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最終話 冬はつとめて
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十二月になりました。
わたくしはプリウスの助手席に乗り、首都高速道路を移動していました。
運転席には栗原聡様がいます。
「またあそこに行くのかい? 余程気に入ったんだね。つまらない場所なのに」
「あの原野には趣がありますわ」
与野インターで降り、新大宮バイパスへ。
「先生、奥様は帰ってきませんか」
「帰ってこないよ。娘も転校して、すっかり今の学校に馴染んでいるそうだ」
「お嬢様とは話しているのですか」
「娘とはたまに会っている」
「それはよかったです」
「まぁね」
国道から市道へ。くねくねと曲がりくねる道。
「きみは将棋三段の男とはどうなっているんだ」
「もう全然会っていません」
「会ってないの?」
「はい」
「どうして?」
「今はもうあの方をなんとも思っていません」
「そうなのか・・・」
「ええ」
ナビに導かれて細い道を走っていきます。
車内には何だか親密な空気が流れ始めていました。聡様は上機嫌で笑顔を浮かべ、ハンドルを握っています。
目的地に到着しました。草とまばらな樹木が生えている原野です。わたくしはこの風景が好き。
空き地に駐車して、サイクリングロードを歩き始めました。
「先生、わたくし最近、農業のことを学んでいるのです。独学で、本を読んでいるだけですが」
「ふぅん。農業に興味あるの?」
「ええ、とっても。それで、この土地を貸していただけないかと思っているのですが」
「本気で農業をやる気か? たいへんだよ」
「知っています。二十年前は本格的に土をいじっていましたから」
「二十年前はきみは赤ん坊だろう」
「違います。二十年前、わたくしは清川真美子でした」
栗原聡様は息を飲みました。
「ほ、本当にきみが真美子なのか。本人? 娘とかじゃなくて?」
「本人です。散々きみは真美子だろうと先生はおっしゃっていたじゃないですか」
「歳を取ってない」
「特異体質で、極めて老化しにくいんです。それで説明とか面倒なので、今は佐藤清美と名乗っています」
聡様はいきなりわたくしを抱きしめました。
長い間そうしていました。
もう風が冷たいです。
聡様は涙を流していて、わたくしの頬にぽたぽたと落ちて、そこだけ熱く感じました。
「先生、強く抱きしめ過ぎ」
「いろいろ突っ込みたいところはあるけど、真美子なんだな」
「ええ」
あまり突っ込まないでください。さすがに不老不死のことは秘密です。
「やっぱり真美子だった」
「聡様、と呼んでいいですか」
「ああ、そうしてくれ。聡さんの方が自然だが、きみは昔からそうだったね」
「わたくしのことは今は清美と呼んでください」
「真美子と呼びたいが、まぁいいだろう、清美」
原野の中、細いサイクリングロードを歩き、廃墟となった宿舎に辿りつきました。わたくしたちは廃墟に立ち入りました。
「蜘蛛の巣だらけですね」
「そうだな」
宿舎の脇に物置小屋があります。わたくしは扉を開けようとしましたが、ガタガタ音がするだけで、動きませんでした。聡様と二人でやっとの思いで開けました。中には鋤、鍬、鎌などの農器具がたくさん残っていました。錆付いているものもありますが、まだ使えそうです。
「聡様、わたくしと生きていただけますか」
「いいのか」
「聡様には妻子がおありですが、それでもわたくしを大切にしてくださいますか」
「ああ、大切にする」
聡様はまたわたくしを抱きました。
わたくしはされるがままにしました。
愛情はありません。打算だけ。そろそろ住処を変える頃合いなのです。栗原聡様を利用するつもりです。
しばらくして、彼は腕をわたくしの体から離しました。その次は手を握られました。
「聡様、この宿舎を建て替えるぐらいのお金は持っていますか」
「いきなり金の話か」
「女は現実的なのです」
聡様はため息をつかれました。
「妻に逃げられて、贅沢はできなくなったが、大学から給料をもらっているからね。自分名義の貯金も多少あるし、簡易な宿舎なら建てられるだろう」
「わたくしはここに住んで、農業をやりたいのです」
「本気でやるのか」
「家庭菜園程度のものから始めようと思います」
「僕は手伝えないぞ。教授をやめると、食っていけない」
「かまいません。一人でやります。休日には手伝ってくださいね」
「それくらいならいいけど」
「仲間ができると楽しいかもしれませんね。昔みたいにみんなで農業と畜産をやるのです」
「原始共産制みたいなのを、現代でやるのはむずかしいんじゃないか」
「失敗したっていいじゃないですか」
わたくしは微笑みました。本当に失敗したっていいのです。どうせ二十年ぐらいしかいないのですから。
「清美は明るいな。楽観的だ」
「聡様は悲観的すぎるきらいがあります」
「そういう傾向はあるかもしれない」
わたくしたちは廃墟から離れ、サイクリングロードを歩いて帰路につきました。
「雑草を抜くところから始めなければなりませんね」
「現実に始めると、かなりいろいろとやることがあるよ。金もかかる。肥料とか苗とか買わないといけないし、宿舎を建ててあげられるとしても、きみの生活費までは面倒をみられないぞ」
「わたくしを大切にしてくださるのではないのですか」
「大切にするよ。僕と一緒に住むだけなら、全部面倒をみる。でもきみは農業を始めて、こんな辺鄙なところで暮らすと言う。全部僕に金の負担を強いるつもりなら、無理だから、やめておけ」
「むぅ。夜のアルバイトをして、資金を貯めなくてはいけませんね」
「夜のバイトするの?」
聡様は哀しそうな顔をしました。
「しますよ。それ以外に手っ取り早くお金を貯めることはできません」
「風俗だけはやめてくれ」
「キャバクラはいいですか」
にっこりと笑いました。
「いやだけど、その顔は止めても無駄だな」
「はい。無駄です」
わたくしたちはプリウスに乗り込みました。
東京へ。
その日は奥様とお嬢様のいない聡様の家に泊まりました。
早朝、目を覚ましました。聡様はまだ眠っています。
わたくしは布団から這い出して、服を着て、お湯を沸かしました。
冬はつとめて。
雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。
わたくしはプリウスの助手席に乗り、首都高速道路を移動していました。
運転席には栗原聡様がいます。
「またあそこに行くのかい? 余程気に入ったんだね。つまらない場所なのに」
「あの原野には趣がありますわ」
与野インターで降り、新大宮バイパスへ。
「先生、奥様は帰ってきませんか」
「帰ってこないよ。娘も転校して、すっかり今の学校に馴染んでいるそうだ」
「お嬢様とは話しているのですか」
「娘とはたまに会っている」
「それはよかったです」
「まぁね」
国道から市道へ。くねくねと曲がりくねる道。
「きみは将棋三段の男とはどうなっているんだ」
「もう全然会っていません」
「会ってないの?」
「はい」
「どうして?」
「今はもうあの方をなんとも思っていません」
「そうなのか・・・」
「ええ」
ナビに導かれて細い道を走っていきます。
車内には何だか親密な空気が流れ始めていました。聡様は上機嫌で笑顔を浮かべ、ハンドルを握っています。
目的地に到着しました。草とまばらな樹木が生えている原野です。わたくしはこの風景が好き。
空き地に駐車して、サイクリングロードを歩き始めました。
「先生、わたくし最近、農業のことを学んでいるのです。独学で、本を読んでいるだけですが」
「ふぅん。農業に興味あるの?」
「ええ、とっても。それで、この土地を貸していただけないかと思っているのですが」
「本気で農業をやる気か? たいへんだよ」
「知っています。二十年前は本格的に土をいじっていましたから」
「二十年前はきみは赤ん坊だろう」
「違います。二十年前、わたくしは清川真美子でした」
栗原聡様は息を飲みました。
「ほ、本当にきみが真美子なのか。本人? 娘とかじゃなくて?」
「本人です。散々きみは真美子だろうと先生はおっしゃっていたじゃないですか」
「歳を取ってない」
「特異体質で、極めて老化しにくいんです。それで説明とか面倒なので、今は佐藤清美と名乗っています」
聡様はいきなりわたくしを抱きしめました。
長い間そうしていました。
もう風が冷たいです。
聡様は涙を流していて、わたくしの頬にぽたぽたと落ちて、そこだけ熱く感じました。
「先生、強く抱きしめ過ぎ」
「いろいろ突っ込みたいところはあるけど、真美子なんだな」
「ええ」
あまり突っ込まないでください。さすがに不老不死のことは秘密です。
「やっぱり真美子だった」
「聡様、と呼んでいいですか」
「ああ、そうしてくれ。聡さんの方が自然だが、きみは昔からそうだったね」
「わたくしのことは今は清美と呼んでください」
「真美子と呼びたいが、まぁいいだろう、清美」
原野の中、細いサイクリングロードを歩き、廃墟となった宿舎に辿りつきました。わたくしたちは廃墟に立ち入りました。
「蜘蛛の巣だらけですね」
「そうだな」
宿舎の脇に物置小屋があります。わたくしは扉を開けようとしましたが、ガタガタ音がするだけで、動きませんでした。聡様と二人でやっとの思いで開けました。中には鋤、鍬、鎌などの農器具がたくさん残っていました。錆付いているものもありますが、まだ使えそうです。
「聡様、わたくしと生きていただけますか」
「いいのか」
「聡様には妻子がおありですが、それでもわたくしを大切にしてくださいますか」
「ああ、大切にする」
聡様はまたわたくしを抱きました。
わたくしはされるがままにしました。
愛情はありません。打算だけ。そろそろ住処を変える頃合いなのです。栗原聡様を利用するつもりです。
しばらくして、彼は腕をわたくしの体から離しました。その次は手を握られました。
「聡様、この宿舎を建て替えるぐらいのお金は持っていますか」
「いきなり金の話か」
「女は現実的なのです」
聡様はため息をつかれました。
「妻に逃げられて、贅沢はできなくなったが、大学から給料をもらっているからね。自分名義の貯金も多少あるし、簡易な宿舎なら建てられるだろう」
「わたくしはここに住んで、農業をやりたいのです」
「本気でやるのか」
「家庭菜園程度のものから始めようと思います」
「僕は手伝えないぞ。教授をやめると、食っていけない」
「かまいません。一人でやります。休日には手伝ってくださいね」
「それくらいならいいけど」
「仲間ができると楽しいかもしれませんね。昔みたいにみんなで農業と畜産をやるのです」
「原始共産制みたいなのを、現代でやるのはむずかしいんじゃないか」
「失敗したっていいじゃないですか」
わたくしは微笑みました。本当に失敗したっていいのです。どうせ二十年ぐらいしかいないのですから。
「清美は明るいな。楽観的だ」
「聡様は悲観的すぎるきらいがあります」
「そういう傾向はあるかもしれない」
わたくしたちは廃墟から離れ、サイクリングロードを歩いて帰路につきました。
「雑草を抜くところから始めなければなりませんね」
「現実に始めると、かなりいろいろとやることがあるよ。金もかかる。肥料とか苗とか買わないといけないし、宿舎を建ててあげられるとしても、きみの生活費までは面倒をみられないぞ」
「わたくしを大切にしてくださるのではないのですか」
「大切にするよ。僕と一緒に住むだけなら、全部面倒をみる。でもきみは農業を始めて、こんな辺鄙なところで暮らすと言う。全部僕に金の負担を強いるつもりなら、無理だから、やめておけ」
「むぅ。夜のアルバイトをして、資金を貯めなくてはいけませんね」
「夜のバイトするの?」
聡様は哀しそうな顔をしました。
「しますよ。それ以外に手っ取り早くお金を貯めることはできません」
「風俗だけはやめてくれ」
「キャバクラはいいですか」
にっこりと笑いました。
「いやだけど、その顔は止めても無駄だな」
「はい。無駄です」
わたくしたちはプリウスに乗り込みました。
東京へ。
その日は奥様とお嬢様のいない聡様の家に泊まりました。
早朝、目を覚ましました。聡様はまだ眠っています。
わたくしは布団から這い出して、服を着て、お湯を沸かしました。
冬はつとめて。
雪の降りたるは言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでもいと寒きに、火など急ぎおこして、炭持て渡るも、いとつきづきし。
昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、火桶の火も、白き灰がちになりてわろし。
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