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私の返事を待つことなく、この人は優しい笑顔で笑ってから背中を向けた。



空からは・・・雪が降ってきた・・・。



その雪を、あの人が空を見上げながら歩いている。



こんなに突き刺さるような冷たさの中、上着も着ないで真っ直ぐと立ち真っ直ぐと歩いている。



私に温かい上着を掛けて・・・。



私はこんなに温かい上着の中にいて・・・。



私は、私は、裕福な家で生まれ育ってこんな冷たさなんて知らなかった。



こんなに冷たい夜があることなんて知らなかった。



真っ直ぐ立てないくらいの冷たさがあるなんて知らなかった。



私は、何も知らない。
私は何も知らない。
私には重みがない。
私の人生には重みがない。



あの人の遠くなっていく背中を見る。
二度と会えない。
あの名刺は私の名刺ではないから。
この上着も返すことは出来ない。
私はあの人の名前も知らないから。



上着を握り締め、あの人を思い出す。
良い男だった。
凄い良い男だった。



思わず恋してしまいそうだった、80歳のヨボヨボの爺さんにどこか似た、良い男だった。



私は・・・



私は・・・



恋をしたことがなかった。
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