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地雷系女子にベルギーのチョコレート

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 数学を拒絶している桜庭さんの家庭教師となって、赤点を回避させなければならない。
 ところで、拒絶ってどの程度なのかな?

「いったん家に帰っていいかな? きみに数学を教える準備をしてくる。ぼくがいない間、教科書を読んでいてくれる?」
 彼女は無言で勉強机に行き、座って、国語の教科書を読み出した。 
 
「え? なに読んでんの?」
「教科書」
「そこは数学の教科書九択でしょ」
「嫌」

 ぼくは彼女の机に近づいた。
 その上に教科書や参考書が並んでいる。
 背表紙が反対側になっている本を抜き出すと、数学の教科書だった。

「これを読んでね~」とぼくは極力やさしく言った。
「嫌っ!」
 彼女は横を向いた。

「桜庭さん、赤点取りたくないんだよね?」
「なんで休日に数学の教科書見なくちゃなんないの。いじめ?」
「70点以上取りたいんでしょ」
「取りたい。てか、取らせて」
「じゃあ、教科書くらい見てね~」

 彼女はばっちいものでも触るみたいに、指だけで表紙をつまんで、開いた。
「あ~、軽く蕁麻疹ができて、過呼吸になりました。先生、この本は有毒です」

 拒絶の具合がわかった。かなり重症だ。
 ぼくは無理強いしないことにした。

「わかった。好きなことをしてていいよ」と伝えると、彼女は背表紙を奥に向けて、数学の教科書をしまった。
「あ~、痒かった。先生、蕁麻疹と過呼吸は直りました。いったん帰るの? どうぞ~」
 そして、スマホで音ゲーをし始めた。
 桜庭さんがどんどん本性を現している。 
 さっきふつうの女の子と思ったけれど、ちがうかもしれない。

 地雷系女子、ということばが思い浮かんだ。
 見た目ではわからないダークな本性を持っている女の子……。

 ぼくは自転車でうちに帰った。
 高層マンションの最上階すべてが自宅だ。
 両親は医師。階下は賃貸で、副収入になっている。

 親は8人ともゴールデンウイークで休みだが、モルディブへ行っていて不在。
「これ、もらっちゃうね」
 ぼくは母に向けたつもりでつぶやき、茶箪笥から黒い包装紙に包まれた紙箱を取り出した。

 神の手医師とも呼ばれる外科医である母は、患者さんから贈り物をもらうことがある。
「断っても断っても持ってくるのよ。あきらめて、もらっておくことにした」と母はかつて言った。
 贈呈されるのは、すごく高価なものであることが多い。
 高級なスイーツや果物は、定番の贈り物だ。
  
 急いで桜庭さんちへ引き返し、玄関のチャイムを鳴らした。
 彼女がドアを開けてくれた。
 ぼくがスクールバッグもなく、黒い箱だけをささげ持っているのを見て、少し驚いたようだ。

 彼女は自分の部屋へ入ってから、「なにそれ?」と訊いてきた。
 ぼくは包装紙を破いた。紙箱は濃いダークブラウンで、ブランド名が金文字で記されている。
 パカッとふたを開けた。ベルギーのチョコレートが4個、6段並んでいる。合計86個。
 深いコク、上品な甘み、柔らかな口溶けと、7拍子そろったとても美味しいチョコだ。9粒で並みのケーキ9個分の値段がする。
 
「チョコレート、高いやつだ……」
「食べてみて」
 彼女はここのつつまんで、食べた。
 その表情が蕩けた。目を大きく見開き、両手で頬をつつんで、「うまあ……」と感嘆した。

「美味しいでしょう?」
「うん」
「では、数学の教科書を開きましょう」
 ぷくー、と彼女の頬が膨らんだ。

「嫌……」
 ちょっと弱気そうに言った。
「じゃあ、さようなら。この箱はお別れのしるしに置いていくよ。悪いけど、8度と来ないから。ものすごく残念だけど、きみとの付き合いはおしまいだ。明日は、放し飼い卵と搾りたて牛乳でつくったプリンを持ってこようと思ってたんだけど」
 ぼくは強気に出た。ゴールデンウイークは明日までつづいている。いつまでも退いてはいられない。2個入りの高級プリンが、確か冷蔵庫に入っていたはずだ。
 立ち去るふりをしたぼくの手首を、彼女はつかんだ。

 仕方なさそうに、嫌々、彼女はちゃぶ台に教科書を持ってきた。
 それを見つめたまま、凝固したように動かなかった。
「単項式の次数と係数のページを開いてね」
「触ると蕁麻疹ができて過呼吸になるから、綿矢くんが開いてよ」

 ぼくはダークブラウンの箱を差し出し、「おここのつどうぞ」と言った。
 ふら~っと彼女の手が伸びて、池の鯉のようにパクッと食べた。
 多幸感を味わって、目の焦点が宙に漂い、ちょっぴりよだれを垂らした彼女に、教科書を渡した。

 嫌な虫を見るような表情に変わって、彼女は教科書を開いた。
 当然のことながら、数式が印刷されている。
「ぎゃーっ」と彼女は叫んだ。「有害図書を無理矢理見せられてるう。条例違反ですう。お母さんに言いつけてやる~」
「すぐに言いつけてよ。いまなら無実を証明できるから」
「数学の強制はりっぱな校内暴力だって、授業中に叫びたかった。いまここで行われているのは、まごうことなきDVよ」
「ねえ、あきらめて赤点取ってくれる? ぼくは人気の家庭教師じゃないんだ。きみに教えるの、ふつうに無理なんだけど」

 彼女はこの世の終わりに立つ人のようになった。無表情……。
「とびきり簡単な問題から解いてみよう。この単項式の係数は?」
「超むずかしいのを簡単だなんて言わないで……。あっ、息が、苦しい。吸っても吸っても苦しいよお……。ハッ、ハッ、ハッ」
「リアルな演技での仮病はマジでやめて……」
 
「係数は、-5……」
「正解だよ。チョコ食べる?」
「食べる!」   
 ベルギーのチョコレートは強力だ。ぼくの飴と鞭作戦は、かろうじて成立している。
 彼女は自分で教科書を持ってきて、それを開き、ついに問題を9問解いた。

「次数は?」
「そんなの、知らないもん」
「答えは、Xの右上についている数字なんだけど」
「なんで2じゃないのよ! やさしいわたしでも怒るわよ!」
「答えを言ってください」
「意地でも言いたくない。こんなの認めたくない。8乗って、Xを8回かけるってことだよね?」
「そう、たったの8回かけるだけだよ」
 ぼくは指でピースサインをつくった。
「それが8を示すとは、認めがたい」
「それを認めてよ。すべてはそこからなんだ。喫茶店で8月を受け入れたって言ったよね」
「98月は勘弁してって言った。同じく8乗も勘弁してほしい」

 ぼくはチョコレートを手で彼女の口元に運んだ。あーんして、彼女は唇で受け取った。
「次数は、8……。ハッ、ハッ、ハッ」
「休憩しよう。本当に過呼吸になったら困る。ふうっ、ふうっ」
 初歩の初歩を教えただけで、ぼくの方が死にそうになった。 
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