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サイドストーリー 夏の夜の夢
【夏の世の夢】Bar A Midsummer Night's Dream モヒート
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繁華街から一つ通りを入ったところに、その店はあった。そこだけ温度も音も無かった。
「A Midsummer Night's Dream……今夜にピッタリのお店ですね。常連さんですか?」
「とても、落ち着いたお店なんです。私もまだ数回しか来たことが無いですが、いつか誰かと来れたら良いなと……」
おやと私は一瞬違和感を覚えた。常盤と話すのは、吞み歩きフェスタの打ち上げのたった一回だけだというのに、これではまるでデートのようではないか。長いこと忘れていた感情がふわりと浮上してくる。自分もどうやら真夏の幻想にあてられてしまったようだ。
「それじゃあ、穂高さん、入りましょう」
重たい木製の扉を押して、二人は店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、神河様。今日はお二人ですか? よろしければ、カウンターへどうぞ」
それは美しい男だった。フレームレスの眼鏡に高い鼻梁、切れ長の瞳は冷たい印象を与えそうだが、口元の僅かな微笑みと柔らかな口調がそれを緩和している。
「素敵なお店ですね」
それは世辞では無かった。重厚なカウンターテーブルもほのかに色のついた照明も全てがこのバーテンダーを中心にきちんと調和していた。
「お褒めに預かり恐縮です……わたくし、バーテンダーの陣野と申します。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「穂高です。クラフトビールの醸造をしています」
陣野は左様ですかと答えた。
「それでは一杯目は、やはりビールを?」
「いえ、そうですね……外は暑かったのでモヒートをお願いしても良いですか?」
「かしこまりました。神河様は?」
「私も同じ物を」
それを聞くと陣野は、グラスの中でミントを潰し始めた。爽やかな香りがかすかに漂ってきた。
「あの……モヒートってどんなカクテルなんですか?」
「潰したミントの葉に、ラムとライム、砂糖を加えて炭酸を入れたカクテルですよ。実に夏らしく、穂高様はセンスがよろしいですね」
「いえ、手間がかかるカクテルをすみません」
「このような注文をして下さる方が、腕が鳴りますよ。それにロマンティックなチョイスですね」
「ロマンチック?」
常盤が少し首を傾げると長い黒髪もさらりと流れる。
「ふふふ、それは言わないでおきましょう。さぁ、モヒートです。ご賞味ください」
陣野がそっと鮮やかなミントを添えられたロングカクテルを差し出してきた。彼の飲み込んだ言葉は『心の渇きを癒して』。どういう関係だと思われたのかな。私は表情を変えずに、陣野の方をちらりと見た。鮮やかすぎるポーカーフェイスだった。
「ミントとライムの別々の香りが爽快感を醸し出していて、とても美味しいです」
常盤が驚いて陣野の顔を見た。それに続くように私もモヒートに口をつけた。
「素晴らしい腕をお持ちですね、陣野さん」
「わたくしの腕というより、今日のような陽気だからこそ、ですよ」
陣野が苦笑しながら謙遜した。しかし、腕が良いというのは事実だ。私はしばらくモヒートの清涼感を満喫した。ここは、あの夏の喧騒から隔離された、幻のような空間だった。
常盤が落ち着いきはらいながら、でも少しだけ上ずった声で私に尋ねた。
「穂高さんって、海外を旅されたことがあるって言ってましたよね?」
「ええ、主にヨーロッパですが。あの経験があったから、今の私が存在すると言っても過言ではないですね」
あの異国の地での思い出は忘れることができない。特にドイツではいくつもの醸造所を周り、様々なビールを飲んだ。あの複雑で芳醇な味わい。日本の夏と違う、ちょっと涼しいドイツの夏のある日、私の心を一瞬で虜にした。
「神河さんは、海外旅行の経験は?」
いえと常盤は恥ずかしそうに小声で否定した。私はその様子に少し引っ掛かりを覚えた。別に大学の卒業旅行で海外に行く学生は少なくないとはいえ、決して多いわけではない。にもかかわらず、常盤は、ひどくそのことを恥じているように感じた。
「A Midsummer Night's Dream……今夜にピッタリのお店ですね。常連さんですか?」
「とても、落ち着いたお店なんです。私もまだ数回しか来たことが無いですが、いつか誰かと来れたら良いなと……」
おやと私は一瞬違和感を覚えた。常盤と話すのは、吞み歩きフェスタの打ち上げのたった一回だけだというのに、これではまるでデートのようではないか。長いこと忘れていた感情がふわりと浮上してくる。自分もどうやら真夏の幻想にあてられてしまったようだ。
「それじゃあ、穂高さん、入りましょう」
重たい木製の扉を押して、二人は店内に足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、神河様。今日はお二人ですか? よろしければ、カウンターへどうぞ」
それは美しい男だった。フレームレスの眼鏡に高い鼻梁、切れ長の瞳は冷たい印象を与えそうだが、口元の僅かな微笑みと柔らかな口調がそれを緩和している。
「素敵なお店ですね」
それは世辞では無かった。重厚なカウンターテーブルもほのかに色のついた照明も全てがこのバーテンダーを中心にきちんと調和していた。
「お褒めに預かり恐縮です……わたくし、バーテンダーの陣野と申します。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか?」
「穂高です。クラフトビールの醸造をしています」
陣野は左様ですかと答えた。
「それでは一杯目は、やはりビールを?」
「いえ、そうですね……外は暑かったのでモヒートをお願いしても良いですか?」
「かしこまりました。神河様は?」
「私も同じ物を」
それを聞くと陣野は、グラスの中でミントを潰し始めた。爽やかな香りがかすかに漂ってきた。
「あの……モヒートってどんなカクテルなんですか?」
「潰したミントの葉に、ラムとライム、砂糖を加えて炭酸を入れたカクテルですよ。実に夏らしく、穂高様はセンスがよろしいですね」
「いえ、手間がかかるカクテルをすみません」
「このような注文をして下さる方が、腕が鳴りますよ。それにロマンティックなチョイスですね」
「ロマンチック?」
常盤が少し首を傾げると長い黒髪もさらりと流れる。
「ふふふ、それは言わないでおきましょう。さぁ、モヒートです。ご賞味ください」
陣野がそっと鮮やかなミントを添えられたロングカクテルを差し出してきた。彼の飲み込んだ言葉は『心の渇きを癒して』。どういう関係だと思われたのかな。私は表情を変えずに、陣野の方をちらりと見た。鮮やかすぎるポーカーフェイスだった。
「ミントとライムの別々の香りが爽快感を醸し出していて、とても美味しいです」
常盤が驚いて陣野の顔を見た。それに続くように私もモヒートに口をつけた。
「素晴らしい腕をお持ちですね、陣野さん」
「わたくしの腕というより、今日のような陽気だからこそ、ですよ」
陣野が苦笑しながら謙遜した。しかし、腕が良いというのは事実だ。私はしばらくモヒートの清涼感を満喫した。ここは、あの夏の喧騒から隔離された、幻のような空間だった。
常盤が落ち着いきはらいながら、でも少しだけ上ずった声で私に尋ねた。
「穂高さんって、海外を旅されたことがあるって言ってましたよね?」
「ええ、主にヨーロッパですが。あの経験があったから、今の私が存在すると言っても過言ではないですね」
あの異国の地での思い出は忘れることができない。特にドイツではいくつもの醸造所を周り、様々なビールを飲んだ。あの複雑で芳醇な味わい。日本の夏と違う、ちょっと涼しいドイツの夏のある日、私の心を一瞬で虜にした。
「神河さんは、海外旅行の経験は?」
いえと常盤は恥ずかしそうに小声で否定した。私はその様子に少し引っ掛かりを覚えた。別に大学の卒業旅行で海外に行く学生は少なくないとはいえ、決して多いわけではない。にもかかわらず、常盤は、ひどくそのことを恥じているように感じた。
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