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江陵城
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会議後、曹操は夏侯淵と荀攸を広間に残した。
「そなたたちふたりに、荊州の内治を任せる。私はさらに南へ行く。許都から送られてくる兵糧は、襄陽を経由する。まちがいなく私のもとへ届くようにしてくれ」
ふたりはうなずいた。
「豫州の兵三万をここに置いていく。かわりに襄陽の兵三万を連れていく。わが軍は変わらず五十万だ。この兵力で孫権を圧倒するつもりだ」
「丞相、くれぐれも油断しませぬよう。敵は孫権だけではなく、劉備と劉琦もです」と夏侯淵が言った。
「わかっておる。私は五日後、江陵へ向かう。そこで水戦の訓練を行いながら、船の集結を待つ。その先はまだ予定だが、秋には烏林で揚州水軍を撃滅し、冬には柴桑城と建業城を陥落させたいと思っておる。来年の春にまた会おう」
曹操は夏侯淵と荀攸の手を握った。
「戦ではなにが起こるかわかりません。思いがけないことに足をすくわれたりするものです。丞相はよくわかっておられるでしょうが……」と荀攸が言った。
「ああ、よくわかっておる。私は百戦百勝の将ではない。汴水と宛城で負けた。かけがえのない家臣たちと息子を失った。戦争は怖いものだ」
「そう、怖ろしいものです。特に慣れない土地での戦いは要注意です。私は長江を見たことがありません。どんな河なのでしょうか」
「でかい河だ。華佗が言っていた表現だが、湖のように広く、銀河のように長い」
「お気をつけください」
「ありがとう。ここは頼むぞ」
曹操軍は、南郡北部にある襄陽県から南部の江陵県へ向かった。
江陵は長江北岸にある交通の要衝で、荊州の主要都市のひとつ。城は相当に堅固である。
曹操は街道を南下し、長江に行きついた。
かつて揚州刺史だった陳温に会ったとき以来、久しぶりに見る大河。
「やはりでかいな」
華北を流れる黄河もかなり巨大な河川だが、それよりもさらに大きい。
曹操はここを船で満たそうと空想していたが、そんなことはとうてい不可能である。
「いかに私が大きな権力を得ようと、無理なことだったな……」
この巨大河川で戦うことに、微かな不安を感じた。
曹操は江陵城に入り、賈詡とともに情勢分析を行った。
諜報はぬかりなく行い、彼らは相当の情報を持っている。
「劉備と劉琦はやはり降伏する気はないようです。江夏郡は敵地です。兵力は劉備一万、劉琦一万」
「気にはなるが、孫権が降伏すれば、簡単につぶせる小勢力にすぎん」
「揚州の方ですが、張昭、張紘、諸葛瑾らの重臣は、こぞって降伏を孫権に勧めています」
「魯粛という男がひとり主戦論を述べておる。そやつは劉備と接触したようだ。諸葛亮という劉備の軍師が、建業へ使者として赴いている」
「諸葛亮は、荊州の名士の一部から、高い評価を得ている人物のようです。伏龍と呼ばれることもあるとか」
「劉備が新野で得た軍師だ。あの男、これまで優秀な参謀を持ったことがなかった。軍師を得てどう変わるか、不気味ではある。だが、過度に警戒することはない。それより孫権陣営だ。孫策時代から孫家に仕えている周瑜が、もっとも警戒すべき人物であろう。いま建業にいない。どこにいるかまではわかっておらん」
「周瑜は主戦派なのでしょうか」
「わからん。周瑜が降伏する気であれば、孫権は戦えないだろうな。それを願っておる」
曹操は、曹仁、牛金とも打ち合わせを行った。
「私は近いうちに揚州へ行く。そなたらふたりに、江陵城の守備を任せる。ここは戦場と襄陽、許都をつなぐ重要な兵站基地となる。曹仁が主将、牛金が副将だ。頼むぞ」
「お任せください。守備兵はどれほどいただけるのでしょうか」
「ここには荊州兵が五千人ほど駐屯している。その兵は戦線へ連れていく。かわりに兗州兵五千を授けよう」
「ありがとうございます。江陵城は守り抜き、兵站の中継としての働きもしっかりといたします」
「夏侯淵、荀攸と連絡を取り合え。わが軍が戦えるかどうかは、兵站にかかっている。五十万人の食糧を確実に送ってくれ」
五十万の兵が食べる兵糧は、厖大なものである。
江陵ですでに、不足がちになっていた。
飢えることはないが、満足に食べることもできない。兵士たちはやや空腹な状態となっていた。
曹操は、兵站を任せた荀彧が懸命に働いていると信じている。
兵糧不足は戦場の常だ、と自分に言い聞かせた。
許都から遠く江陵まで、莫大な量の食糧を輸送しつづけるのは、大変な事業である。大軍の維持は、容易なことではない。
地元から食糧を調達することはやっていない。五十万人分の穀物を奪えば、反乱が起きるであろう。
船は、順調に江陵に集まりつつあった。
蒯越と王粲は優秀で、期待以上の仕事をしてくれている。
史上空前の大水軍が、生まれようとしていた。
だが、荊州水軍の長官、黄射は期待はずれの男だった。はっきりと意見を言わない人物で、曹操はすぐに相手にするのをやめた。
中原から連れてきた将、曹純、楽進、于禁、徐晃、張遼、許褚、張郃、李典、朱霊、臧覇、そして荊州で得た文聘に水戦も指揮させることにし、彼らに猛訓練を課した。
諸将は初めのうちとまどっていたが、しだいに船上に慣れていった。
だめな水軍の将より、優秀な陸軍の将に任せた方がよい、と曹操は確信した。
江陵に滞在して一か月後、賈詡が浮かない顔でぽつりと言った。
「疫病が流行り始めています……」
建業からも凶報が届いた。
周瑜が揚州の首府に現れ、断固として抗戦を主張し、孫権は剣で机を斬ったという。
「曹操と戦う。いまより後、降伏を主張する者は、この机のようになるであろう」
「そなたたちふたりに、荊州の内治を任せる。私はさらに南へ行く。許都から送られてくる兵糧は、襄陽を経由する。まちがいなく私のもとへ届くようにしてくれ」
ふたりはうなずいた。
「豫州の兵三万をここに置いていく。かわりに襄陽の兵三万を連れていく。わが軍は変わらず五十万だ。この兵力で孫権を圧倒するつもりだ」
「丞相、くれぐれも油断しませぬよう。敵は孫権だけではなく、劉備と劉琦もです」と夏侯淵が言った。
「わかっておる。私は五日後、江陵へ向かう。そこで水戦の訓練を行いながら、船の集結を待つ。その先はまだ予定だが、秋には烏林で揚州水軍を撃滅し、冬には柴桑城と建業城を陥落させたいと思っておる。来年の春にまた会おう」
曹操は夏侯淵と荀攸の手を握った。
「戦ではなにが起こるかわかりません。思いがけないことに足をすくわれたりするものです。丞相はよくわかっておられるでしょうが……」と荀攸が言った。
「ああ、よくわかっておる。私は百戦百勝の将ではない。汴水と宛城で負けた。かけがえのない家臣たちと息子を失った。戦争は怖いものだ」
「そう、怖ろしいものです。特に慣れない土地での戦いは要注意です。私は長江を見たことがありません。どんな河なのでしょうか」
「でかい河だ。華佗が言っていた表現だが、湖のように広く、銀河のように長い」
「お気をつけください」
「ありがとう。ここは頼むぞ」
曹操軍は、南郡北部にある襄陽県から南部の江陵県へ向かった。
江陵は長江北岸にある交通の要衝で、荊州の主要都市のひとつ。城は相当に堅固である。
曹操は街道を南下し、長江に行きついた。
かつて揚州刺史だった陳温に会ったとき以来、久しぶりに見る大河。
「やはりでかいな」
華北を流れる黄河もかなり巨大な河川だが、それよりもさらに大きい。
曹操はここを船で満たそうと空想していたが、そんなことはとうてい不可能である。
「いかに私が大きな権力を得ようと、無理なことだったな……」
この巨大河川で戦うことに、微かな不安を感じた。
曹操は江陵城に入り、賈詡とともに情勢分析を行った。
諜報はぬかりなく行い、彼らは相当の情報を持っている。
「劉備と劉琦はやはり降伏する気はないようです。江夏郡は敵地です。兵力は劉備一万、劉琦一万」
「気にはなるが、孫権が降伏すれば、簡単につぶせる小勢力にすぎん」
「揚州の方ですが、張昭、張紘、諸葛瑾らの重臣は、こぞって降伏を孫権に勧めています」
「魯粛という男がひとり主戦論を述べておる。そやつは劉備と接触したようだ。諸葛亮という劉備の軍師が、建業へ使者として赴いている」
「諸葛亮は、荊州の名士の一部から、高い評価を得ている人物のようです。伏龍と呼ばれることもあるとか」
「劉備が新野で得た軍師だ。あの男、これまで優秀な参謀を持ったことがなかった。軍師を得てどう変わるか、不気味ではある。だが、過度に警戒することはない。それより孫権陣営だ。孫策時代から孫家に仕えている周瑜が、もっとも警戒すべき人物であろう。いま建業にいない。どこにいるかまではわかっておらん」
「周瑜は主戦派なのでしょうか」
「わからん。周瑜が降伏する気であれば、孫権は戦えないだろうな。それを願っておる」
曹操は、曹仁、牛金とも打ち合わせを行った。
「私は近いうちに揚州へ行く。そなたらふたりに、江陵城の守備を任せる。ここは戦場と襄陽、許都をつなぐ重要な兵站基地となる。曹仁が主将、牛金が副将だ。頼むぞ」
「お任せください。守備兵はどれほどいただけるのでしょうか」
「ここには荊州兵が五千人ほど駐屯している。その兵は戦線へ連れていく。かわりに兗州兵五千を授けよう」
「ありがとうございます。江陵城は守り抜き、兵站の中継としての働きもしっかりといたします」
「夏侯淵、荀攸と連絡を取り合え。わが軍が戦えるかどうかは、兵站にかかっている。五十万人の食糧を確実に送ってくれ」
五十万の兵が食べる兵糧は、厖大なものである。
江陵ですでに、不足がちになっていた。
飢えることはないが、満足に食べることもできない。兵士たちはやや空腹な状態となっていた。
曹操は、兵站を任せた荀彧が懸命に働いていると信じている。
兵糧不足は戦場の常だ、と自分に言い聞かせた。
許都から遠く江陵まで、莫大な量の食糧を輸送しつづけるのは、大変な事業である。大軍の維持は、容易なことではない。
地元から食糧を調達することはやっていない。五十万人分の穀物を奪えば、反乱が起きるであろう。
船は、順調に江陵に集まりつつあった。
蒯越と王粲は優秀で、期待以上の仕事をしてくれている。
史上空前の大水軍が、生まれようとしていた。
だが、荊州水軍の長官、黄射は期待はずれの男だった。はっきりと意見を言わない人物で、曹操はすぐに相手にするのをやめた。
中原から連れてきた将、曹純、楽進、于禁、徐晃、張遼、許褚、張郃、李典、朱霊、臧覇、そして荊州で得た文聘に水戦も指揮させることにし、彼らに猛訓練を課した。
諸将は初めのうちとまどっていたが、しだいに船上に慣れていった。
だめな水軍の将より、優秀な陸軍の将に任せた方がよい、と曹操は確信した。
江陵に滞在して一か月後、賈詡が浮かない顔でぽつりと言った。
「疫病が流行り始めています……」
建業からも凶報が届いた。
周瑜が揚州の首府に現れ、断固として抗戦を主張し、孫権は剣で机を斬ったという。
「曹操と戦う。いまより後、降伏を主張する者は、この机のようになるであろう」
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