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第3楽章 『calando』
3-10.恩師
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懐かしく、温かい。
同時に、ここは私がピアノとの決別を迫られた場所。
かつて師になる筈だった、谷北杏奈さんの自宅、そのレッスン室だ。
今年で丁度、十年ぶり。
母からの二度目の紹介により、またここでレッスンを受けられることが決まって、今日はその初回。
今からでも遅くないかな、と不安気に話していた母に、電話越しに『年齢やキャリアはスタートラインに関係ないわ』と笑う声が聞こえていたこともあって、気持ちは少し落ち着いている。
けれどもやっぱり、ピアノは一度諦めたもの。そして杏奈さんは、その瞬間を直接目の当たりにした、一番最初の人物。
どんな顔をして会えば良いのだろうかと、ここに辿り着いてから不安になった。
家の外観も、周囲の様相も、当時と変わりない。そのまま時間だけが過ぎて行ったように、変化がなかった。
胸が熱くなるのと同時に、それは当時のことを鮮明に思い出させた。
不安と緊張感が一層強くなって、予定の時間が迫っている中でも、インターホンの前で立ち止まってしまう。
何とかして落ち着こうと大きく深呼吸を繰り返すけれど、心臓は速く、五月蠅く打っている。
中からピアノの音が聴こえないということは、私のすぐ前の時間に誰かのレッスンがあったとしても、それだってもう終了しているという証拠。今更引き返せないところに至ってしまっているんだ。
もう一度だけ大きく深呼吸をすると、私は自分の頬を力の限り叩いて鼓舞して、思い切ってインターホンに指を添えた。
「いらっしゃい」
指を押し込みかけたその刹那、懐かしい声が耳に届いた。
ふわりと響いて空気に溶ける優しい声は、あの頃から少しばかり熟れただろうかと思うほど落ち着いているけれど、やっぱり当時から何も変わっていない。
視線を向けた扉の方から、随分と髪の伸びたその人が、こちらを見ている。
あの当時はショートだった髪は、背中に届く程まで伸びている。一段と、赤い縁の眼鏡が似合う容姿になっていた。
「凄い音が聴こえたものだから、何かと思って様子を見に来てみれば――久しぶりね、陽和ちゃん」
「杏奈、さん……」
ぽつりと呟くように応える。
あの日、あの時、この場所での出来事が一層鮮明に蘇ってしまって、言い知れない感覚に襲われるのを抑えることで精一杯になってしまった結果だ。
決別の日から何度か、杏奈さんは様子が気になったからとうちを訪れてくれていた。けれども私は、杏奈さんに会うのが何故か怖くて、顔を見せないようにしていた。
だからこれが、本当に十年ぶりの再会なのだ。
そんな私に、杏奈さんは何を言うでもなく、ただ優しく微笑んでくれた。
杏奈さんにだって、言いたいことの一つや二つ、いやそれ以上に沢山、あることだろうとは思う。それでも微笑みかけてくれた杏奈さんに、私はちゃんと答えないといけない。
もう、ただ尻込みして臆病な子どもではいられない。
「お久しぶりです、杏奈さん」
思ったよりもぎこちなく、硬いものではあったけれど。
はっきりとした声で、歪ながらも笑うことが出来たのは、私自身、それを乗り越えられそうな気がしたからだろうか。
どうしたって怖いものは怖い。ピアノに触れることも、それを人前で出すことも、どれもトラウマのようなものだ。
あれから更に時を経て、私は楽譜を見たままの曲として捉えられるまでになっていた。
その度に見舞われていた気持ち悪さはすっかりなくなっているけれど、あの時のように、また自分が弾けているのだと思い込んでいるだけで、他人にはそう映っていないかもしれない――そう思うと、どうしようもなく怖い。
どういう理由かは分からないけれど、もうしばらくずっと、陽向くんとも会えていない。
怖くて怖くて、今にでもこの場から逃げ出したくもなる。
(怖い…………でも――)
そうならないための強さも、私はもう身に着けている筈だ。
(目標は定めた。夢も決まったんだ)
あとはただ、それに向かって、辿り着く為の用意をするだけ。
ここは、その為の足掛かりなのだ。
ただ臆しているだけでは、陽向くんにも申し訳が立たない。
今度会えた時の為にも。
(ちゃんと見ててね、陽向――)
心の中で語り掛けて、もう一度だけ大きな深呼吸。
強く、はっきりと、自分を奮い立たせるために。
「森下陽和です。本日からまた、よろしくお願いします!」
覚悟の証のようなものだ。私は、大きく頭を下げた。
杏奈さんが今、どんな顔をして私のことを見ているのか――それは分からないけれど、
「ふふっ。寒いでしょう? さあ中に入って。暖房、効かせてあるから」
優しく受け入れ、促してくれた。
その心遣いだけで、私はいくつも救われた。
同時に、ここは私がピアノとの決別を迫られた場所。
かつて師になる筈だった、谷北杏奈さんの自宅、そのレッスン室だ。
今年で丁度、十年ぶり。
母からの二度目の紹介により、またここでレッスンを受けられることが決まって、今日はその初回。
今からでも遅くないかな、と不安気に話していた母に、電話越しに『年齢やキャリアはスタートラインに関係ないわ』と笑う声が聞こえていたこともあって、気持ちは少し落ち着いている。
けれどもやっぱり、ピアノは一度諦めたもの。そして杏奈さんは、その瞬間を直接目の当たりにした、一番最初の人物。
どんな顔をして会えば良いのだろうかと、ここに辿り着いてから不安になった。
家の外観も、周囲の様相も、当時と変わりない。そのまま時間だけが過ぎて行ったように、変化がなかった。
胸が熱くなるのと同時に、それは当時のことを鮮明に思い出させた。
不安と緊張感が一層強くなって、予定の時間が迫っている中でも、インターホンの前で立ち止まってしまう。
何とかして落ち着こうと大きく深呼吸を繰り返すけれど、心臓は速く、五月蠅く打っている。
中からピアノの音が聴こえないということは、私のすぐ前の時間に誰かのレッスンがあったとしても、それだってもう終了しているという証拠。今更引き返せないところに至ってしまっているんだ。
もう一度だけ大きく深呼吸をすると、私は自分の頬を力の限り叩いて鼓舞して、思い切ってインターホンに指を添えた。
「いらっしゃい」
指を押し込みかけたその刹那、懐かしい声が耳に届いた。
ふわりと響いて空気に溶ける優しい声は、あの頃から少しばかり熟れただろうかと思うほど落ち着いているけれど、やっぱり当時から何も変わっていない。
視線を向けた扉の方から、随分と髪の伸びたその人が、こちらを見ている。
あの当時はショートだった髪は、背中に届く程まで伸びている。一段と、赤い縁の眼鏡が似合う容姿になっていた。
「凄い音が聴こえたものだから、何かと思って様子を見に来てみれば――久しぶりね、陽和ちゃん」
「杏奈、さん……」
ぽつりと呟くように応える。
あの日、あの時、この場所での出来事が一層鮮明に蘇ってしまって、言い知れない感覚に襲われるのを抑えることで精一杯になってしまった結果だ。
決別の日から何度か、杏奈さんは様子が気になったからとうちを訪れてくれていた。けれども私は、杏奈さんに会うのが何故か怖くて、顔を見せないようにしていた。
だからこれが、本当に十年ぶりの再会なのだ。
そんな私に、杏奈さんは何を言うでもなく、ただ優しく微笑んでくれた。
杏奈さんにだって、言いたいことの一つや二つ、いやそれ以上に沢山、あることだろうとは思う。それでも微笑みかけてくれた杏奈さんに、私はちゃんと答えないといけない。
もう、ただ尻込みして臆病な子どもではいられない。
「お久しぶりです、杏奈さん」
思ったよりもぎこちなく、硬いものではあったけれど。
はっきりとした声で、歪ながらも笑うことが出来たのは、私自身、それを乗り越えられそうな気がしたからだろうか。
どうしたって怖いものは怖い。ピアノに触れることも、それを人前で出すことも、どれもトラウマのようなものだ。
あれから更に時を経て、私は楽譜を見たままの曲として捉えられるまでになっていた。
その度に見舞われていた気持ち悪さはすっかりなくなっているけれど、あの時のように、また自分が弾けているのだと思い込んでいるだけで、他人にはそう映っていないかもしれない――そう思うと、どうしようもなく怖い。
どういう理由かは分からないけれど、もうしばらくずっと、陽向くんとも会えていない。
怖くて怖くて、今にでもこの場から逃げ出したくもなる。
(怖い…………でも――)
そうならないための強さも、私はもう身に着けている筈だ。
(目標は定めた。夢も決まったんだ)
あとはただ、それに向かって、辿り着く為の用意をするだけ。
ここは、その為の足掛かりなのだ。
ただ臆しているだけでは、陽向くんにも申し訳が立たない。
今度会えた時の為にも。
(ちゃんと見ててね、陽向――)
心の中で語り掛けて、もう一度だけ大きな深呼吸。
強く、はっきりと、自分を奮い立たせるために。
「森下陽和です。本日からまた、よろしくお願いします!」
覚悟の証のようなものだ。私は、大きく頭を下げた。
杏奈さんが今、どんな顔をして私のことを見ているのか――それは分からないけれど、
「ふふっ。寒いでしょう? さあ中に入って。暖房、効かせてあるから」
優しく受け入れ、促してくれた。
その心遣いだけで、私はいくつも救われた。
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