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第2楽章 『appassionato』
2-7.臍の緒
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一さんが自宅にしているというマンションも、つい先刻までいたホテルのように立派だった。
エントランスには水が流れ、照明も程よく抑えられている。随分と分厚い扉は、セキュリティもしっかりとしていそうだ。
おかえりなさいませ、と出迎えるのは、警備員という風貌ではない。
コンシェルジュ、なのかな。スーツにインカムを着けている姿は、さながらSPやボディガードのようである。
最上階に辿り着いた。廊下は絨毯敷のようで、靴で歩いていることに気が引ける程の柔さだ。
そのまま歩いて、一番奥の部屋へと通される。
「お、おじゃま、します……」
「好きに寛いで待っていてくれ。お茶くらいは用意しよう」
「は、はい…!」
言われた通りに好き勝手しよう――という気にはなれないくらいに、そこは大人な空間だった。
どうにも落ち着かない私は、キッチン横の四角い机、そこに並べてある椅子へと無難に腰を降ろした。
「お待たせ。玄米茶しかなかったけど、飲める?」
私は頷き、それを受け取った。程よく温かくて湯気も立っている。
ほんのり漂うその香りは、私が一番好きなものだ。
「さて、さっそく本題に入りたいところだけれど――」
向かいの席に腰かけ、真面目な表情で入る一さん。私の背筋も、自然と伸びてしまう。
「どう話したものだろうね。僕は言葉をオブラートに包めない人間だから、きっと君に悪いイメージを持たれかねない」
「構いません。現実離れした経験なら、もういくらか体験していますから」
「そうかい――いや、うん、安心した。なら僕は、事実を事実のまま、君に伝えるとしよう。美那子からは、何も聞いていないんだったね?」
私は小さく頷く。
その反応を以って、一さんは一冊のアルバムを机上に置いた。
訝し気にそれを眺める私に、一さんは中を確認するよう促す。私は言われた通りに表紙を捲った。
「これ――エコー写真、ですか?」
「ああ。白黒だけど、確かに君たち二人の影だ。八週間の頃だね。こっちが頭で、こっちが足元。まだ芋虫のようだ」
扇状の写真の中に、確かに二つの影が見て取れる。
一さんが比喩したように、芋虫のようにも見えるそれには、しかし確かに、どこか人のような形を思わせる部位が現れ始めている。
「この頃はまだ、どちらも元気なものだったが――陽和、最後のページを見てくれ」
一さんが、少し表情を曇らせながら言う。
気にかかったけれど、私は言われたままページを捲った。
「えっ、こ、これ……」
言葉を失った。
ただその一枚に釘付けになって、目が離せなくなった。
姿形がより鮮明になった画像には、確かに二つの影が見て取れる。けれど、その大きさは大小異なる。
少し小さい、大きいといった程度の話ではない。明らかに、片方は大きくなっていない――
成長を、していないのだ。
つい数秒前、八週間の頃だと紹介されて見た画像と、殆ど何も変わらない大きさなのである。
「こ、これって、つまり……」
「ああ。結論から言うと、その時既に『胎児死亡』だということだ分かった。それが、陽向だ」
「胎児、死亡……」
「読んで字の如く、だ。陽和は何となく知っているみたいだけどね。母親の胎内で既に死亡が確認されている状態のことを指す。母体の病気や栄養不足など、理由は様々あるけどね。美那子の場合は、そうではなかったんだ」
「いや、でも、どうして分からなかったんですか……? 赤ちゃんなら、お腹を蹴ったり、動き回ったりして――」
言いかけて、気が付いてしまった。
――私の存在だ。
一度俯き、再び上げた視線の先では、一さんが小さく頷いていた。
「個人の妊娠なら、発見が難しいとされる胎児期であっても、兆候や異常は見られたりするものだ。が、この場合は、君は元気に生きていた。双子というのは、例え二人同時にお腹を蹴ったって、母親にだって『二人が蹴ったんだ』と完全に分かるものじゃない。反対に、身籠っているのが一人だけだったとしても、その子が激しく動き回るような子であれば、まるで何人もいるかのように思えることだってあると聞く。だから、気付けなかった。君が、特別元気だったのかな」
「そ、そんな…!」
私は思ってしまった。想像してしまった。
自分という、今この場にいる存在それ自体が、彼の死に関わってしまっていたのか、と。
「この時すぐに緊急で分娩をして――陽和、君はいわゆる早産児というやつだったけど、随分と立派に大きく、そして魅力的な女の子に成長したね」
「わ、私のことはどうでもいいです…! それってやっぱり、陽向の死には、私が少なからず影響してるってことで――」
「亡くなっていたが、その時既に、随分と日数も経ってしまっていたらしい。そもそも、胎児期なんて自分の意思が介在しない世界だ。君のせいじゃない。よくあるとは言わないが、ない話でもないんだよ。事実、分娩に携わってくれた先生からも、過去に何度か立ち会ったことがあると苦しい話だって聞いた」
一さんは苦しそうに言った。
私に本来いた筈の兄弟――どうしていなくなったのか、どうして隠して来たのか。
元々は聞かなくてもいいだろうと思っていた疑問が、強くなってきた。
陽向の死――そんな決定的なことがあった筈なのに、それを一さんは知っているのに、どうして――
「その事実を知っている筈の一さんは――あなたは、どうして家を……母を置いて出ていってしまったんですか……?」
事の顛末を知っていると言うのなら、少なくともその時までは一緒にいた筈だ。まだ、婚姻関係にあった筈なのだから。
それだけ大変なことがあったのなら、傍にいて、母を、そして私を見守っていてくれてる筈だ。
「そうだね……どう言おうかな。君の兄弟については、もう躊躇うことは何もないけれど――こうなったら、いずれ話さなければならないことだったからね」
「どういうことですか? それじゃあまるで――」
「躊躇う理由が陽向じゃない、って? ああ、その通りだ。そしてそれは、本来僕の口から話すことではなかった。いや、話さないようにと、僕らで話し合って決めたことだ。が、もう話さない訳にはいかないね。君ももう十分に立派な子、いや大人だ。とてもしっかりしている」
「な、何を言ってるんですか……? 陽向が直接の理由じゃないって言うなら、それってお母さんに何か隠してることがあるってことですよね…! お母さんに、一体何があるって言うんですか…!?」
興奮する私を、一さんは冷静に抑える。鼻息荒くも黙ったところで、一さんは小さく口を開いた。
「君の母は……美那子はね――――」
エントランスには水が流れ、照明も程よく抑えられている。随分と分厚い扉は、セキュリティもしっかりとしていそうだ。
おかえりなさいませ、と出迎えるのは、警備員という風貌ではない。
コンシェルジュ、なのかな。スーツにインカムを着けている姿は、さながらSPやボディガードのようである。
最上階に辿り着いた。廊下は絨毯敷のようで、靴で歩いていることに気が引ける程の柔さだ。
そのまま歩いて、一番奥の部屋へと通される。
「お、おじゃま、します……」
「好きに寛いで待っていてくれ。お茶くらいは用意しよう」
「は、はい…!」
言われた通りに好き勝手しよう――という気にはなれないくらいに、そこは大人な空間だった。
どうにも落ち着かない私は、キッチン横の四角い机、そこに並べてある椅子へと無難に腰を降ろした。
「お待たせ。玄米茶しかなかったけど、飲める?」
私は頷き、それを受け取った。程よく温かくて湯気も立っている。
ほんのり漂うその香りは、私が一番好きなものだ。
「さて、さっそく本題に入りたいところだけれど――」
向かいの席に腰かけ、真面目な表情で入る一さん。私の背筋も、自然と伸びてしまう。
「どう話したものだろうね。僕は言葉をオブラートに包めない人間だから、きっと君に悪いイメージを持たれかねない」
「構いません。現実離れした経験なら、もういくらか体験していますから」
「そうかい――いや、うん、安心した。なら僕は、事実を事実のまま、君に伝えるとしよう。美那子からは、何も聞いていないんだったね?」
私は小さく頷く。
その反応を以って、一さんは一冊のアルバムを机上に置いた。
訝し気にそれを眺める私に、一さんは中を確認するよう促す。私は言われた通りに表紙を捲った。
「これ――エコー写真、ですか?」
「ああ。白黒だけど、確かに君たち二人の影だ。八週間の頃だね。こっちが頭で、こっちが足元。まだ芋虫のようだ」
扇状の写真の中に、確かに二つの影が見て取れる。
一さんが比喩したように、芋虫のようにも見えるそれには、しかし確かに、どこか人のような形を思わせる部位が現れ始めている。
「この頃はまだ、どちらも元気なものだったが――陽和、最後のページを見てくれ」
一さんが、少し表情を曇らせながら言う。
気にかかったけれど、私は言われたままページを捲った。
「えっ、こ、これ……」
言葉を失った。
ただその一枚に釘付けになって、目が離せなくなった。
姿形がより鮮明になった画像には、確かに二つの影が見て取れる。けれど、その大きさは大小異なる。
少し小さい、大きいといった程度の話ではない。明らかに、片方は大きくなっていない――
成長を、していないのだ。
つい数秒前、八週間の頃だと紹介されて見た画像と、殆ど何も変わらない大きさなのである。
「こ、これって、つまり……」
「ああ。結論から言うと、その時既に『胎児死亡』だということだ分かった。それが、陽向だ」
「胎児、死亡……」
「読んで字の如く、だ。陽和は何となく知っているみたいだけどね。母親の胎内で既に死亡が確認されている状態のことを指す。母体の病気や栄養不足など、理由は様々あるけどね。美那子の場合は、そうではなかったんだ」
「いや、でも、どうして分からなかったんですか……? 赤ちゃんなら、お腹を蹴ったり、動き回ったりして――」
言いかけて、気が付いてしまった。
――私の存在だ。
一度俯き、再び上げた視線の先では、一さんが小さく頷いていた。
「個人の妊娠なら、発見が難しいとされる胎児期であっても、兆候や異常は見られたりするものだ。が、この場合は、君は元気に生きていた。双子というのは、例え二人同時にお腹を蹴ったって、母親にだって『二人が蹴ったんだ』と完全に分かるものじゃない。反対に、身籠っているのが一人だけだったとしても、その子が激しく動き回るような子であれば、まるで何人もいるかのように思えることだってあると聞く。だから、気付けなかった。君が、特別元気だったのかな」
「そ、そんな…!」
私は思ってしまった。想像してしまった。
自分という、今この場にいる存在それ自体が、彼の死に関わってしまっていたのか、と。
「この時すぐに緊急で分娩をして――陽和、君はいわゆる早産児というやつだったけど、随分と立派に大きく、そして魅力的な女の子に成長したね」
「わ、私のことはどうでもいいです…! それってやっぱり、陽向の死には、私が少なからず影響してるってことで――」
「亡くなっていたが、その時既に、随分と日数も経ってしまっていたらしい。そもそも、胎児期なんて自分の意思が介在しない世界だ。君のせいじゃない。よくあるとは言わないが、ない話でもないんだよ。事実、分娩に携わってくれた先生からも、過去に何度か立ち会ったことがあると苦しい話だって聞いた」
一さんは苦しそうに言った。
私に本来いた筈の兄弟――どうしていなくなったのか、どうして隠して来たのか。
元々は聞かなくてもいいだろうと思っていた疑問が、強くなってきた。
陽向の死――そんな決定的なことがあった筈なのに、それを一さんは知っているのに、どうして――
「その事実を知っている筈の一さんは――あなたは、どうして家を……母を置いて出ていってしまったんですか……?」
事の顛末を知っていると言うのなら、少なくともその時までは一緒にいた筈だ。まだ、婚姻関係にあった筈なのだから。
それだけ大変なことがあったのなら、傍にいて、母を、そして私を見守っていてくれてる筈だ。
「そうだね……どう言おうかな。君の兄弟については、もう躊躇うことは何もないけれど――こうなったら、いずれ話さなければならないことだったからね」
「どういうことですか? それじゃあまるで――」
「躊躇う理由が陽向じゃない、って? ああ、その通りだ。そしてそれは、本来僕の口から話すことではなかった。いや、話さないようにと、僕らで話し合って決めたことだ。が、もう話さない訳にはいかないね。君ももう十分に立派な子、いや大人だ。とてもしっかりしている」
「な、何を言ってるんですか……? 陽向が直接の理由じゃないって言うなら、それってお母さんに何か隠してることがあるってことですよね…! お母さんに、一体何があるって言うんですか…!?」
興奮する私を、一さんは冷静に抑える。鼻息荒くも黙ったところで、一さんは小さく口を開いた。
「君の母は……美那子はね――――」
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