ご主人様の枕ちゃん

綿入しずる

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Ⅰ‐翡翠の環

氷ⅱ

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 いつも丸まって暮らしていたけれど、此処にきて随分姿勢がよくなったものだ。がりがりだった体も多少は肉がついてそれなりにはなったと思う。噂どおり妖精が食べるのか、やけに与えられる量の割にはと言ったところではあるが、少なくとも腹いっぱいであれ以上は食べられない。
 体も髪も汚れていることがなくなった。虫食い痕ばかりは相変わらずだが、まあそんなに悪いものではないのかもと思えてきたのは、間違いなく主人のせいだ。あの人がやたらと触れて接吻などするから。
 主人が使う浴室とは違う使用人用の石壁の洗い場で一人、手早く体を洗って流す中、そんなことを考える。毎晩、寝るときは離れに戻っているからあの触れ方は――忘れられない。主人の匂いも体温も、最初には戸惑ったものはもうすっかり俺の生活の一部だった。
 ぱっと手についた水気を払う。ほんの僅か一押し程度の感覚で力を込めるだけで、氷の粒になってぱちぱちと音を立てて床で跳ねた。
 今日も好調だ。あれからもう六日、毎日毎朝、確認のように氷作りもやらされているが失敗したことはない。作れなければ王宮に行くこともないかな、と少し過ぎりもしたが、命令に背く勇気もなかった。
 タオルで全身よく拭いて、用意しておいた瓶から橙花水を手に取り擦り込んで、髪には少し油も。お貴族様の身支度だと思っていたこともいつものことになってしまって、自分ですべてこなせるようになった。
 いい香りがするが、自分の掌を嗅いでみても不思議と主人の匂いとは違う。
 足早に隣の部屋に移り、服を着て。きちりと踵まで靴に足を入れて顔を上げた。
「いいか?」
「はい、お待たせしました」
 あれから毎日、タラブ様が俺を迎えに来て送り届けるようになっている。行ったことのある部屋ならもう間違いなく通うことができるとは思うが、屋敷の中を一人で歩くことは許されていないから、こうして入浴や食事も待っていてもらう。
 風呂は一番最後だ。日暮れ頃、主人のところに戻される前に身を清める。尻を洗う道具は用意されていなくて本当に体を洗うだけだから随分楽だ。性奴隷の仕事は二度していたが、主人も俺が礼儀作法を覚えることを優先したいのだろう、どことなく疲れない程度に済ませてもらっている感じがした。
「あ――」
 タラブ様の後ろをついて屋敷の中を進むうち、気がついて足が止まりかけた。小さく発してしまった声はタラブ様には聞こえなかったようで、止まらない歩みに俺も意気込んで足を前へと出した。
 離れに、誰かいる。他の妖精憑きネ・モの気配がある。
 それを感じてこんなに困惑するとは、思いもよらなかった。今日は暑い。書斎だって別の誰かが冷房をしているはずだし、主人の部屋を冷やす者が必要だろう。そんな当たり前のことにどうして立ち止まりかけたのか。
 微妙に俯きそうになるのを努めて顔を上げ姿勢をよくして歩く。庭に出て敷石を辿り離れの扉に至る。一枚隔ててはっきりと誰かの気配を感じた。
「旦那様、タラブです」
「入れ」
 主人の声がした。今日は俺より早く戻ってきたらしい。タラブ様が扉を開き中へと入るのに続くのは、初めての部屋に入るように落ち着かない気分だった。目は自然と主人と、居るはずの白奴隷アラグラルを探した。
 この屋敷で初めて見る白奴隷はすぐに見つかった。テーブルで巻物を読んでいる主人の横、銀色の首輪をつけられた白い巻き毛の子供が椅子に腰掛けている。遠目から見ても綺麗な子供だったが、近づくと一層。夜会で見た白奴隷のような、人目を奪うほどの美人だ。年は十歳そこらだろうか。俺よりは間違いなく下だ。
 目が合った。白く長い睫毛に縁どられた薄茶色の目がぱちりと瞬きをした。
 向こうは、俺のことを知っているんだろうか。妖精の気配がするから気づいていないことはないと思うが――主人についているのだと知っていたら、こんなのが、虫食いじゃないかって思われた気がする。首輪に見劣りするだろうと心配になる。
 もしかして此処の奴隷も美人ばかりだったりするんだろうか。今は氷が作れるにしても、こんな子を差し置いて主人に色々してもらっているなんて。
「ご苦労。今日はどうだ、問題ないか」
「はい。この分にはどうにか。付け焼刃にしては上々かと」
「そうか、無理をさせるな。ザフラを戻してお前も休め」
 ザフラ。花、というのが名前らしい。似合いだろう。氷精ヒエムじゃなくて花精イズハールといわれても納得する。
「お気遣いありがとうございます。――来い」
 立ち上がって主人に頭を下げ、こっちに歩いてくる動きも綺麗だ。俺は入れ違いにタラブ様に頭を下げて主人の元へと向かう。 
 空いた椅子には座らず、主人の横に突っ立って二人を見送る。静かに扉が閉まるのと共に引き寄せられた。よろめいたところをどうにか踏ん張って、座ったままの主人に腰を抱えられる。
「気になるか。なかなか会わせる機会がなかったものな」
 それは気になる。ずっと気になっていたけど、実際に見たら尚更。
「……とても綺麗な子ですね」
「客間で使うのに買った。あれが一番若い」
 でもそれしか言えなかった。前は同じ屋敷に買われた奴隷として話してみたいとも思っていたが、今は夜会のときのように見比べて不安で、劣等感が煽られるばかりだ。あんなに綺麗な奴がいるならやっぱり俺じゃなくていいのではと思ってしまう。俺は王宮にでも渡して、あの子を大切にすればいい。主人もそう思っているのでは、なんて。
 あの子のほうが主人にも似合っていた。加護つきの旦那様に、綺麗な氷精憑きネ・モ・ヒエム。夜会でもきっと華やかだ。
 でも今、主人に抱えられているのは俺だ。読み物を止めて金の目が見上げてくる。
 体温には安堵するのにやっぱり不安で、胸につかえるような感覚があって、なんだか混乱する。自分の感情がよく分からない。
「さて、順調だということだが。明後日に一度お前を見せに行くことになった。力の試用もせねばならん」 
 主人の言葉を聞きこぼさないようにと耳を傾けるが、やはり楽しい話題でもなくて気落ちする。明後日、第七の月に入ってしまう。指導は順調だとタラブ様は言うし俺としても頑張っているつもりだが、それがいいことなのかは正直分からなくなっていた。
「なに、前ほどじろじろと見られもせんだろう。その顔が不安なら化粧でも面紗ベールでも用意してやる」
 多分俺は、夜会に連れていかれたときと同じような顔をしているんだろう。主人は笑って右手も伸ばし、俺の顔を揉んだ。
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