世界を統べる禁忌

のーが

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目覚め

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 目が覚めると固い床に横たわっていた。薄っすらと開いた瞼に微弱な明かりが差し込む。眠る前の記憶が何も思い出せない違和感を抱えながら、床についた手を支えに身体を起こした。
 広々とした空間だった。収容人数で測れば、百や二百程度ではなく千人は収まれるほど。単に広いという表現で済ませるには広すぎるかもしれない。

 天井が低いと感じたが、そうではない。身体そのものが地上から離れた高い位置にある。眼下には長い階段が続き、ここは祭壇のような高台の頂上らしかった。

 段々と頭が冴えてくる。周囲を確認すると、部屋の壁も床も天井も巨大な石で造られていた。陽の光がないのに明るいのは、石の隙間から光が漏れているから。微かな明かりでも、自分のいる場所を視認するには充分だ。
 密室に見えた部屋の奥に、一ヶ所だけ壁の切れ目があった。この部屋の出入口だろう。想像するに、自分はあそこから入ってきて、祭壇を登ったところで眠ってしまったのだ。

 ……なぜ?

「なにも思い出せねぇ……」

 目の前に広がる異質な空間に対する感想以外、何も考えられない。
 記憶の引き出しが1つも見当たらない。

 記憶喪失というやつか。自分の名前くらいは覚えていると踏んだが、脳裏に浮かんだのは妙な単語だけだった。

「ラグナロク……?」

 名前を思い出そうとして浮かんだ言葉だから、それが自分の名前……? 理由はわからないが腑に落ちない。わからないのだから、拘る必要もないのかもしれないが。
 いったい自分は何者なのか。他人の身体を観察するような妙な気分で、手足を動かしながら自分の身体を観察する。
 男なのに黒い髪は女性のように長く、服装は紺のスラックスに白いカッターシャツ、さらに上からベストを着てネクタイまで締めているときた。ビジネスマンだったのか? こんな石造りの迷宮でどんなビジネスチャンスがあるというのか。個人の記憶が失くとも世界の常識は頭にある。こんな殺風景な場所、およそビジネスの場として使われる環境ではない。

 とにかくここを出よう。祭壇の階段に足をかけ、黒い革靴の立てる甲高い反響と共に視野をおろし、気づいた。
 階下に人が倒れている。
 なにか事情を知っているかもしれない。縋るように期待して、跳ねるように段をおりた。

「大丈夫か、お前。生きてるか?」

 生きていてもらわないと困る。近くで倒れているのだから、自然に考えれば無関係であるはずがない。
 倒れているのは女性だった。滑らかな銀髪は金の装飾の入った髪飾りでまとめられ、着ている薄い青の羽衣は上等そうな素材で作られている。いかにも育ちの良さそうなお嬢様で、絵に書いたような上流階級の外見。きっと品行方正で清廉潔白……なんて、自分の記憶はないくせに他人への感想はぽんぽんと浮かんできた。

 自分は彼女に連れてこられたのか。しかし体重は軽そうだ。成人男性を運ぶのは不可能と断言できるくらいに線が細い。ならば逆で、自分が彼女を連れてきたのだろうか。いずれにしても、話を聞かなければ始まらない。
 口元に耳を近づける。呼吸はしているようで、まず安心した。華奢な肩に触れてゆすってみる。

「いい加減起きろ。起きて俺に説明しろ。ほら、ほらほら……ほら起きろって!」

 必死に起こそうとしているのに寝顔が緩み、つい声が荒くなった。感情を表に出しているようではビジネスマンとして失格だ。……まぁ、本当にビジネスマンかどうかわからないし、別に失格で構わないけども。

 女性の瞼がぴくりと動き、ゆっくりと開いた。
 煌めきを帯びた明るく大きな瞳がキョロキョロと右往左往して、隣に腰をおろす男を見つけた。

「……だれですの? 執事?」
「ああ、それがあったな。執事かもしれねぇな」

 やはり他人との情報交換は重要だ。自分の盲点にも気がつける。

「俺が執事としたら、お前が俺のお嬢様か? 見たところ、そういう関係でも違和感なさそうだしよ」
「私……? 私は……」

 嫌な間だった。
 主従の関係なら一緒にいる状況にも納得できたのに即答がない。彼女の服は東洋風で、自分が彼女の執事なら着てる服も同じ東洋の物でありそうだが、残念ながらコレは西洋風に分類される衣服である。とはいえ現代は文化が多様化している。カッターシャツにベストのフォーマルな男が東洋のお嬢様の執事をしていてもさほど不思議ではない。
 不思議ではないはずだ。

「……なにも思い出せませんわ」

 石造りの天井を仰いだ。
 神様がいるのなら、今すぐ天界からおりてきて事情を説明してほしい。

「あなたが私を連れてきたんですの?」
「そう言うと思ったよ。残念ながらノーだ。ついでに答えとくと、ここがどこでなんでお前と二人だけでいるのかも知らないし、なんなら俺も記憶喪失だ」

 手短に説明した。彼女は固い床に立ち、周りを見回す。

「そこの階段の上に俺がいて、お前は下にいた。俺のほうが特別って感じがするよな? お嬢様と執事なのに」
「え、ええ、そうですわね……。本当に何も思い出せないなんて……こんなことありますの?」
「まったく同感だ。それも二人同時になんてな。名前はどうだ?」
「名前……」

 これも怪しそうだ――そう思ったが、細い眉根を寄せていた彼女の顔が明るくなった。曇り空が晴れるように。

「バレリア! ホーコ・バレリアですわ!」
「名前は覚えてんだな。他には?」

 ホーコは額に手を当て呻き声を漏らして考え込む。今度はさっきのように閃けない様子だ。
 数秒経って、彼女の全身から一斉に力が抜けた。

「ほ、ほかには……。で、ですが! 少ししたら思い出すでしょう。そんな、なにもかも忘れるなんて記憶喪失じゃあるまいし」
「記憶喪失以外のなんでもないだろ。二人同時ってのがあまりに不思議で意味わかんねぇけど。いや、一人でも充分わけわかんねぇか」
「あなた、私の執事なのに言葉遣いが乱暴すぎません?」
「んなのどうだっていいだろ。自然とこう話しちまうんだよ。だいたいお前の執事って確定したわけでもねぇし」
「たとえ違うとしても品がなさすぎますわ。私と一緒にいるなら気をつけてください」
「守る義理はねぇな。執事でなければ対等な関係だろ? だったら俺の話し方だって変じゃない。受け入れるんだな」
「譲らない方ですわね。まぁ、いいですわ。品のない方と評価させてもらいますけど」
「好きにしろよ。てか、こんな俺たちが主従の関係だったわけねぇだろ。なんなんだ、いったい」

 どこかもわからない場所で二人同時に記憶を失くし、何をどうすれば記憶を取り戻せるか手がかりもない。二人にできるのは、まずこの謎の空間からの脱出を目指すくらい。

「あなた、名前は? 私だけ教えるのは変でしょう?」

 確かに名乗っていなかった。
 ホーコと違って自分は名前すらも忘れている。正確には馴染みのない五文字の単語は覚えているが、それはどうにも自分の名前としてしっくりこない。

「……ラーグだ。俺も自分の名前以外は思いだせない」

 だとしても他にそれらしい名前も思い出せず、結局は『ラーグ』を当面の自分の名前とした。おそらく別にある本当の名前を思い出せるまでの一時的な名前。呼ばれたら反応できるよう、暫くは常に意識しておく必要がありそうだ。
 ラーグもまた壊滅的な記憶喪失と知ったホーコの表情が固まっていた。途方に暮れるのも当然だろう――と思ったが、意外にも彼女は微笑を見せた。

「でも、きっとそのうち思い出しますわ。手がかりがないなら悩んでも仕方ありませんもの。これから、ラーグさんはどうしますの?」
「お前と同じで動きようがねぇよ。とりあえず、あそこから出てみるか?」

 指で示された先を見てホーコが感嘆の息をこぼす。

「出口があるなら早く言ってくださればいいのに」
「まだ自分の置かれた状況もわかってねぇのに迂闊に動けるかよ。どのみち行くアテだってねぇだろ」
「いいえ、行動しなければ始まりませんわ。安心なさい、何か掴めばラーグさんにも教えてさしあげますので」
「そりゃありがてぇ。大いに期待して待つとしよう。そこに落ちてる物騒なもんがありゃ安心だろ。お前の持ち物じゃねぇのか?」

 ホーコが倒れていた近くに、変わった形の銃が落ちていた。

「特殊な銃のようですわね。妙に手に馴染みますわ…………ミョルニル」

 武器を拾ったホーコは、本来であれば撃鉄が位置する部位に嵌められた宝石に流れるように手を重ね、謎の単語を放つ。
 いや、謎ではなかった。一瞬遅れてラーグの思考に、ホーコの言った単語の意味が知識として割り込んだ。
 ミョルニルとは特別な力を発動するため宣言。ホーコがその単語を放った直後、撃鉄代わりの宝石が紫の色に染まった。

「いきなり何してんだ! 撃つならあっちに撃てよ!」
「あっちってどっち!?」
「俺のいねぇ方ならどこでもいいって!」
「それくらい言われなくてもわかりますっ! いきますわよ……!」

 トリガーハッピーなんて言葉がある。乱射はしていないが、今のホーコはそれに近しい。銃を持ってはいけない人種に思うが、そういう奴に限って銃を好むのかもしれない。
 口元の緩む横顔を晒して、ホーコが銃口を斜め上の虚空に向ける。引き金が引かれ、薄暗い空間で稲妻のような閃光が瞬いた。放たれたのは弾丸ではなく雷光。ラーグの顔が思わず引きつった。どうやら自分は大変な世界で生きていたらしい。
 馬鹿げた威力の稲妻を放出したホーコが恍惚とした顔で振り返る。

「見ましたラーグさん⁉ ヤバいですわこの銃!」
「やべぇのはお前だろ! なんでそんな危ねぇもん持ってんだよ!」
「そこは記憶喪失だからわかりませんけど、自然と扱えるのですから私の所有物に間違いありませんわね。コレがあれば恐れるものなどありません。私にお任せなさい!」
「羨ましい性格してんな。ここがどこかもわからねぇんだから、気を抜くなよ」
「ご心配感謝いたします。ラーグさんはここで待っていてくださいまし」

 駄目だ、完全に調子に乗っている。せっかく忠告したのに守られそうになかった。
 が、そこまで不安に感じる必要もないだろう。どれだけ眠っていたかは不明だが、ラーグとホーコが無傷で寝ていられる環境だったのだ。少し移動した程度で危険があるとは思えない。

 奥の階段を目指して、東洋のドレスの裾がひらひら揺れて遠ざかっていく。自分は現代的なスラックスとカッターシャツなのに、相方が伝統衣装とはどういう組み合わせなんだ。まったく理解困難で、考えても答えは出そうにない。
 この世界には武器がある。特殊な能力がある。ならば、争いもある。ラーグの想像を肯定するように、脳裏に人々が異形と戦う光景が浮かんだ。人ではない異形は、モンスターと呼ばれていた。
 眠っていられたのだから周辺にモンスターはいない。ホーコの銃の腕がヘタクソでも、使う機会がないなら心配いらないか。奥の通路を進み小さくなっていくホーコの背中を見ながら、そんな感想を抱く。
 不意に、視界がぐらついた。

「あ、れ――」

 痛みのような前兆もなく、急に身体の支え方がわからなくなる。立っていられなくなる。
 不格好に硬い床に尻をつくが、座っても激しい目眩が改善しない。せめて起こしていた上体を維持する力も込められなくなり、力無く仰向けに倒れた。

 微弱に発光する石の天井が映る。それも一瞬で、重くなった瞼に抗えず、ラーグの視界と意識は闇に覆われた。
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