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Ⅱ‐回青の園
追加短編 祝いⅱ
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「暑くなったな」
「ああ、今年は急に来たね」
離れに戻る途中、監督役が扉より手前で何か声を上げたので、ちょっと驚いた。見れば庭師の爺さんがまだ働いていたようだった。挨拶を交わすのに俺も頭を下げて辺りを見渡す。庭師たちが梯子とかを持ってきて仕事を始めるのを、三日前に働きに出るときにも横目には見ていた。庭は全体的にすっきりして綺麗になっている。
三日前とは違って爺さん一人みたいだ。もう暮れそうなのに、こんな時間まで。明日は主人が帰ってくるから今日のうちに済ませなければならなかったのかもしれない。大掃除や模様替えのように。
――明日。主人の帰宅。――庭。
ふと思い起こされた記憶が結びつき――今度は俺が勝手に立ち止まって声をあげそうになった。どうにか堪えた。
監督役を見送った後慌てて前の日記を探した。いつもは適当に引っ張り出して読んでみるくらいだが、ちゃんと月の順に並んでいるから目当ての束はすぐ見つかった。まだ灯りが無いのでカーテンが薄くなった窓辺に持って行き、紐を解いて捲る。真ん中あたり。
第四の月 十四日
今日は庭に出て食事をして、少し自由に散歩をさせてもらった。回青の花が咲いているのも見せてもらった。たしかに白い花は近くで見るとバラとはちがう細い形で、すごくいい香りがした。前に持ち帰ってきたバラも、あれは花は寒くなってからだからまだだけど、上手く根づいて育っているらしい。
ほかにも咲いた花や、何かいい香りのする枝を色々と見た。庭は、ずっと居る場所なのに普段行き来するだけじゃ見えていなかった場所が多くて、そこもきれいだった。
花とか木の名前を教えてもらった。聞いたことがあっても想像と全然違ったりした。地の星というのはもっと小さいのかと思ってたけど、絵で見る星のかたちをしている。
砂糖漬けのオレンジを貰って食べたのが、いつもよりもっとおいしかった。言ったら高くていいものだったようで感心された。多分、香りがよかったんだと思う。
もう一束――一年後、これも真ん中。
紀年千三十二 第四の月 十四日
今日はとても暑い日になった。風呂の後に外で風に当たりながら昼寝をして、酌をした。俺もアザラン酒をもらって飲んだ。
花に青いきれいな蝶が来ていた。きれいだけど、蝶はあまりいっぱい来ると木の葉を食い荒らすから大変だという。ジャルサの木といってもそういうことはあるらしい。
橙の実を一つもらった。前の年のが残っていた緑色のやつ。これはいい香りがするけど、じゅくしても酸っぱいからそのままでは食えないんだそうだ。食事に出てくるオレンジとは似ているけどちがう種類だという。
もう何度も菓子などで食べさせてもらっているが、丸い果実を持ってよくながめてみるのは初めてだった。きれいに丸くてざらりとして、つやがあって、見あきなかった。重くも軽くもないふしぎな感じだ。
「やっぱり……」
改めて読むと今よりもっと下手な字だしなんか子供みたいな感想ばかりなのは恥ずかしいが。でも書いていたのでちゃんと分かった。やはりこの時期――同じ日に、庭に出ている。
暑期の入りの頃。宮廷への出仕から帰ってきた主人に言われて。
二年前はそう、外で食事をすると言って連れ出されたから何処かに出かけるのかと思っていたら、行先はすぐそこ、というか壁を隔てただけの庭で。そこに敷物を広げて食事の支度をしているのだった。
――好きに見てくるといい。庭の中なら誰も何も言わん。
そんな風に言われた。準備にもう少しかかると使用人が忙しくしている中、俺は手伝うのではなく、主人に涼を供するのでもなく、遊んでいいと言われたのだ。
そういうのは初めてだったし、ちょっと意気込んで一歩踏み出したのをよく覚えている。何ということもなく、敷石や草の整えられたところをそのまま進んで――振り向くと主人と目が合うが、促す仕草をして敷物のほうへと向かったので、周りの視線も気にしながらも一人で歩いた。最初は控えめに、少しずつ余裕が出て色んな花に寄っていったり、普段見ない離れの裏側を見に行ったりしては主人のいるほうに戻った。
去年は風呂から出て髪など乾かしたところでもう外に支度が出来ていて、木陰で昼寝して、その後も日が暮れるくらいまでそのへんで過ごしていた。貰った果物は暫らく撫でたり嗅いだりして遊んでいたが、さすがにずっと凍らせてとっておくこともできず、腐らせてしまうより先にと、湯に入れるハーブの束の代わりにも使うことがあるというのでそうして使ったんだった。
なんだかちょっと特別だった思い出の日だ。同じ日付だったとは気づかなかった。第四の月の十四日。今年はこれから――明日だ。
その日と言うと、改めて思えば、俺にとっては。
「……いや」
暖かくなって庭遊びの時期なんだろう。何かそういう仕来りなのかも知れない。でもそういうのはやるときに少しずつ教えてくれるのに、二年なにも説明はされなかった。だから偶然か、そうでないとしたら。もしかすると。いやでも、でももしかしたら。
他の日でも、庭にはたまに出て寛ぐ。探せば日記にもなんか書いてあるはずだ。花を見に連れ出されることもある。南から持ってきたあの薔薇もしっかり咲いてる。前のような草花を活けた氷を作るのに、中庭だけでなく外庭で摘むのを手伝うこともあった。だから他に庭に出る機会がまるで無いわけではない――ただ、特に何か働くのでもなく長居するのはこの日だ。他の月は議会から帰ってくると食事も軽くしてゆっくり休むことが多いのに、四の月のこの日だけ。
二年前、一年前、あのとき、ご主人様はどんな感じだったっけ。いつもと変わらないようだった気もする。ああ、もっとよく見ておくんだった。
玻璃の嵌った窓の外を窺えば爺さんはまだ歩き回って何かしている。少し急いで便所に行くふりをして外に出て、ついでの風でさっきしそびれた挨拶をしてみる。
「お疲れ様です。……今日はまだやるんですか?」
「――ああ。もう済んでるんだが、気になってね。明日お帰りだから最後の点検だ」
このお屋敷の規模だから庭師だって何人もいるが、この人は一番年嵩で、ヌハス様やナフラ様と同じくらい長く勤めていて主人も信頼している人のようだった。だからこの庭にも一番よく入る。氷づくりを一緒にやったことや、こうして話したことが何度かある。怖い相手ではなかった。
「ここは外よりは手を入れないんだが、剪定も草刈りも、気は抜けないね」
前にも聞いたような言い方に頷く。外のほうの庭は確かにもっと、木とか花壇の形が手の込んだ感じだ。リーシャットの庭は大体伝統的な形式を守っているが、流行りを取り入れて形を変えることもある……というのは、前に聞いた。これはもっとお喋りな他の人から。
「……此処の手入れは毎年、四の月ですか?」
「そういえばここ数年は四の間に一通りやるね。お務めから戻られたら寛がれるから念入りにと……」
それとなく訊いてみる。頷いて言うのに内心そわそわした。数年っていつからだろうか。
「ああ、お前さんも庭に出してもらえるから楽しみか」
それが表情か態度にも出てしまったのか、大体のところを言い当てられて肩が跳ねた。誤魔化しに笑って首元を弄る。
「……はい、多分、ですけど。出してもらえるかなと。去年もだったので。この時期ってなんか……そういう風習みたいなのがあるんですか? 庭を見るような……」
「いいや? まあ花も咲くし、皆、暑期のほうが外には出たがるがね。そういう気分になるってだけじゃないかね」
「そうですか」
「明日も晴れそうだしいいな。仕事ぶりをちゃんと見ておくれ。オーニソガラムも綺麗だよ」
「はい。――すみません、邪魔をして」
仕事が済んだのに引き留めちゃ悪いし、この人に聞けるのはこれくらいだろう。じゃあと歩き出すのを止めず頭を下げて、言ったとおり花も咲いてきた庭は今日はちらりとだけ見て中に戻る。扉を背に、自分を落ち着ける為に意識して呼吸する。しかし奥へと進む足は奇妙に軽い。
明日。主人が帰ってくる。そうしたら――また庭に出してもらえるんだろうか。
考えすぎでなければ、俺の為に。庭を見ることや、食事とか茶をするのが目的で外に出るんじゃなくて、俺を出すのに庭のほうを用意をしてくれている。
多分、俺が此処に連れてこられた日だから。誕生祝いではないけど、そういう感じで。
それは、思い上がりじゃないだろうか。今爺さんが言ったとおり、主人もそんな気分になるだけで。そう思っていたほうがもし明日出なかったときがっかりしなくて済む。でも期待してしまう。
やはり浮ついた感じのする手で日記を元のように重ねなおし、きっちり紐を結わえて戻す。ランプに火を入れに来たのを眺めて食事を貰う。新しい紙を出して――今日の日記を書かないといけないのに、明日のことばかりが気になる。
「お帰りなさいませ」
庭師の言っていたように朝から晴れて暑期らしい空気だった。
俺が落ち着きなく待っていたのを知っているかのように主人の帰宅はいつもより少し早く、姿勢よく立って出迎えるとすぐ金の目が合って、ふと和らぐのにどきりとする。抱擁と口づけ。頬に唇が触れて、耳元で声がするのにも。
「ただいま。いい子にしていたか」
背を撫でて離れる、その顔を見上げて頷く。
「ご入浴の支度もできておりますが、」
「……後だな。腹が減った。今日は庭で過ごすから、靴を履き替えろ」
「はい」
本当に来た、なんてことはないようなその指図に身構えてしまう。薄い布の靴を見下ろし――自分でも目が泳いでいるのが分かる。
「毎年、この日に庭に出るのは何か理由があるんですか?」
「なんだ、気づいたのか」
なるべく自然に聞こうとしたけど。見つめた主人がふと笑って言うからその後はもう取り繕えなかった。
「今日はお祝いなんですか、――俺の」
「ああ」
「そんなの思いつかなくて、全然、ろくに礼も言えなかったじゃないですか……」
分かっていたらもっとしっかり、感謝したのに。
「奴隷を祝うなどと言ってしまうとまた何かと煩いからな。このくらいならお前も気づかんかと思っていたが……まあ三年もやればな」
気づかないほうがよかったんだろうか、なんて不安は一瞬だ。主人が笑みを深めてまた触れてくる。頬が揉まれる。そこに不機嫌さは欠片もない。ただただ優しい手と眼差しがある。
「そんな嬉しそうな顔をして、お前」
「す、みません、や――ありがとうございます」
「外との差かと思ったが、今日はよく冷えている。心地いい」
だってとても嬉しい。抑えてなんかおけない。
毎日こうして過ごしているだけでも特別なことなのに、毎年祝ってもらってたなんて、そんな恵まれた奴隷他にどれほどいるか。そんなに、いいのか。
「そろそろ欲しい物の一つ二つ、思いつくようになったか。庭以外でも、ねだれば叶えてやろう」
その上ねだるなんてそんなこと。
――けれどそう言ってもらえるなら、一つ、思いついた。思い出したとも言えるかもしれない。今とは全然違って何もできなかった頃のことを。
「また庭で……」
庭がいい。ご主人様が贈ってくれた庭での時間を過ごしたい。でもそう言うなら俺も少しは変わったところを見せたいから、ねだらせてほしい。
「庭で過ごすのなら、もう一度、市場に連れていっていただけませんか。庭で食べる物を選ばせてください。今度は何か決められると思うので」
主人はまた俺の顔を撫でて、瞬き一つだけして応じた。
「分かった。では明日に出掛けよう。今日はもう支度を言いつけたからな」
「二日も?」
昨夜だって気づいたら浮かれてしまって寝付けなかったのに。明日も?
聞き返すと主人はとうとう息を揺らして笑った。
「そういう年があってもいい。私の様子も三年見ただろうが」
「いえご主人様は、ご主人様ですし……」
こんなにいいものか。こんなに幸せで、いいものか。
楽しみだ。明日の予定、外出、買い物なんて。今から落ち着かない。ただでも落ち着いてはいなかったのに。どんな顔をしていたらいいか、何を言ったらいいか分からなくなって黙り込んでしまう。
上から包むように、さっきより長くしっかりと両腕で抱き締められる。外の温度も纏って熱い体を冷やしながらじんと熱い自分の目を紛らわして口を引き結ぶ。瞬きすると零れそうで、間近の肩を見つめていた。
「ハツカ。お前をあの日見つけられたことは私の人生の最たる幸運の一つだ。あの日を、この日を、祝わずにはおれん」
それは俺のほうだ。
「ありがとう、ございます――」
何に礼を言っているのか正直分からない。いっぱい過ぎる。
「このまま庭まで連れていってやろうか」
「……怒られますよ」
「少しははしゃがせろ」
もう決めたと抱き上げられて爪先が浮く。諦めて体を預けてしまえば笑うのが聞こえた。正装のままの襟元からは少し汗の匂いがする。
庭に用意された卓の上に俺の好物ばかり、卵料理とかケーキが並ぶのとか、花を摘んで頭や膝に撒いた戯れの意味が今年はよく分かったから、全部嬉しくて仕方がなかった。
紀年千三十三 第四の月 十四日
生まれた日は分からないけど、俺にも祝う日ができた。ハアルに入って、ご主人様が帰ってくる日。忘れなくていい。
今年も庭で食事をして、今年はご主人様と二人で一周歩いた。庭はどこを見てもとてもきれいだった。
庭を見られるのは前のときも嬉しかったけれど、祝ってもらっているんだと思うともっと嬉しい。すごく楽しい一日だった。
明日は買い物に連れていってもらえる。楽しみでもうそわそわする。うれしいのも長いと疲れるかもしれない。
紀年千三十三 第四の月 十五日
約束どおり市場に買い物に連れていってもらった。
色々、店の名前とか、つけられた値札とか、書いてあるものが全部読めたのがすごかった。分かっていたけど実際見たら思った以上だった。そして、昔は模様だと思っていたものまで読めたからおどろいた。門とか柱には、市場の安全の為の祈りの言葉とかが刻んであるものなんだという。
前のときと同じところで菓子を買ってもらった。サフランのケーキ、グライベ、小鳥の巣。余ったら誰かが食べると、沢山。
一緒に飲むのに茶も選べと言われて、広い店であれこれと嗅いだり飲んだりもしてどうにか選んだ。一口ずつなんてぜいたくをしたのにしばらく腹の中が波打つような感じだった。ミントの入った緑色の茶を買ってもらった。
沢山歩いたがとても楽しかった。途中で腹がへったからと買い食いなんてしたのも楽しかった。ご主人様も普段はそんなことをしないそうで、店に行ったらちょっと騒ぎになった。肉詰めのパンはおいしかった。
雨が降ったから、でも、窓を開けてそこから庭を見ながら買ってきた菓子を食べた。雨降りでも庭はきれいだ。毎日の食事とか休けいのときよりごうかにテーブルの上を用意して飾りつけしてもらったのもうれしかった。二日もぜいたくをしてしまった。
「ああ、今年は急に来たね」
離れに戻る途中、監督役が扉より手前で何か声を上げたので、ちょっと驚いた。見れば庭師の爺さんがまだ働いていたようだった。挨拶を交わすのに俺も頭を下げて辺りを見渡す。庭師たちが梯子とかを持ってきて仕事を始めるのを、三日前に働きに出るときにも横目には見ていた。庭は全体的にすっきりして綺麗になっている。
三日前とは違って爺さん一人みたいだ。もう暮れそうなのに、こんな時間まで。明日は主人が帰ってくるから今日のうちに済ませなければならなかったのかもしれない。大掃除や模様替えのように。
――明日。主人の帰宅。――庭。
ふと思い起こされた記憶が結びつき――今度は俺が勝手に立ち止まって声をあげそうになった。どうにか堪えた。
監督役を見送った後慌てて前の日記を探した。いつもは適当に引っ張り出して読んでみるくらいだが、ちゃんと月の順に並んでいるから目当ての束はすぐ見つかった。まだ灯りが無いのでカーテンが薄くなった窓辺に持って行き、紐を解いて捲る。真ん中あたり。
第四の月 十四日
今日は庭に出て食事をして、少し自由に散歩をさせてもらった。回青の花が咲いているのも見せてもらった。たしかに白い花は近くで見るとバラとはちがう細い形で、すごくいい香りがした。前に持ち帰ってきたバラも、あれは花は寒くなってからだからまだだけど、上手く根づいて育っているらしい。
ほかにも咲いた花や、何かいい香りのする枝を色々と見た。庭は、ずっと居る場所なのに普段行き来するだけじゃ見えていなかった場所が多くて、そこもきれいだった。
花とか木の名前を教えてもらった。聞いたことがあっても想像と全然違ったりした。地の星というのはもっと小さいのかと思ってたけど、絵で見る星のかたちをしている。
砂糖漬けのオレンジを貰って食べたのが、いつもよりもっとおいしかった。言ったら高くていいものだったようで感心された。多分、香りがよかったんだと思う。
もう一束――一年後、これも真ん中。
紀年千三十二 第四の月 十四日
今日はとても暑い日になった。風呂の後に外で風に当たりながら昼寝をして、酌をした。俺もアザラン酒をもらって飲んだ。
花に青いきれいな蝶が来ていた。きれいだけど、蝶はあまりいっぱい来ると木の葉を食い荒らすから大変だという。ジャルサの木といってもそういうことはあるらしい。
橙の実を一つもらった。前の年のが残っていた緑色のやつ。これはいい香りがするけど、じゅくしても酸っぱいからそのままでは食えないんだそうだ。食事に出てくるオレンジとは似ているけどちがう種類だという。
もう何度も菓子などで食べさせてもらっているが、丸い果実を持ってよくながめてみるのは初めてだった。きれいに丸くてざらりとして、つやがあって、見あきなかった。重くも軽くもないふしぎな感じだ。
「やっぱり……」
改めて読むと今よりもっと下手な字だしなんか子供みたいな感想ばかりなのは恥ずかしいが。でも書いていたのでちゃんと分かった。やはりこの時期――同じ日に、庭に出ている。
暑期の入りの頃。宮廷への出仕から帰ってきた主人に言われて。
二年前はそう、外で食事をすると言って連れ出されたから何処かに出かけるのかと思っていたら、行先はすぐそこ、というか壁を隔てただけの庭で。そこに敷物を広げて食事の支度をしているのだった。
――好きに見てくるといい。庭の中なら誰も何も言わん。
そんな風に言われた。準備にもう少しかかると使用人が忙しくしている中、俺は手伝うのではなく、主人に涼を供するのでもなく、遊んでいいと言われたのだ。
そういうのは初めてだったし、ちょっと意気込んで一歩踏み出したのをよく覚えている。何ということもなく、敷石や草の整えられたところをそのまま進んで――振り向くと主人と目が合うが、促す仕草をして敷物のほうへと向かったので、周りの視線も気にしながらも一人で歩いた。最初は控えめに、少しずつ余裕が出て色んな花に寄っていったり、普段見ない離れの裏側を見に行ったりしては主人のいるほうに戻った。
去年は風呂から出て髪など乾かしたところでもう外に支度が出来ていて、木陰で昼寝して、その後も日が暮れるくらいまでそのへんで過ごしていた。貰った果物は暫らく撫でたり嗅いだりして遊んでいたが、さすがにずっと凍らせてとっておくこともできず、腐らせてしまうより先にと、湯に入れるハーブの束の代わりにも使うことがあるというのでそうして使ったんだった。
なんだかちょっと特別だった思い出の日だ。同じ日付だったとは気づかなかった。第四の月の十四日。今年はこれから――明日だ。
その日と言うと、改めて思えば、俺にとっては。
「……いや」
暖かくなって庭遊びの時期なんだろう。何かそういう仕来りなのかも知れない。でもそういうのはやるときに少しずつ教えてくれるのに、二年なにも説明はされなかった。だから偶然か、そうでないとしたら。もしかすると。いやでも、でももしかしたら。
他の日でも、庭にはたまに出て寛ぐ。探せば日記にもなんか書いてあるはずだ。花を見に連れ出されることもある。南から持ってきたあの薔薇もしっかり咲いてる。前のような草花を活けた氷を作るのに、中庭だけでなく外庭で摘むのを手伝うこともあった。だから他に庭に出る機会がまるで無いわけではない――ただ、特に何か働くのでもなく長居するのはこの日だ。他の月は議会から帰ってくると食事も軽くしてゆっくり休むことが多いのに、四の月のこの日だけ。
二年前、一年前、あのとき、ご主人様はどんな感じだったっけ。いつもと変わらないようだった気もする。ああ、もっとよく見ておくんだった。
玻璃の嵌った窓の外を窺えば爺さんはまだ歩き回って何かしている。少し急いで便所に行くふりをして外に出て、ついでの風でさっきしそびれた挨拶をしてみる。
「お疲れ様です。……今日はまだやるんですか?」
「――ああ。もう済んでるんだが、気になってね。明日お帰りだから最後の点検だ」
このお屋敷の規模だから庭師だって何人もいるが、この人は一番年嵩で、ヌハス様やナフラ様と同じくらい長く勤めていて主人も信頼している人のようだった。だからこの庭にも一番よく入る。氷づくりを一緒にやったことや、こうして話したことが何度かある。怖い相手ではなかった。
「ここは外よりは手を入れないんだが、剪定も草刈りも、気は抜けないね」
前にも聞いたような言い方に頷く。外のほうの庭は確かにもっと、木とか花壇の形が手の込んだ感じだ。リーシャットの庭は大体伝統的な形式を守っているが、流行りを取り入れて形を変えることもある……というのは、前に聞いた。これはもっとお喋りな他の人から。
「……此処の手入れは毎年、四の月ですか?」
「そういえばここ数年は四の間に一通りやるね。お務めから戻られたら寛がれるから念入りにと……」
それとなく訊いてみる。頷いて言うのに内心そわそわした。数年っていつからだろうか。
「ああ、お前さんも庭に出してもらえるから楽しみか」
それが表情か態度にも出てしまったのか、大体のところを言い当てられて肩が跳ねた。誤魔化しに笑って首元を弄る。
「……はい、多分、ですけど。出してもらえるかなと。去年もだったので。この時期ってなんか……そういう風習みたいなのがあるんですか? 庭を見るような……」
「いいや? まあ花も咲くし、皆、暑期のほうが外には出たがるがね。そういう気分になるってだけじゃないかね」
「そうですか」
「明日も晴れそうだしいいな。仕事ぶりをちゃんと見ておくれ。オーニソガラムも綺麗だよ」
「はい。――すみません、邪魔をして」
仕事が済んだのに引き留めちゃ悪いし、この人に聞けるのはこれくらいだろう。じゃあと歩き出すのを止めず頭を下げて、言ったとおり花も咲いてきた庭は今日はちらりとだけ見て中に戻る。扉を背に、自分を落ち着ける為に意識して呼吸する。しかし奥へと進む足は奇妙に軽い。
明日。主人が帰ってくる。そうしたら――また庭に出してもらえるんだろうか。
考えすぎでなければ、俺の為に。庭を見ることや、食事とか茶をするのが目的で外に出るんじゃなくて、俺を出すのに庭のほうを用意をしてくれている。
多分、俺が此処に連れてこられた日だから。誕生祝いではないけど、そういう感じで。
それは、思い上がりじゃないだろうか。今爺さんが言ったとおり、主人もそんな気分になるだけで。そう思っていたほうがもし明日出なかったときがっかりしなくて済む。でも期待してしまう。
やはり浮ついた感じのする手で日記を元のように重ねなおし、きっちり紐を結わえて戻す。ランプに火を入れに来たのを眺めて食事を貰う。新しい紙を出して――今日の日記を書かないといけないのに、明日のことばかりが気になる。
「お帰りなさいませ」
庭師の言っていたように朝から晴れて暑期らしい空気だった。
俺が落ち着きなく待っていたのを知っているかのように主人の帰宅はいつもより少し早く、姿勢よく立って出迎えるとすぐ金の目が合って、ふと和らぐのにどきりとする。抱擁と口づけ。頬に唇が触れて、耳元で声がするのにも。
「ただいま。いい子にしていたか」
背を撫でて離れる、その顔を見上げて頷く。
「ご入浴の支度もできておりますが、」
「……後だな。腹が減った。今日は庭で過ごすから、靴を履き替えろ」
「はい」
本当に来た、なんてことはないようなその指図に身構えてしまう。薄い布の靴を見下ろし――自分でも目が泳いでいるのが分かる。
「毎年、この日に庭に出るのは何か理由があるんですか?」
「なんだ、気づいたのか」
なるべく自然に聞こうとしたけど。見つめた主人がふと笑って言うからその後はもう取り繕えなかった。
「今日はお祝いなんですか、――俺の」
「ああ」
「そんなの思いつかなくて、全然、ろくに礼も言えなかったじゃないですか……」
分かっていたらもっとしっかり、感謝したのに。
「奴隷を祝うなどと言ってしまうとまた何かと煩いからな。このくらいならお前も気づかんかと思っていたが……まあ三年もやればな」
気づかないほうがよかったんだろうか、なんて不安は一瞬だ。主人が笑みを深めてまた触れてくる。頬が揉まれる。そこに不機嫌さは欠片もない。ただただ優しい手と眼差しがある。
「そんな嬉しそうな顔をして、お前」
「す、みません、や――ありがとうございます」
「外との差かと思ったが、今日はよく冷えている。心地いい」
だってとても嬉しい。抑えてなんかおけない。
毎日こうして過ごしているだけでも特別なことなのに、毎年祝ってもらってたなんて、そんな恵まれた奴隷他にどれほどいるか。そんなに、いいのか。
「そろそろ欲しい物の一つ二つ、思いつくようになったか。庭以外でも、ねだれば叶えてやろう」
その上ねだるなんてそんなこと。
――けれどそう言ってもらえるなら、一つ、思いついた。思い出したとも言えるかもしれない。今とは全然違って何もできなかった頃のことを。
「また庭で……」
庭がいい。ご主人様が贈ってくれた庭での時間を過ごしたい。でもそう言うなら俺も少しは変わったところを見せたいから、ねだらせてほしい。
「庭で過ごすのなら、もう一度、市場に連れていっていただけませんか。庭で食べる物を選ばせてください。今度は何か決められると思うので」
主人はまた俺の顔を撫でて、瞬き一つだけして応じた。
「分かった。では明日に出掛けよう。今日はもう支度を言いつけたからな」
「二日も?」
昨夜だって気づいたら浮かれてしまって寝付けなかったのに。明日も?
聞き返すと主人はとうとう息を揺らして笑った。
「そういう年があってもいい。私の様子も三年見ただろうが」
「いえご主人様は、ご主人様ですし……」
こんなにいいものか。こんなに幸せで、いいものか。
楽しみだ。明日の予定、外出、買い物なんて。今から落ち着かない。ただでも落ち着いてはいなかったのに。どんな顔をしていたらいいか、何を言ったらいいか分からなくなって黙り込んでしまう。
上から包むように、さっきより長くしっかりと両腕で抱き締められる。外の温度も纏って熱い体を冷やしながらじんと熱い自分の目を紛らわして口を引き結ぶ。瞬きすると零れそうで、間近の肩を見つめていた。
「ハツカ。お前をあの日見つけられたことは私の人生の最たる幸運の一つだ。あの日を、この日を、祝わずにはおれん」
それは俺のほうだ。
「ありがとう、ございます――」
何に礼を言っているのか正直分からない。いっぱい過ぎる。
「このまま庭まで連れていってやろうか」
「……怒られますよ」
「少しははしゃがせろ」
もう決めたと抱き上げられて爪先が浮く。諦めて体を預けてしまえば笑うのが聞こえた。正装のままの襟元からは少し汗の匂いがする。
庭に用意された卓の上に俺の好物ばかり、卵料理とかケーキが並ぶのとか、花を摘んで頭や膝に撒いた戯れの意味が今年はよく分かったから、全部嬉しくて仕方がなかった。
紀年千三十三 第四の月 十四日
生まれた日は分からないけど、俺にも祝う日ができた。ハアルに入って、ご主人様が帰ってくる日。忘れなくていい。
今年も庭で食事をして、今年はご主人様と二人で一周歩いた。庭はどこを見てもとてもきれいだった。
庭を見られるのは前のときも嬉しかったけれど、祝ってもらっているんだと思うともっと嬉しい。すごく楽しい一日だった。
明日は買い物に連れていってもらえる。楽しみでもうそわそわする。うれしいのも長いと疲れるかもしれない。
紀年千三十三 第四の月 十五日
約束どおり市場に買い物に連れていってもらった。
色々、店の名前とか、つけられた値札とか、書いてあるものが全部読めたのがすごかった。分かっていたけど実際見たら思った以上だった。そして、昔は模様だと思っていたものまで読めたからおどろいた。門とか柱には、市場の安全の為の祈りの言葉とかが刻んであるものなんだという。
前のときと同じところで菓子を買ってもらった。サフランのケーキ、グライベ、小鳥の巣。余ったら誰かが食べると、沢山。
一緒に飲むのに茶も選べと言われて、広い店であれこれと嗅いだり飲んだりもしてどうにか選んだ。一口ずつなんてぜいたくをしたのにしばらく腹の中が波打つような感じだった。ミントの入った緑色の茶を買ってもらった。
沢山歩いたがとても楽しかった。途中で腹がへったからと買い食いなんてしたのも楽しかった。ご主人様も普段はそんなことをしないそうで、店に行ったらちょっと騒ぎになった。肉詰めのパンはおいしかった。
雨が降ったから、でも、窓を開けてそこから庭を見ながら買ってきた菓子を食べた。雨降りでも庭はきれいだ。毎日の食事とか休けいのときよりごうかにテーブルの上を用意して飾りつけしてもらったのもうれしかった。二日もぜいたくをしてしまった。
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出会ってから三年。その流れゆく時間の中で、男の態度が商品と管理する関係とは違うと感じるようになる憂璃。
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勘違いしてはいけないと律する憂璃の前に、自分を売った母が現れ──
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