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第31話
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――なんなの、あの女。
アジトに帰還した千奈美は、慧の殺害を阻んだ長髪の女性を思い出す。
彼女さえいなければ完遂できた。終わりにできたはずなのに。
思いに耽れば、怨嗟は深さを増すばかり。
――違う。
邪魔されて苛立つ千奈美だが、目を背けてはならない事実もある。
殺せなかったのは、妨害だけが理由ではない。
最後に銃を向けたとき、彼女は彼を撃ち抜けた。
当たらなかったのではない。当てなかったのだ。彼女が、彼女自身の意志で拒んだから。
言い訳はあった。それが言い訳にならないともわかっていた。
鏡花に余計なことを指摘され、感情が蘇ってしまったのだ。
殺したい欲に嘘はない。恩人を最悪の形で裏切った彼への憎しみは深い。
だが八年間という時間は長すぎた。彼と育んだ思い出のすべてが偽りで、無価値なゴミ。そう決めて千奈美は忘れようとしたが、数日で記憶から消えるほど浅くはなかった。
初対面の鏡花は、千奈美が捨てようとする感情を見透かした。大切なモノであるはずだと、思いださせた。
鏡花さえいなければ、慧への想いが蘇ることもなかった。
――それも、違う。
割り当てられた部屋のベッドに座り、千奈美は古びた電灯の下でかぶりを振る。
認めたくないが、認めなくてはならない。
忘れられるわけがないのだ。
千奈美の胸に渦巻く慧への憎悪は本物だ。彼を消してしまいたい。胸の内から湧き上がる殺害欲求が、繰り返し彼女を刺激する。
彼の殺害は藤沢のためになる。ならば、千奈美の選択も決まっている。
彼を殺しても、過去の幸せまでがなくなるわけではない。それに気づけなかったから迷ったのだと、千奈美は自己を分析した。結果的に殺しあう関係となってしまったが、彼の生涯の全部を憎むことはない。
何もかも否定しようとしたから、矛盾に迷った。鏡花はその弱点を的確に見抜いた。
――得体の知れない奴……。
AMYサービスに寝返った慧の隣には、いつも鏡花がいる。
新たなアジトを偵察に来たときも、慧を急襲したときも、彼女は慧のそばに立っていた。AMYサービスの本拠地で慧に向けられた刀も、鏡花が彼に手渡した。
フリーフロムにいた頃、慧の隣にいたのは千奈美だ。彼を守ることもサポートすることも千奈美の役目だった。彼女はその立場が好きだった。心の支えになってくれる慧に、恩返しができている気がしていたから。
だけど、本当はもっと単純。ただ隣にいるだけで嬉しかった。
それなのに、鏡花は何食わぬ顔で代わりを務めている。慧も彼女には心を許している。千奈美はそう決めつけずにはいられない。でなければ、常にそばに置くなんてありえない。
ともすれば、男女の間に芽生える特別な感情さえも――
「ふざけないで……ッ」
頭に浮かんだあまりに許せない可能性。耐えるように握られる千奈美の拳が軋む。
呻き声をあげた。行き場のない怒りを抑えようと額を両手で抱え込む。
――……認めよう。
慧には未練がある。慧を殺す覚悟が足りていない。
彼に対する本心を認める。そのうえで、決意しなければならない。
彼女の知る慧はどこにもいなくなった。彼は変わってしまい、戻ることはない。
独りになってもいい。本来なら失われていたはずの命。なにかを手に入れられるほど、自由を許される立場ではない。
生涯をフリーフロムに尽くす。恩人のためにも、それ以外にありえない。
恩人の脅威となる裏切り者の首は狩るしかない。
彼に、愚かな選択を後悔させるためにも。
千奈美はベッドから立ち上がる。安価な木製の机に置かれていたナイフを手に取り、ホルダーから刃を抜く。鈍く輝く刀身に彼女の瞳が映った。
その瞳は、歪んでもいなければ笑ってもいない。標的を殺すという目的を遂げるためだけに在るようだ。
今日の深夜には、各地に散らばるフリーフロムの構成員が本拠地に集結する。しかし藤沢は当初の予定を変更して、あさっての早朝に総力を挙げてAMYサービスの邸宅を奇襲すると決めた。雇った傭兵の到着が明日となるためだ。
千奈美でも仕留めきれない相手が敵にいるならば、フリーフロムのみでは不安がある。武器はあれども、宝典魔術師は千奈美しかいないのだ。やむを得ず藤沢は計画の変更に踏み切った。
いずれにしても、襲撃の際に慧と千奈美は対峙する。
――もう、同じ失敗は繰り返さない。
千奈美は後頭部に手をまわす。髪をまとめていたゴムを外した。ほどけた髪から汗の臭いが広がる。構わず握り束にして、ナイフを下から当てる。
決別のためだ。
慧が変わってしまったのなら、自分も変わらなければならない。
慧の知る姿でなくなれば、迷いを完全に断ち切れる気がした。
――……。
彼女はナイフを動かさなかった。
束ねていた髪を解放する。指の隙間から、一本一本が流れ落ちる。
手にしていたナイフをホルダーに戻し、元あった場所に置いた。
形にしなければ気が済まないなんて情けない。千奈美は自分の弱さに嫌気がさした。
そんなことをせずとも、もう迷ったりはしない。
掲げた決意は揺らがない。
入口のドア付近にあるスイッチを押して、千奈美は部屋を消灯した。ベッドに身体を預ける。
昨夜と同じく、今日も眠れそうになかった。
アジトに帰還した千奈美は、慧の殺害を阻んだ長髪の女性を思い出す。
彼女さえいなければ完遂できた。終わりにできたはずなのに。
思いに耽れば、怨嗟は深さを増すばかり。
――違う。
邪魔されて苛立つ千奈美だが、目を背けてはならない事実もある。
殺せなかったのは、妨害だけが理由ではない。
最後に銃を向けたとき、彼女は彼を撃ち抜けた。
当たらなかったのではない。当てなかったのだ。彼女が、彼女自身の意志で拒んだから。
言い訳はあった。それが言い訳にならないともわかっていた。
鏡花に余計なことを指摘され、感情が蘇ってしまったのだ。
殺したい欲に嘘はない。恩人を最悪の形で裏切った彼への憎しみは深い。
だが八年間という時間は長すぎた。彼と育んだ思い出のすべてが偽りで、無価値なゴミ。そう決めて千奈美は忘れようとしたが、数日で記憶から消えるほど浅くはなかった。
初対面の鏡花は、千奈美が捨てようとする感情を見透かした。大切なモノであるはずだと、思いださせた。
鏡花さえいなければ、慧への想いが蘇ることもなかった。
――それも、違う。
割り当てられた部屋のベッドに座り、千奈美は古びた電灯の下でかぶりを振る。
認めたくないが、認めなくてはならない。
忘れられるわけがないのだ。
千奈美の胸に渦巻く慧への憎悪は本物だ。彼を消してしまいたい。胸の内から湧き上がる殺害欲求が、繰り返し彼女を刺激する。
彼の殺害は藤沢のためになる。ならば、千奈美の選択も決まっている。
彼を殺しても、過去の幸せまでがなくなるわけではない。それに気づけなかったから迷ったのだと、千奈美は自己を分析した。結果的に殺しあう関係となってしまったが、彼の生涯の全部を憎むことはない。
何もかも否定しようとしたから、矛盾に迷った。鏡花はその弱点を的確に見抜いた。
――得体の知れない奴……。
AMYサービスに寝返った慧の隣には、いつも鏡花がいる。
新たなアジトを偵察に来たときも、慧を急襲したときも、彼女は慧のそばに立っていた。AMYサービスの本拠地で慧に向けられた刀も、鏡花が彼に手渡した。
フリーフロムにいた頃、慧の隣にいたのは千奈美だ。彼を守ることもサポートすることも千奈美の役目だった。彼女はその立場が好きだった。心の支えになってくれる慧に、恩返しができている気がしていたから。
だけど、本当はもっと単純。ただ隣にいるだけで嬉しかった。
それなのに、鏡花は何食わぬ顔で代わりを務めている。慧も彼女には心を許している。千奈美はそう決めつけずにはいられない。でなければ、常にそばに置くなんてありえない。
ともすれば、男女の間に芽生える特別な感情さえも――
「ふざけないで……ッ」
頭に浮かんだあまりに許せない可能性。耐えるように握られる千奈美の拳が軋む。
呻き声をあげた。行き場のない怒りを抑えようと額を両手で抱え込む。
――……認めよう。
慧には未練がある。慧を殺す覚悟が足りていない。
彼に対する本心を認める。そのうえで、決意しなければならない。
彼女の知る慧はどこにもいなくなった。彼は変わってしまい、戻ることはない。
独りになってもいい。本来なら失われていたはずの命。なにかを手に入れられるほど、自由を許される立場ではない。
生涯をフリーフロムに尽くす。恩人のためにも、それ以外にありえない。
恩人の脅威となる裏切り者の首は狩るしかない。
彼に、愚かな選択を後悔させるためにも。
千奈美はベッドから立ち上がる。安価な木製の机に置かれていたナイフを手に取り、ホルダーから刃を抜く。鈍く輝く刀身に彼女の瞳が映った。
その瞳は、歪んでもいなければ笑ってもいない。標的を殺すという目的を遂げるためだけに在るようだ。
今日の深夜には、各地に散らばるフリーフロムの構成員が本拠地に集結する。しかし藤沢は当初の予定を変更して、あさっての早朝に総力を挙げてAMYサービスの邸宅を奇襲すると決めた。雇った傭兵の到着が明日となるためだ。
千奈美でも仕留めきれない相手が敵にいるならば、フリーフロムのみでは不安がある。武器はあれども、宝典魔術師は千奈美しかいないのだ。やむを得ず藤沢は計画の変更に踏み切った。
いずれにしても、襲撃の際に慧と千奈美は対峙する。
――もう、同じ失敗は繰り返さない。
千奈美は後頭部に手をまわす。髪をまとめていたゴムを外した。ほどけた髪から汗の臭いが広がる。構わず握り束にして、ナイフを下から当てる。
決別のためだ。
慧が変わってしまったのなら、自分も変わらなければならない。
慧の知る姿でなくなれば、迷いを完全に断ち切れる気がした。
――……。
彼女はナイフを動かさなかった。
束ねていた髪を解放する。指の隙間から、一本一本が流れ落ちる。
手にしていたナイフをホルダーに戻し、元あった場所に置いた。
形にしなければ気が済まないなんて情けない。千奈美は自分の弱さに嫌気がさした。
そんなことをせずとも、もう迷ったりはしない。
掲げた決意は揺らがない。
入口のドア付近にあるスイッチを押して、千奈美は部屋を消灯した。ベッドに身体を預ける。
昨夜と同じく、今日も眠れそうになかった。
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