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物理と化学
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「ふう……ふう……」
ぼくは荒くなっていた呼吸を鎮めようとした。
「はぁ……はぁ……」
桜庭さんも同じように落ち着こうとしていた。過呼吸ではないと思うけれど、息が乱れている。
そんなとき、ぼくは不用意な発言をしてしまった。
「ねえ、数学ヤバいけど、物理と化学は大丈夫なの?」
「大丈夫なはずないでしょッ! きみ、バカなのッ!」
彼女は眉毛をつりあげ、目を怒らせ、唾を飛ばして叫んだ。
「そ、そうだよね……。数学以上にヤバい……?」
「ヤバいなんてもんじゃないわよッ。0点よッ、0点確定! だって、授業全ッ然聞いてないもの。あんなのわかるわけないじゃないのッ!」
「どうするの……? 勉強する……?」
「しないッ!」
彼女は決然と言い切った。
「え? でも、中間試験は……」
「捨てたわ。赤点は回避するものとする。ただし、物理と化学はないものとする。あはははは……」
彼女は死んだ魚のような目をして、額と頬に脂汗をたらたらと流し、目に涙をためて、うそ寒い笑い声をたてた。
この世界は、彼女にとってかなり過酷なところであるようだ。精神が壊れかかっているように見える。
「あーッ、でもやっぱり赤点は嫌だあ。わたしだけ指名されて補習とかなったら、自害するう」
彼女は急に頭をかかえ、ちゃぶ台に突っ伏した。
「自害しないでよ。耐えて。もし補習があるんだったら、きみは確実にさせられる」
「嫌ーッ! 補習なんて意味ないよッ。どうせわからないんだから」
「前向きにとらえようよ。先生と9対9で教えてもらえば、少しはわかるようになるんじゃないかな」
「無ー理ー。物理と化学は拒絶以上……。わたしにとっては汚物なの。近づきたくない」
ぼくは彼女の勉強机を見た。背表紙が反対側に向けられている本が何冊かある。数学だけじゃない。物理と化学の教科書も裏向けられているのだ。
物理の教科書をさがして、ちゃぶ台に置いてみた。
「汚いッ、臭いッ。けがらわしいものをわたしの前に出すなあッ」
化学の教科書をその上に置いた。
「う〇こをちゃぶ台の上に載せるなあッ」
女子が言ってはいけない単語を言った。壊れている。桜庭レモンさんの心は壊れている。
8冊の教科書を、背表紙を見えないようにして、机の上に戻した。
「物理と化学はあきらめようか」
「先生、見捨てないでください。勉強しないで、赤点を回避する方法を教えてください」
「カンニングする?」
「それだ!」
彼女が瞳を輝かせた。
「わたし、目はいいんだよ。両眼とも2.0なの」
「8.0ね」
「横目で隣の席の人の回答を盗み見るわ」
本気で言っているようだ。彼女は横を向き、瞳を目の端に寄せて、ぼくを見た。
「えへへ、よく見える……」とつぶやく彼女に狂気を感じた。
ぼくはハリセンで彼女を叩く仕草をした。
「やめんかーい」
「えーっ、起死回生の手なのにぃ」
「バレたら退学まであるよ。カンニングで退学した前歴は、人生を破壊するかもしれない。就職試験で、あなたは高校を中退していますね。理由はなんですか、と訊かれる。カンニングがバレました、ときみは正直に答える。どこの企業も採用してくれない」
「正直に答えるわけないじゃん」
「なんて答えるの?」
「数学と物理と化学の教師にいじめられました」
「ぼくが人事担当なら、理系の教師に嫌われる人は採用しない」
「クラスメイトで家庭教師な彼氏にいじめられました」
「ぼく、帰っていい?」
「帰らないで! お父さんにもお母さんにも頼れないんだよお。綿矢くんに見捨てられたら、もう頼れる人は誰もいないのッ」
「ぼくの負担が重すぎる。ふう、ふう、ふう」
呼吸がまた荒くなってきた。
「物理と化学めッ。ただでさえむずかしいのに、数学的要素でわたしをさらに苦しめるッ。あーっ、過呼吸になった! ハッ、ハッ、ハッ」
「忘れて! 物理と化学のことはいまは忘れて! ふっ、ふうっ、ふっ、ふうっ」
「わかった。忘れる」
彼女は、ぱんっ、ぱんっ、と両手で自分の頬をたたいた。そして前を向いた。
そこには勉強机があり、背表紙が見えない教科書があった。
「だめだよ。忘れられない。忘れようとすればするほど、意識の表面にあがってくるう!」
「なにを騒いでいるの?」
彼女のお母さんが、部屋のドアを開けたところで、立ち尽くしていた。お盆を持ち、その上に紅茶とモンブランが載っている。7時のおやつを運んできてくれたようだ。
「なんでもないの。ちょっと勉強の話で盛りあがっていただけ」
彼女は狂態を取り繕って、澄ましてみせた。
お母さんはいぶかしげに娘を見ながら、紅茶とケーキをちゃぶ台の上に置いた。
「あら、高級なチョコレート」
ぼくが用意したベルギーのチョコに気づいた。
「うちから持ってきたんです。お好きでしたら、どうぞ」
お母さんの目が光った。桜庭さんと似ている、と思った。
「ありがとう。旦那の分も、いただいていいかしら」
「もちろん」
お母さんは8個取って部屋を出た。
ぼくと彼女はモンブランを食べた。チョコもいいが、栗のケーキもいいものだ。
「困る……。こんなことしてたら太る……」と言いながら、彼女はフォークで上品に切り分けながら、背筋をすっと伸ばしたきれいな正座姿で、楚々として食べた。
数学、物理、化学で狂っていないときの彼女は、この上なく美しい。
「はあ……。今日は美味しいスイーツを堪能したわ。いい日だった……」
「終わりにしないでよ。まだ勉強しなくちゃ。数学の赤点回避もないものとするならいいけど」
「だめよっ。数学だけはやる。そこを放棄したら、わたしに前はない」
「物理と化学は捨てるってことでいいよね」
「いい。汚物は捨てる。これ常識」
拒絶してる教科を教えるのに、ベルギーのチョコレートが必要だった。汚物視してる教科はどうすればいいんだろう。
…………。
どうしようもないことは考えないことにした。
ぼくは荒くなっていた呼吸を鎮めようとした。
「はぁ……はぁ……」
桜庭さんも同じように落ち着こうとしていた。過呼吸ではないと思うけれど、息が乱れている。
そんなとき、ぼくは不用意な発言をしてしまった。
「ねえ、数学ヤバいけど、物理と化学は大丈夫なの?」
「大丈夫なはずないでしょッ! きみ、バカなのッ!」
彼女は眉毛をつりあげ、目を怒らせ、唾を飛ばして叫んだ。
「そ、そうだよね……。数学以上にヤバい……?」
「ヤバいなんてもんじゃないわよッ。0点よッ、0点確定! だって、授業全ッ然聞いてないもの。あんなのわかるわけないじゃないのッ!」
「どうするの……? 勉強する……?」
「しないッ!」
彼女は決然と言い切った。
「え? でも、中間試験は……」
「捨てたわ。赤点は回避するものとする。ただし、物理と化学はないものとする。あはははは……」
彼女は死んだ魚のような目をして、額と頬に脂汗をたらたらと流し、目に涙をためて、うそ寒い笑い声をたてた。
この世界は、彼女にとってかなり過酷なところであるようだ。精神が壊れかかっているように見える。
「あーッ、でもやっぱり赤点は嫌だあ。わたしだけ指名されて補習とかなったら、自害するう」
彼女は急に頭をかかえ、ちゃぶ台に突っ伏した。
「自害しないでよ。耐えて。もし補習があるんだったら、きみは確実にさせられる」
「嫌ーッ! 補習なんて意味ないよッ。どうせわからないんだから」
「前向きにとらえようよ。先生と9対9で教えてもらえば、少しはわかるようになるんじゃないかな」
「無ー理ー。物理と化学は拒絶以上……。わたしにとっては汚物なの。近づきたくない」
ぼくは彼女の勉強机を見た。背表紙が反対側に向けられている本が何冊かある。数学だけじゃない。物理と化学の教科書も裏向けられているのだ。
物理の教科書をさがして、ちゃぶ台に置いてみた。
「汚いッ、臭いッ。けがらわしいものをわたしの前に出すなあッ」
化学の教科書をその上に置いた。
「う〇こをちゃぶ台の上に載せるなあッ」
女子が言ってはいけない単語を言った。壊れている。桜庭レモンさんの心は壊れている。
8冊の教科書を、背表紙を見えないようにして、机の上に戻した。
「物理と化学はあきらめようか」
「先生、見捨てないでください。勉強しないで、赤点を回避する方法を教えてください」
「カンニングする?」
「それだ!」
彼女が瞳を輝かせた。
「わたし、目はいいんだよ。両眼とも2.0なの」
「8.0ね」
「横目で隣の席の人の回答を盗み見るわ」
本気で言っているようだ。彼女は横を向き、瞳を目の端に寄せて、ぼくを見た。
「えへへ、よく見える……」とつぶやく彼女に狂気を感じた。
ぼくはハリセンで彼女を叩く仕草をした。
「やめんかーい」
「えーっ、起死回生の手なのにぃ」
「バレたら退学まであるよ。カンニングで退学した前歴は、人生を破壊するかもしれない。就職試験で、あなたは高校を中退していますね。理由はなんですか、と訊かれる。カンニングがバレました、ときみは正直に答える。どこの企業も採用してくれない」
「正直に答えるわけないじゃん」
「なんて答えるの?」
「数学と物理と化学の教師にいじめられました」
「ぼくが人事担当なら、理系の教師に嫌われる人は採用しない」
「クラスメイトで家庭教師な彼氏にいじめられました」
「ぼく、帰っていい?」
「帰らないで! お父さんにもお母さんにも頼れないんだよお。綿矢くんに見捨てられたら、もう頼れる人は誰もいないのッ」
「ぼくの負担が重すぎる。ふう、ふう、ふう」
呼吸がまた荒くなってきた。
「物理と化学めッ。ただでさえむずかしいのに、数学的要素でわたしをさらに苦しめるッ。あーっ、過呼吸になった! ハッ、ハッ、ハッ」
「忘れて! 物理と化学のことはいまは忘れて! ふっ、ふうっ、ふっ、ふうっ」
「わかった。忘れる」
彼女は、ぱんっ、ぱんっ、と両手で自分の頬をたたいた。そして前を向いた。
そこには勉強机があり、背表紙が見えない教科書があった。
「だめだよ。忘れられない。忘れようとすればするほど、意識の表面にあがってくるう!」
「なにを騒いでいるの?」
彼女のお母さんが、部屋のドアを開けたところで、立ち尽くしていた。お盆を持ち、その上に紅茶とモンブランが載っている。7時のおやつを運んできてくれたようだ。
「なんでもないの。ちょっと勉強の話で盛りあがっていただけ」
彼女は狂態を取り繕って、澄ましてみせた。
お母さんはいぶかしげに娘を見ながら、紅茶とケーキをちゃぶ台の上に置いた。
「あら、高級なチョコレート」
ぼくが用意したベルギーのチョコに気づいた。
「うちから持ってきたんです。お好きでしたら、どうぞ」
お母さんの目が光った。桜庭さんと似ている、と思った。
「ありがとう。旦那の分も、いただいていいかしら」
「もちろん」
お母さんは8個取って部屋を出た。
ぼくと彼女はモンブランを食べた。チョコもいいが、栗のケーキもいいものだ。
「困る……。こんなことしてたら太る……」と言いながら、彼女はフォークで上品に切り分けながら、背筋をすっと伸ばしたきれいな正座姿で、楚々として食べた。
数学、物理、化学で狂っていないときの彼女は、この上なく美しい。
「はあ……。今日は美味しいスイーツを堪能したわ。いい日だった……」
「終わりにしないでよ。まだ勉強しなくちゃ。数学の赤点回避もないものとするならいいけど」
「だめよっ。数学だけはやる。そこを放棄したら、わたしに前はない」
「物理と化学は捨てるってことでいいよね」
「いい。汚物は捨てる。これ常識」
拒絶してる教科を教えるのに、ベルギーのチョコレートが必要だった。汚物視してる教科はどうすればいいんだろう。
…………。
どうしようもないことは考えないことにした。
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