知った構成員たちが、口々に弱音をこぼしていた。
曰く、ナイフでは銃に勝てない。曰く、銃でも異能には勝てない。曰く、無理なものは無理で、奪う相手は自分より弱くなくてはならない。
そうやって他の誰でもなく自分を説得させる者たちを、彼は嫌になるほど見てきた。
彼自身にも、そんな情けない時期があった。
――その魔術で殺そうとするのか。
魔術は術者の心の写し鏡。第一六宝典魔術が示す意味を、慧は自分なりに解釈する。
灰色に染まる室内。慧の右目が翠緑の宝石を彷彿とさせる光沢を帯びる。
長い歳月をかけて磨き上げた力は、この瞬間のために。
「――イロウシェン・アンダルサイト」
術名の宣言と共に宝典が霧散した。煌きが散乱する。
束の間、散らばった粒子は握られた千奈美の拳に収束する。黄金の弾丸が灰色の燐光をまとう。
外した拳銃のシリンダーに、魔術を込めた弾を装填する。
薄闇を照らしていた光源を喪失する。暗くなった室内、闇に潜む円形の深淵が慧を捕捉する。彼も狙う銃口を注視した。全身に張り巡らされた神経に意識を向ける。
不安はなかった。
深閑とした闇に、火薬の炸裂音が反響した。
慧の全身を巡る感覚が一斉に反応する。彼の鼻は数メートル先の炸裂したばかりの火薬を嗅ぎ取り、両腕は得物を落とす寸前まで脱力する。耳は聴こえた音から間合いを計り、翠緑色に煌く瞳が、迫る脅威の弾道を正確無比に予測する。
左足を引いて半身になる。二本の刀を、獲物を捕食する肉食獣のごとく上下に開く。
一筋の灰色の閃光が奔った。
撃鉄が下りて弾着まで、瞬く間さえもなかった。起きた出来事を物語るのは、慧の背後にある壁面。灰色の氷山が二箇所。彼の後方にそびえて冷気を漂わせる。
常軌を逸した速度で振り抜かれた両手の刃が真空を生み、空間ごと魔術を裂き、ついでに弾丸も両断した。
魔術を破る秘策として慧が会得した技だった。
慧は異能を使い果たした。右目の輝きが消失する。千奈美は幻でも眺めるように立ち竦む。
彼女に向かい、彼は武器を手にしたまま歩み寄る。
「アンダルサイトもサファイアも、誰かを信じるという石言葉を持つ。扱える魔術には理由があるなんて知らなかっただろ? だがどうやらそうらしい。まだ誰かを信じているから、以前と同じようにその魔術を使うことができる。お前は、誰を信じている」
返答はない。千奈美の唇が震える。
「もう迷わなくていい。一緒にやり直そう。ここを抜けたって千奈美は一人じゃない。俺がついている。俺はもう、お前のもとから離れたりしない」
俯く彼女の表情は、光源の失せた暗闇では窺えない。どんな感情を抱えているか察することもできないが、彼は歩みを止めなかった。
「くるなッ!」
静止する声が叫ばれようと、彼の鉄の意思は曲がらない。
「そうはいかない。千奈美の言うとおりだ。俺は相談じゃなく強制すべきだった。同じ間違いは繰り返さない。たとえ嫌われようが、お前が幸せに暮らせる場所に連れていく」
「遅いよっ! もっと前に言ってくれたら変わったかもしれないのにっ! そうしたらこんな方法じゃなくたって良かったかもしれないのに! もう無理なんだよっ! 私にだって守りたいモノがある! それを壊そうとする慧は許せないっ!」
「……そうか」
千奈美の足は、地に根を張っているように動かない。戦闘中の勇ましさからは想像できないほどに弱々しい。
それは勘違いだと、すぐに気づいた。
彼女は戦っている最中も傷だらけだったのだ。痛みに耐えるために憎悪や怨嗟を増幅させただけ。慧に刃を向けられるよう自身に暗示をかけていたに過ぎない。
その憎しみの感情が、元に戻らないほどに育ってしまったのだと悟った。
もはや言葉は通じない。行動も無意味だ。
彼は、決めた。
千奈美の言ったように、彼は選択を誤った。
望み通りの結末を迎えられないのはしかたがない。こうなる可能性を、彼は何度も考えた。事前に想像が及んでいたのだから、平凡な末路といえる。
脳裏に蘇るのは、鏡花に問われた言葉。
『もう一度九条さんを説得して、それでもついていけないってなったら、上倉くんは彼女をどうするつもりですか?』
慧は足を踏み出す。
「来ないでっ! お願い、お願いだから……ッ!」
千奈美の肩が震え、狼狽を悲痛に訴える。
抜き身の刃を持つ彼は動じない。徐々に彼女との距離を詰める。
慧の思考を支配するのは、彼女を救うと決めた日から揺らがなかった決意。
どうあっても千奈美が離れられないのなら、そのときは、
――そのときは、俺が千奈美を、
――殺す。
閉ざしていた唇を開くが、声が出ない。喉に綿を詰められているかのよう。
彼が喋る前に、千奈美は視線を逸らした。
「帰って。私は追わないから」
どうあっても慧を殺そうとしていた千奈美が、諭すように言った。
彼女にとって最大限の譲歩だった。見逃す代わりに、自分と藤沢を見逃せと。
大切な人にようやく心が通じて、慧は握っていた刀を鞘に納めた。
だが、それだけで退くつもりはない。彼は足元に散らばる薬莢の一つを摘み、千奈美目掛けて放り投げる。
どういうつもりか理解できず、千奈美は慧に目を合わせる。彼女の少し困った様子とは対照的に、慧は決然とした眼差しで見つめ返す。
「俺は退くわけにはいかない。藤沢は、この手で終わらせる」
「それで私も引き抜こうって言うの? ワガママだよ」
「ワガママを通すだけの力はつけてきたつもりだ。俺は藤沢を殺す。止められるものなら止めてみせろ」
千奈美は手のひらの弾丸を眺めた。それを渡された意味を理解する。
慧は再び二本の刀を引き抜いた。千奈美の背後にある屋上へ続く階段に、悠然と歩んでいく。
「あたしは撃つよ。慧、今度こそ本当に死ぬよ」
「そう思うなら試してみろ。俺は絶対に死なない。死ねない理由がある限り」
弾丸を握る千奈美の拳が淡い緑色に輝く。慧は足を止めた。
千奈美は一歩、また一歩と、背後の階段を守るように後退する。
「……いいよ、そんなに死にたいなら、私が殺してあげる」
千奈美の放つ光が一息に強烈となる。薄闇に沈む部屋を曇りなく照らす。
部屋全体が、鮮やかな緑色の海に飲まれたかのようだ。
「前みたいに出し惜しみはしないから。慧が私と一緒にいてくれた時間は長かった。それは忘れられない思い出だし、その時間を私は幸せに感じてた。だからこそ、裏切られてきつかった。私の感じた痛みがどれだけのモノだったか、最後に教えてあげるよ」
燦然たる光をまとう拳を突き出す。その先にある虚空に、一冊の本が現れる。風もないのにページが勝手に捲れていく。
「第一六宝典魔術――」
千奈美の集中が始まると、宝典の燐光は緑から灰に変化した。
昨日、ヘリから降下した彼女が放っていた色と同じ色。その灰色は鮮やかで、美しいとさえ感じる輝きで場を支配する。
慧は足を前後に肩幅ほどに開く。両腕を身体の正面で交差させ構える。
左は逆手、右は順手であるがため、それぞれの直刀は天地を指した。呼吸を整え、訪れる時を待つ。
感覚が研ぎ澄まされ温度の変化に敏感となった慧は、室温が徐々に下がっていることに気づいた。冷たい秋の夜風より、わずかに冷える程度の違和感。そんな些細な変化も、覚醒した彼は見逃さない。
宝典から溢れる灰色の中心に、星のような煌きが生じる。発動まで間もない。
ふと彼の脳裏に、フリーフロムに入ったばかりの頃のとある情景が浮かぶ。
敵に宝典魔術師がいると知った構成員たちが、口々に弱音をこぼしていた。
曰く、ナイフでは銃に勝てない。曰く、銃でも異能には勝てない。曰く、無理なものは無理で、奪う相手は自分より弱くなくてはならない。
そうやって他の誰でもなく自分を説得させる者たちを、彼は嫌になるほど見てきた。
彼自身にも、そんな情けない時期があった。
――その魔術で殺そうとするのか。
魔術は術者の心の写し鏡。第一六宝典魔術が示す意味を、慧は自分なりに解釈する。
灰色に染まる室内。慧の右目が翠緑の宝石を彷彿とさせる光沢を帯びる。
長い歳月をかけて磨き上げた力は、この瞬間のために。
「――イロウシェン・アンダルサイト」
術名の宣言と共に宝典が霧散した。煌きが散乱する。
束の間、散らばった粒子は握られた千奈美の拳に収束する。黄金の弾丸が灰色の燐光をまとう。
外した拳銃のシリンダーに、魔術を込めた弾を装填する。
薄闇を照らしていた光源を喪失する。暗くなった室内、闇に潜む円形の深淵が慧を捕捉する。彼も狙う銃口を注視した。全身に張り巡らされた神経に意識を向ける。
不安はなかった。
深閑とした闇に、火薬の炸裂音が反響した。
慧の全身を巡る感覚が一斉に反応する。彼の鼻は数メートル先の炸裂したばかりの火薬を嗅ぎ取り、両腕は得物を落とす寸前まで脱力する。耳は聴こえた音から間合いを計り、翠緑色に煌く瞳が、迫る脅威の弾道を正確無比に予測する。
左足を引いて半身になる。二本の刀を、獲物を捕食する肉食獣のごとく上下に開く。
一筋の灰色の閃光が奔った。
撃鉄が下りて弾着まで、瞬く間さえもなかった。起きた出来事を物語るのは、慧の背後にある壁面。灰色の氷山が二箇所。彼の後方にそびえて冷気を漂わせる。
常軌を逸した速度で振り抜かれた両手の刃が真空を生み、空間ごと魔術を裂き、ついでに弾丸も両断した。
魔術を破る秘策として慧が会得した技だった。
慧は異能を使い果たした。右目の輝きが消失する。千奈美は幻でも眺めるように立ち竦む。
彼女に向かい、彼は武器を手にしたまま歩み寄る。
「アンダルサイトもサファイアも、誰かを信じるという石言葉を持つ。扱える魔術には理由があるなんて知らなかっただろ? だがどうやらそうらしい。まだ誰かを信じているから、以前と同じようにその魔術を使うことができる。お前は、誰を信じている」
返答はない。千奈美の唇が震える。
「もう迷わなくていい。一緒にやり直そう。ここを抜けたって千奈美は一人じゃない。俺がついている。俺はもう、お前のもとから離れたりしない」
俯く彼女の表情は、光源の失せた暗闇では窺えない。どんな感情を抱えているか察することもできないが、彼は歩みを止めなかった。
「くるなッ!」
静止する声が叫ばれようと、彼の鉄の意思は曲がらない。
「そうはいかない。千奈美の言うとおりだ。俺は相談じゃなく強制すべきだった。同じ間違いは繰り返さない。たとえ嫌われようが、お前が幸せに暮らせる場所に連れていく」
「遅いよっ! もっと前に言ってくれたら変わったかもしれないのにっ! そうしたらこんな方法じゃなくたって良かったかもしれないのに! もう無理なんだよっ! 私にだって守りたいモノがある! それを壊そうとする慧は許せないっ!」
「……そうか」
千奈美の足は、地に根を張っているように動かない。戦闘中の勇ましさからは想像できないほどに弱々しい。
それは勘違いだと、すぐに気づいた。
彼女は戦っている最中も傷だらけだったのだ。痛みに耐えるために憎悪や怨嗟を増幅させただけ。慧に刃を向けられるよう自身に暗示をかけていたに過ぎない。
その憎しみの感情が、元に戻らないほどに育ってしまったのだと悟った。
もはや言葉は通じない。行動も無意味だ。
彼は、決めた。
千奈美の言ったように、彼は選択を誤った。
望み通りの結末を迎えられないのはしかたがない。こうなる可能性を、彼は何度も考えた。事前に想像が及んでいたのだから、平凡な末路といえる。
脳裏に蘇るのは、鏡花に問われた言葉。
『もう一度九条さんを説得して、それでもついていけないってなったら、上倉くんは彼女をどうするつもりですか?』
慧は足を踏み出す。
「来ないでっ! お願い、お願いだから……ッ!」
千奈美の肩が震え、狼狽を悲痛に訴える。
抜き身の刃を持つ彼は動じない。徐々に彼女との距離を詰める。
慧の思考を支配するのは、彼女を救うと決めた日から揺らがなかった決意。
どうあっても千奈美が離れられないのなら、そのときは、
――そのときは、俺が千奈美を、
――殺す。
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