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助っ人登場 龍の再登場

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 翌朝、亀の井と共に甑の用意を始めた。水温が高く、米の量が少ないので蒸気が抜けるのが早いだろう。米の炊ける香りが懐かしい。狸たちもいよいよ出番だとばかりに蔵中を駆け巡ってる。

「甑が上がります!」

 今日からは俺が声を上げる番だった。シャベルを持って上に立つ。米を潰さないように蒸米を掘った。
 最初のうちは高い酒は造り出さない。古米を使った等級の低い酒から徐々に洗米が始まっていく。洗米、浸漬、蒸し掘りをして、麹なら放冷、そして麹室に蒸米を引き込む。三日後には酒母が始まり、そのあと仕込みに入る。約一カ月後、搾られて新酒ができる。こうして徐々に蔵が機能し、蔵人は忙しくなっていくのだ。
 
 十二月になると本格的な醸造期に入った。そこに意外な人物が蔵人としてやってくることになった。

「米澤清龍でっす。これからよろしくっす」

 龍って呼んでくださーいと茶色い頭を軽く下げた。

「今年はさくやひめの醸造も増えて、皆には負担がかかると思う。そこで米澤さんに相談したら三月まで働いてもらうことになった」

 杜氏が、朝の甑が上がる前の短い時間にそう紹介した。

「体力なら自信あるんで、何でも言っちゃって下さい」

 龍は緩く笑った。

 実際、龍はなかなか働き者だった。力仕事も嫌がらずに行うし、行動も機敏で、仕事の覚えも早かった。特に米の搬入時には、見事なフォークリフトの運転技術を見せた。亀の井に教えてもらいながら、やっとのことで搬入していた俺の半分の時間で綺麗に米袋を並べた。自信を無くしていたが、これが逆に作用した。

 十二月の中旬、世間がクリスマスに浮かれ出す時期、杜氏が雪の中とことこと歩いてきた。

「徳明君、空いている時間は稲里君に付いて酛を勉強してください」

 お昼の時、弁当を食べながら稲里にその旨を伝えた。

「よし、俺の修行は厳しいぞ。和についてこられるかな?」
「いきなり酛ってのは出世したな、ゴン」

 山古志が鼻で笑った。

「この蔵人数が少ないから、一人で他の部署もできるようにしとかないとその人が休んだ時に困るでしょ」

 山古志だって酛もできるくせにと末廣が言った。

「ゴンくんは社員だからね。将来的にはもっといろいろ出来るようになっていかなきゃだからね」

 亀の井が笑って俺を見た。原材料処理もまだまだなのに亀の井を差し置いて酛の勉強することに引け目を感じていた。なので、亀の井の言葉に安堵した。

「洗米も随分覚えてきたし、米引くのも慣れてきたので任せて下さい」

 龍も背中を押してくれた。ありがたいなと思いながら白湯を啜った。喉元を温かいものが過ぎ去っていった。
 
 その日の午後、早速白衣姿の稲里が仁王立ちで待ち構えていた。

「今日丁度水麹があるから、覚えてもらおう」

 水麹は仕込みの前の日に仕込み水と乳酸を事前にタンクに仕込んでおく作業を指す。この時、協会酵母を添加して増殖させておく。

「今の杜氏さんは酒によって使う酵母も違うから気をつけてな」
「酵母菌って一種類じゃないのか?」
「まずな、和。酵母っていうのは別に珍しい菌じゃないんだ。この空中にも無数に浮かんでいる。昔々は、それぞれ酒造りを行ってきた蔵には、その蔵特有の酵母が棲みついていたんだ。それを利用して発酵を行っていた。その頃は『酵母』なんていう概念自体なかったんだけどね。それから時が経ち、明治時代に清酒酵母という存在が認知され始める。どこの蔵も自然酵母に頼っていたから品質がバラバラだったんだ。でもってお国は品質改善のために『優良な酵母を純粋培養し、全国の蔵に配布しよう』と考えた。そこで、各地の優良な蔵のもろみから酵母を分離し、収集し始めた。そこから研究が進み、様々な協会酵母が生まれた。伊達酒造みたいに極低温で発酵できるものや、吟醸香の良い酵母とか特色がある。その時代によって、トレンドがあるんだ。うちが使ってるのは協会酵母と自家培養した酵母の二種類」
「そういうことだったのか。すぐそばに酵母っていたんだな」

 その後、出麹された酛麹をタンクの横に用意する。そして各タンクに合わせて温度調整のために断熱材を撒き始めた。

「ここに製造帳があるだろう。ここに予定された温度が書いてあるんだ。各期間、それぞれに合わせて温度を調整していく」

 寒い時はダルにお湯入れてやったり、電球下に入れたりするんだと断熱材をめくって見せた。

「何ワットとか、断熱材何枚巻くとかってどう決めるの?」

 んーと稲里が顎に手を当て数秒悩んで

「勘」

 自信満々にそう言い放った。
 

 翌日の酛掛けが蒸し堀り出されると、俺は稲里にくっついて見ていた。稲里は時折温度を測りながら、手で必死に掻き混ぜる。手櫂という手法らしい。もろみと麹を潰さないようにかつしっかりと混ざるようにするのだが、これが半端なく重いらしい。最後にずぼっとアルミの筒を差し込んだ。

「この中に麹の酵素が入った水が溜まるんだ。それを時々周りにかけてやる」

 ふぅと稲里がため息をついた。

「お疲れ様」
「次は和にもやってもらうから覚悟しておけよ」

 汗だくの稲里が息を荒げてそう言った。

 その日は雪が降り、午後になるとうっすら積もっていた。汗をかいた稲里が

「寒っ」

 と声を上げ、昼になって宿舎に逃げ込んだ。今日はそこに差し入れがあった。鍋に入っていたのは枡川の甘酒だった。枡川は常盤が去った後以前神河酒造で事務を行っている六十過ぎのお婆さんである。枡川の作る甘酒は上、品な甘さで舌触りもよく、とても人気なのだ。

「旨いっすねぇ、甘酒。オレ甘いもん大好きなんすよ」

 龍が嬉しそうに甘酒をお茶碗によそった。龍はお祖母ちゃん子らしく枡川に懐いており、枡川も嬉しいのか度々甘酒が寮に届けられる。
 
 午後になり、洗い物をしていると横にぬっと東郷が立っていた。

「しぼりたてだ」

 と大きめの猪口を渡してきた。

「ああ、上槽終わったんですね。ゴンくん全部飲んじゃだめだよ。皆で利き酒するように東郷さんが持ってきてくれたんだ」

 それじゃあお先にと、許しを得て一口含んだ。

「純米酒らしいバニラを思わせる香りと濃醇で複雑な味わいが出てると思います」
「おお、それっぽく言えるようになってる」
「へぇ、ゴンも言うようになったなぁ」

 洗い物を運んできた山古志も末廣も完全に面白がっている。

「そうそう、今まで『旨い』しか言わないから言えないんだと思ってた」

 通りがかった稲里にまで言われてしまった。

「へぇ、そんな旨い酒なんすか。俺も試して良いすっか?」

 俺は龍に猪口を渡した。

「うお、なんすか、これめちゃ旨じゃないっすか!」
「おーおー、良いリアクションするなぁ。それはな、無濾過、生酒、しぼりたての酒が一番美味い瞬間の状態だ。すると、雑味や色素が吸着され、日本酒に置ける悪臭を取る効果や、火落ちを防止してくれるんだが、良い香味まで取られちまうってこともある。俺はこの瞬間が一番好きだ」

 勿論熟成された酒も味があって旨いと思うがねと山古志が結んだ。

「一月になったらさくやひめも搾り終わるから、どんな酒になるか楽しみだな」

 稲里が龍に言った。うっすと龍が日に焼けた顔に満面の笑みを浮かべた。

「あれ? 今、目の前を何か通りませんでした?」
「いや?」

 龍の質問に皆聞かぬふりをして、それぞれの仕事に戻っていった。
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