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―― Prologue ――
【001】シアンの夏
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シアンをそのまま絵の具で表現したような、真っ青な空。そこに白い入道雲が浮かんでいて、白にはオーキッドミストやリードグレイの絵の具を混ぜ合わせて色をのせたような陰影がある。手を伸ばしたら掴めそうなほど近くに見えるのに、正面に続く道を見ればどこまでも遠く、空の果ては見えない。この国の陸地を描いた地図上で見れば近距離の学校にすら、まだまだ徒歩では時間がかかる。
七花佳音が通っている青戸未来学園高等部は、所謂進学校だ。中高一貫制で、私は中等部から通っている。
夏色の風が頬を撫で、佳音の柔らかな髪を後ろに流していく。セミロングの髪は一本一本が細く、幼い頃から朝は寝癖との戦いだ。校則では、黒を推奨されている髪色だが、あくまでも〝推奨〟であるから、髪色は染める生徒が多い中でも、彼女は黒を貫いている。青戸未来学園は、勉強さえ出来れば目くじらを立てることは少ないが、それでも内申には響く。佳音は、優等生でありたい。いいや、自他共に認める優等生だ。
優等生とは、何か?
それは難しいようでいて、実に簡単なことだ。
クラスで浮かないことの一言に尽きる。佳音は平穏を好んでいる。それもこれも、青戸未来学園の中等部に入学する前、小学生の頃には嫌な思いを重ねていたからだ。
当時、佳音は体が弱かった。幾度も入院し、学校を休んだ。体育も見学ばかりだった。
『佳音ちゃんがまたずる休みしてる!』
いつしか、そんな風に言われるようになり、佳音は学校で虐められていた。そんな時、友人と言えば本の中の登場人物と、あとは――……。
「懐かしい」
ぽつりと呟いた佳音は、改めて空を見上げた。
あの日も、こんな青空が広がっていた。その日は、靴を水浸しにされ、佳音は生徒玄関で涙ぐんでいた。上履きは掃除の時間に奪われて、ゴミ箱に入れられ、袋ごと捨てられてしまった。だから午後の授業は、気づいた先生が持ってきたスリッパで過ごしたので、靴がない。
『七花?』
すると声が掛かった。ゆっくりと視線を向けると、そこには小学校六年のその年に転校してきた、渡海嶺色が立っていた。
『泣いてるのか? 一体どうしたんだ?』
目元を手の甲で拭っていた佳音の元へと歩みよってきた嶺色は、靴箱を一瞥して虚を突かれたように硬直した。
『お前、これ……上履きも履いてないし』
『……』
佳音は何も言えなかった。何を言っていいのか分からず、ごちゃごちゃの内心は、水彩絵の具を画用紙にベタベタ塗りたくったような色彩豊かな黒い感情で染まっていた。いまにもその画用紙はすり切れて破けそうだ。
『僕は上履きで帰るから、僕の靴を履いて帰れよ』
『え?』
予想外の言葉が返ってきた佳音は、耳を疑った。涙はまたポロリと頬を零れていった。
『家に上履きの予備もあるし。困るだろ?』
『……ありがとう』
佳音には嶺色が、正義の味方のように思えた。再度涙を拭えば、もう新しい涙は溢れてこない。嶺色が出した靴を借りると、サイズが大きくつま先に余裕があった。緑のラインが入ったスニーカーの紐を、きつく縛る。嶺色がそのまま上履きで外へと出たので、佳音もその後をついていく。佳音の胸の中に、熱したイチゴのような甘い実が生まれた瞬間だった。初めての恋の瞬間だ。
『大きな雲だなぁ。中に何かあったりして』
そう言って、嶺色は両頬を持ち上げて笑った。形の良いアーモンド型の大きな瞳には、楽しそうな色が浮かんでいた。己を元気づけようとしてくれているのも、佳音には分かった。
二人で学校から帰る道、空はシアンの色をしていて、大きな入道雲が浮かんでいて、そう、まるで今の風景は、あの日の空によく似ている。
嶺色とはその後、中学進学時に分かれ、高等部で再会した。高等部二年生の今年は、同じクラスだ。だが、まだ一度も話をしていない。あちらが覚えているのかも分からない。
「私には、話しかける勇気が無いんだけどね」
ゆっくりと歩きながら、佳音は呟いた。今もなお、嶺色のことを見ると、胸は熱くなる。イチゴはかろうじて輪郭を保っているけれど、もっと想いが募ったら、それこそドロドロに蕩けてしまいそうだと分かっているのに、一歩引いた理性がいつも水を吹き付ける。
渡海嶺色には、関わってはいけない。
「嶺色くんは、私を助けてくれたのに……私は弱いなぁ……」
嶺色はクラスで浮いている。
なんでも嶺色は、〝視える〟と評判だ。幽霊や物の怪が見えるのだと、真しやかに囁かれている。本人は何も言わないが否定もしない。いつも無表情で、必要最低限しか話さず、笑った姿を見たこともない。一緒に帰ったあの日の笑顔は、もう見えない。
恋をしている相手である。そして自分に対しては、話しかけられない臆病者の自覚もある。
けれど、優等生でなくなることが、佳音は怖い。
再び虐められるようになったらと危惧し、不甲斐ない自分を振り返っても、振り返るだけで行動を起こさずにいる。時折その現実は、どうしようもない空しさを生む。
朝から少し憂鬱な気持ちになりながら、佳音は江崎寺の前を通り過ぎ、裏路地の前を通る。路地をチラリと見れば、『カフェ・アセンダント』という看板が、いつものように見えた。
普段から佳音は、早い時間に家を出るから、朝の自習時間の開始までには、まだまだ余裕がある。だから緩慢な速度で歩きながら、佳音は夏の朝を進んでいく。信号機のない横断歩道のそばにあるさと瀬公園のベンチに座る灰色の猫を一瞥し、次第に人通りが多くなっていく街中へと向かう。ぽつりぽつりと登校する生徒達の姿が視界に入ってくる。
こうしてまた、佳音の新しい朝が始まった。
七花佳音が通っている青戸未来学園高等部は、所謂進学校だ。中高一貫制で、私は中等部から通っている。
夏色の風が頬を撫で、佳音の柔らかな髪を後ろに流していく。セミロングの髪は一本一本が細く、幼い頃から朝は寝癖との戦いだ。校則では、黒を推奨されている髪色だが、あくまでも〝推奨〟であるから、髪色は染める生徒が多い中でも、彼女は黒を貫いている。青戸未来学園は、勉強さえ出来れば目くじらを立てることは少ないが、それでも内申には響く。佳音は、優等生でありたい。いいや、自他共に認める優等生だ。
優等生とは、何か?
それは難しいようでいて、実に簡単なことだ。
クラスで浮かないことの一言に尽きる。佳音は平穏を好んでいる。それもこれも、青戸未来学園の中等部に入学する前、小学生の頃には嫌な思いを重ねていたからだ。
当時、佳音は体が弱かった。幾度も入院し、学校を休んだ。体育も見学ばかりだった。
『佳音ちゃんがまたずる休みしてる!』
いつしか、そんな風に言われるようになり、佳音は学校で虐められていた。そんな時、友人と言えば本の中の登場人物と、あとは――……。
「懐かしい」
ぽつりと呟いた佳音は、改めて空を見上げた。
あの日も、こんな青空が広がっていた。その日は、靴を水浸しにされ、佳音は生徒玄関で涙ぐんでいた。上履きは掃除の時間に奪われて、ゴミ箱に入れられ、袋ごと捨てられてしまった。だから午後の授業は、気づいた先生が持ってきたスリッパで過ごしたので、靴がない。
『七花?』
すると声が掛かった。ゆっくりと視線を向けると、そこには小学校六年のその年に転校してきた、渡海嶺色が立っていた。
『泣いてるのか? 一体どうしたんだ?』
目元を手の甲で拭っていた佳音の元へと歩みよってきた嶺色は、靴箱を一瞥して虚を突かれたように硬直した。
『お前、これ……上履きも履いてないし』
『……』
佳音は何も言えなかった。何を言っていいのか分からず、ごちゃごちゃの内心は、水彩絵の具を画用紙にベタベタ塗りたくったような色彩豊かな黒い感情で染まっていた。いまにもその画用紙はすり切れて破けそうだ。
『僕は上履きで帰るから、僕の靴を履いて帰れよ』
『え?』
予想外の言葉が返ってきた佳音は、耳を疑った。涙はまたポロリと頬を零れていった。
『家に上履きの予備もあるし。困るだろ?』
『……ありがとう』
佳音には嶺色が、正義の味方のように思えた。再度涙を拭えば、もう新しい涙は溢れてこない。嶺色が出した靴を借りると、サイズが大きくつま先に余裕があった。緑のラインが入ったスニーカーの紐を、きつく縛る。嶺色がそのまま上履きで外へと出たので、佳音もその後をついていく。佳音の胸の中に、熱したイチゴのような甘い実が生まれた瞬間だった。初めての恋の瞬間だ。
『大きな雲だなぁ。中に何かあったりして』
そう言って、嶺色は両頬を持ち上げて笑った。形の良いアーモンド型の大きな瞳には、楽しそうな色が浮かんでいた。己を元気づけようとしてくれているのも、佳音には分かった。
二人で学校から帰る道、空はシアンの色をしていて、大きな入道雲が浮かんでいて、そう、まるで今の風景は、あの日の空によく似ている。
嶺色とはその後、中学進学時に分かれ、高等部で再会した。高等部二年生の今年は、同じクラスだ。だが、まだ一度も話をしていない。あちらが覚えているのかも分からない。
「私には、話しかける勇気が無いんだけどね」
ゆっくりと歩きながら、佳音は呟いた。今もなお、嶺色のことを見ると、胸は熱くなる。イチゴはかろうじて輪郭を保っているけれど、もっと想いが募ったら、それこそドロドロに蕩けてしまいそうだと分かっているのに、一歩引いた理性がいつも水を吹き付ける。
渡海嶺色には、関わってはいけない。
「嶺色くんは、私を助けてくれたのに……私は弱いなぁ……」
嶺色はクラスで浮いている。
なんでも嶺色は、〝視える〟と評判だ。幽霊や物の怪が見えるのだと、真しやかに囁かれている。本人は何も言わないが否定もしない。いつも無表情で、必要最低限しか話さず、笑った姿を見たこともない。一緒に帰ったあの日の笑顔は、もう見えない。
恋をしている相手である。そして自分に対しては、話しかけられない臆病者の自覚もある。
けれど、優等生でなくなることが、佳音は怖い。
再び虐められるようになったらと危惧し、不甲斐ない自分を振り返っても、振り返るだけで行動を起こさずにいる。時折その現実は、どうしようもない空しさを生む。
朝から少し憂鬱な気持ちになりながら、佳音は江崎寺の前を通り過ぎ、裏路地の前を通る。路地をチラリと見れば、『カフェ・アセンダント』という看板が、いつものように見えた。
普段から佳音は、早い時間に家を出るから、朝の自習時間の開始までには、まだまだ余裕がある。だから緩慢な速度で歩きながら、佳音は夏の朝を進んでいく。信号機のない横断歩道のそばにあるさと瀬公園のベンチに座る灰色の猫を一瞥し、次第に人通りが多くなっていく街中へと向かう。ぽつりぽつりと登校する生徒達の姿が視界に入ってくる。
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