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Ⅰ‐翡翠の環
仇名
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(三人称・主人使用人視点)
「おかえりなさいませ」
夜。アルフが屋敷に戻ると、真っ先に出迎えたのは先代当主からリーシャット家に仕える家令、灯りを手にした老爺ヌハスだった。隠居した先代の元を訪れていた彼の帰還に、主人も足を止めて労った。
「ああ、帰ったのか。ご苦労だった。変わりはなさそうか?」
「ええ。顔が見たいと仰っておりましたよ」
「そうだな、いよいよ暑くなる前に一度行っておくか……」
一言交わしてから歩き出す。常どおりの慣れた動きで身に着けていた帽子と上着を他の使用人たちに預け――家令が人払いをして二人きりになる。
「旦那様、奴隷に毒見をさせたと聞きましたが」
次の話題は、アルフにも察しがついていた。その切り込み方も。
「毒見ではない。料理人のことは信頼している」
ふと笑んで肩を竦め、アルフは応じた。ヌハスは深く頷いた。
「でしょうとも。ですが噂は立つのです。そういうことは控えていただきませんと」
諧謔を含めてまず小言めかし。どことなく、家を出た数日前よりも生気に満ちた主人の横顔を見遣る。
「して、毒見ではないのでしたらどういう気まぐれです? 新しい白など買われて」
ハツカの推測どおり八人、この邸宅にも白奴隷がいる。
暖房の火と同じく建物が広ければその分単純に数が必要なのが白奴隷であり、この規模の家としては最低限の人数だが、その代わり質がよく、労力としては十分足りている。寒期になっても売りに出されることはなく他の仕事に従事して年を越す、完全に買い上げされたこの家の奴隷だ。
であるから、本来であれば今年、この家に追加の白奴隷は必要ないはずだった。宴など催すときにだけ追加を借りてくればそれでよい。それが帳簿を預かる家令の認識だった。
だというのに、本来奴隷の購入などに関係しないはずの主人が、宮廷からの朝帰りに何の相談もなしに安い奴隷を即金で買ってきたことにヌハスは心底驚いていた。しかもその奴隷は自らの部屋、庭で隔てた一等私的な空間に置いていると言う。本来ならば見目にも気遣い、仕事をさせる奴隷を選ぶ場所だ。
さらには自らの食事を食べさせ、着替えや風呂まで手を出しているらしい。この規模の家ともなれば奴隷や使用人の衣食住それぞれ相応の質ではあるが、無論主人と比べるべくもない。ましてや同じテーブルで、主人に、など本来ならばありえない。
「味見……餌付けか? 味を知らないようでな、顔がころころと変わるから面白い」
が、それを当然知っているはずのアルフは悠々として実に楽しそうだ。冗談などではなく心底そう考えている調子で言って、自ら口に運んだ最初の夕食や、食べ方を眺めた朝食の様子を思い出して密やかに頬を緩める。
マナーは下の下だったが萎縮している彼が食い散らかすようなことはなかったし、味覚が刺激されて表情が変わる様は見飽きない。とても愉快に感じられた。なるべくすべての顔や動きを見逃したくないと、アルフは思う。
出会ったときからそうだった。けっして逃さず、ずっと眺めていたい。――どうして今までは傍にいなかったのかと、心底疑問に思った。
最初に見つけたときとて、冷静であれば従者を呼んで商人と交渉させただろう。今横にいる親しんだ老爺に相談して購入の手続きをしただろう。だが昨日は我慢ができなかった。そもそも考えもしなかった。そんな余裕は欠片もなかった。ただ手に入れたい、見失いたくないという思いが先走って、気がつけば慣れない奴隷市場を進んで姿を探していたのだ。見つけて掴んだとき、彼は安堵した。幻でも何でもなく、見つけ出して確かに触れたことに。
「気まぐれではない。あれは死ぬまで寵する」
「それはまた……」
言いきったアルフが懐から小さな巻紙を取りだして手渡す。開いて見える形式は何かの注文書だ。記された内容と金額に家令の目が瞠られ、眉根が寄った。
「本当に気まぐれではなさそうですな……そういうことでしたら確かに、他と差をつけるのにこれくらいの箔は必要でしょうが」
先程までの外出の用はこれだったと教える注文書。記された金額は奴隷の購入額より余程桁が多い。
「いやはや、その奴隷もとんだ魔性では。かまけて家を傾けることだけはなりませんよ」
「分かっているとも」
長く仕えているからこそ発せられる冗談交じりの諫言にアルフは声を上げて笑った。
反省などは欠片も見られぬその応答にやれやれと肩を竦め、ヌハスは手にした巻紙を撫でて丸め直す。
「普段倹約だからまだ怒らぬのですよ……教育のご予定は?」
「後々には。しばらくは一人で可愛がらせてくれ」
渋い顔と声にも、暑いし早く会いたいのだという様子を隠さず――少なくとも長年仕えた者から見ては明らかにわくわくとした調子で、アルフは歩き出した。久方ぶりに見た主人の後ろ姿に、家令は心中で盛大に溜息を吐いた。
屋敷の使用人の中でも上級の者たちが使う広く清潔な談話室のテーブルで、男女が向かい合い座っていた。屋敷の主――アルフの側近として秘書など多くの仕事をこなす美男ハリュールと、召使たちを取り仕切る年嵩の侍女長ナフラだった。
「抱いて寝たら、いつもよりよく眠れたそうですよ。しかしあんなに連れ回すとは、さすがに予想外でした。食事にも風呂にもとは」
遅い時間であるというのに二人とも仕事着のまま話しこんでいた。話題は新入り、主人が唐突に連れ帰ってきた白奴隷について、である。
今この屋敷の中でもっとも注目されている事柄に違いなく、主人のことともなれば彼らも看過はできなかった。
「子供の頃はよくお気に入りの枕や玩具など持って歩いてらっしゃったわね。それこそ食事にもお風呂にも、どこまでも。懐かしい」
「三十年くらい前の話でしょう?」
「手元に置いておきたい方なのよ」
長年召使として働き、アルフの子供の頃さえも見知っているナフラは動じこそしないが、部下である娘たちが騒ぐのも仕方のないことだとは思っていた。枕や玩具でも噂にはなっただろうが、奴隷となるとあまりにも目立つ。
「ご自身で世話までなさるとは思わなかったけれど。枕は私たちが干していましたからね」
そしてあの可愛がりよう。連れ歩くだけならばともかく、あれこれと世話を焼いている。人形かペットか、そういう扱いだ。
話はどうしてもそこに至る。誰かを可愛がるのはよいとしても、あそこまでとは。
二人が次の言葉を考えて茶を啜るうちに、主人の出迎えに行っていた家令が戻ってくる気配があった。隣の椅子を引いてハリュールが迎える。
「どうでした、ヌハス老」
孫ほど年の離れた後輩に問われて、老爺は深く数度頷いた。
「あれは確かに大層お気に入りのご様子ですね。死ぬまで寵愛なさるそうですよ」
「死ぬまでと来ましたか、そりゃあまた」
あの主人のこと、一時の戯れというのは似合わないと覚悟していたハリュールだが、さすがにその形容には天井を仰いだ。ナフラもまあまあと繰り返して、腰掛けた付き合いの長い男と目を合わせる。
「やっぱりただ顔が好みだって話ではないみたいね。一目惚れかしら」
「凄かったですからね。馬車を停めさせて、もうまーっすぐ、まっすぐあれのところに行きましたから。吃驚しましたよ、どんな美人かと思ったらそんなことないし虫食いだし。もっと見栄えのする者にしてくれればよかったのに。あれ絶対そのうち外にも連れ歩きますよ」
頷き――がばりと身を戻して継ぎ、ハリュールは何度目かの説明をする。一番初め、事の始まりを見届けたのは他ならぬ彼だ。
宮廷での仕事を終えてくたびれた様子で座り込んでいたアルフが、急に馬車を停めさせて通りへと出ていった。普段の落ち着きぶりからは考えられない、本当に何事かと思ったものだった。
その後もこれだ。否、周囲の目など気にせず堂々と何でもしてしまうのは生まれ持った彼の気質ではあるのだが、やはり問題はその愛でようと、相手がいまひとつ見栄えのしない白奴隷であることなのだった。
「そうですね、貴方くらい顔がよければどこに連れていっても遜色ないでしょう」
「俺はそれで選ばれてますからね」
「ほほ、謙遜なのだか嫌味なのだか」
軽口の応酬を挟み、三人で溜息。従者たちは三様に新しい奴隷と主人の振る舞いが齎す屋敷への影響を思う。
「まあですが、買える物でよかったのも確かです。名実旦那様の持ち物ですからそこに気を揉むこともない」
「確かに、奴隷でなければ攫っていたかも」
「今後教育をつけますが、暫くは様子見ということになるでしょう。よく見ておいてください」
それでも、憂い悩むのは彼らの性分ではなかった。大勢の部下を取りまとめるには切り替えの早さも重要だ。家令の言葉にハリュールは再度口を開く。
「見目はともかく、幸い愚鈍ではなさそうです。力の使い方も器用で、書斎を冷やすのもすぐでした。使い古しでも元々はそれなりの等級だったんでしょう。食料庫などでも使えるかはまだ分かりませんが」
指示されずともその辺りはさりげなく確認をしている。安い奴隷だと心配していたが命令への反応は早く冷房としての働きは今のところ十分、ただし広い範囲をよく冷やさなければ務まらない場所でどうかはまだ不明。
試験らしい試験はしていないのでその程度だが、最低限、ただの置物になってはいないことは分かっていた。
「旦那様は加護つきですからね、適当に選んだとしてもよい物を引き当てる、そういう幸運の元にいらっしゃる」
よろしい、とばかりに家令が頷くと、ナフラが立ち上がった。
「ではあの枕ちゃんについてはまた追々。私はそろそろ休ませて頂きます」
「枕ちゃん、いいですね、名付ける手間が省けました」
「――まさかあれだけ目をかけて名無しのままではないでしょう?」
何気なく口にした言葉にハリュールが手を打ったのに、彼女は目を丸くしたが。
「教えてくれないんですよ! まだ話すなとも言われましたし」
主人とも奴隷とも一番長く近くに居た男の呆れた声に、なるほど、と年嵩の二人は甚く納得して頷いた。
中庭の只中、先々代の頃に安らぎを求めて造られた離れ。その中の奥まったベッドの上で件の枕は待っている。
年の頃は二十歳前。白い髪に翡翠色の瞳の氷精憑き。この国では虫食いと呼ばれ嫌われがちな、砂粒を散らしたかの薄いシミが顔から胸元にかけて、右半身に寄って白い肌に点在している。
いかにも人離れした容姿だったが、その色など除いてみればとりたてて美貌というわけではない、どこでも見かけるような痩せぎすの奴隷だ。
主人が不在でも帰宅に備えて灯りが点された明るい室内。ついたての陰に行儀よく腰掛けた姿を見つけて、戻ったアルフは淡く笑みを浮かべた。
亜麻色の上下に瞳に合わせた翠色の帯。自分が選んだ物を身に着けているのは気分がよい。目を引く虫食い痕も当人とは逆にアルフは気に入っていた。元々シミも痣も頓着しないたちではあったが、この奴隷の白い肌の上に広がっているのは星のようで美しいとさえ思って、隠さぬよう襟の広いシャツを選んだ。
「おかえりなさいませ」
主人の帰宅に身構えて、近づいたところで発せられる小さめの声は強張っている。
昨日は何をされても反応に困っておどおどとするだけだったが、一日経って、会話の許可をしてからは幾分ましになっていた。これからもっと変化があるだろうと思えば、主人の楽しみは尽きない。
部屋もしっかりと適温に調整されてはいたが、ひんやりと冷気を纏う体を抱きしめると熱った肌に心地良い。自身が使う香水などと同じ、橙花の香りがするのにも満足した。
首を巡る無骨な鉄の環を撫で、頭を撫で。上向けた顔を暫し眺めた後、まだかさつきの取れない唇へと、主人は口づけを落とした。
「おかえりなさいませ」
夜。アルフが屋敷に戻ると、真っ先に出迎えたのは先代当主からリーシャット家に仕える家令、灯りを手にした老爺ヌハスだった。隠居した先代の元を訪れていた彼の帰還に、主人も足を止めて労った。
「ああ、帰ったのか。ご苦労だった。変わりはなさそうか?」
「ええ。顔が見たいと仰っておりましたよ」
「そうだな、いよいよ暑くなる前に一度行っておくか……」
一言交わしてから歩き出す。常どおりの慣れた動きで身に着けていた帽子と上着を他の使用人たちに預け――家令が人払いをして二人きりになる。
「旦那様、奴隷に毒見をさせたと聞きましたが」
次の話題は、アルフにも察しがついていた。その切り込み方も。
「毒見ではない。料理人のことは信頼している」
ふと笑んで肩を竦め、アルフは応じた。ヌハスは深く頷いた。
「でしょうとも。ですが噂は立つのです。そういうことは控えていただきませんと」
諧謔を含めてまず小言めかし。どことなく、家を出た数日前よりも生気に満ちた主人の横顔を見遣る。
「して、毒見ではないのでしたらどういう気まぐれです? 新しい白など買われて」
ハツカの推測どおり八人、この邸宅にも白奴隷がいる。
暖房の火と同じく建物が広ければその分単純に数が必要なのが白奴隷であり、この規模の家としては最低限の人数だが、その代わり質がよく、労力としては十分足りている。寒期になっても売りに出されることはなく他の仕事に従事して年を越す、完全に買い上げされたこの家の奴隷だ。
であるから、本来であれば今年、この家に追加の白奴隷は必要ないはずだった。宴など催すときにだけ追加を借りてくればそれでよい。それが帳簿を預かる家令の認識だった。
だというのに、本来奴隷の購入などに関係しないはずの主人が、宮廷からの朝帰りに何の相談もなしに安い奴隷を即金で買ってきたことにヌハスは心底驚いていた。しかもその奴隷は自らの部屋、庭で隔てた一等私的な空間に置いていると言う。本来ならば見目にも気遣い、仕事をさせる奴隷を選ぶ場所だ。
さらには自らの食事を食べさせ、着替えや風呂まで手を出しているらしい。この規模の家ともなれば奴隷や使用人の衣食住それぞれ相応の質ではあるが、無論主人と比べるべくもない。ましてや同じテーブルで、主人に、など本来ならばありえない。
「味見……餌付けか? 味を知らないようでな、顔がころころと変わるから面白い」
が、それを当然知っているはずのアルフは悠々として実に楽しそうだ。冗談などではなく心底そう考えている調子で言って、自ら口に運んだ最初の夕食や、食べ方を眺めた朝食の様子を思い出して密やかに頬を緩める。
マナーは下の下だったが萎縮している彼が食い散らかすようなことはなかったし、味覚が刺激されて表情が変わる様は見飽きない。とても愉快に感じられた。なるべくすべての顔や動きを見逃したくないと、アルフは思う。
出会ったときからそうだった。けっして逃さず、ずっと眺めていたい。――どうして今までは傍にいなかったのかと、心底疑問に思った。
最初に見つけたときとて、冷静であれば従者を呼んで商人と交渉させただろう。今横にいる親しんだ老爺に相談して購入の手続きをしただろう。だが昨日は我慢ができなかった。そもそも考えもしなかった。そんな余裕は欠片もなかった。ただ手に入れたい、見失いたくないという思いが先走って、気がつけば慣れない奴隷市場を進んで姿を探していたのだ。見つけて掴んだとき、彼は安堵した。幻でも何でもなく、見つけ出して確かに触れたことに。
「気まぐれではない。あれは死ぬまで寵する」
「それはまた……」
言いきったアルフが懐から小さな巻紙を取りだして手渡す。開いて見える形式は何かの注文書だ。記された内容と金額に家令の目が瞠られ、眉根が寄った。
「本当に気まぐれではなさそうですな……そういうことでしたら確かに、他と差をつけるのにこれくらいの箔は必要でしょうが」
先程までの外出の用はこれだったと教える注文書。記された金額は奴隷の購入額より余程桁が多い。
「いやはや、その奴隷もとんだ魔性では。かまけて家を傾けることだけはなりませんよ」
「分かっているとも」
長く仕えているからこそ発せられる冗談交じりの諫言にアルフは声を上げて笑った。
反省などは欠片も見られぬその応答にやれやれと肩を竦め、ヌハスは手にした巻紙を撫でて丸め直す。
「普段倹約だからまだ怒らぬのですよ……教育のご予定は?」
「後々には。しばらくは一人で可愛がらせてくれ」
渋い顔と声にも、暑いし早く会いたいのだという様子を隠さず――少なくとも長年仕えた者から見ては明らかにわくわくとした調子で、アルフは歩き出した。久方ぶりに見た主人の後ろ姿に、家令は心中で盛大に溜息を吐いた。
屋敷の使用人の中でも上級の者たちが使う広く清潔な談話室のテーブルで、男女が向かい合い座っていた。屋敷の主――アルフの側近として秘書など多くの仕事をこなす美男ハリュールと、召使たちを取り仕切る年嵩の侍女長ナフラだった。
「抱いて寝たら、いつもよりよく眠れたそうですよ。しかしあんなに連れ回すとは、さすがに予想外でした。食事にも風呂にもとは」
遅い時間であるというのに二人とも仕事着のまま話しこんでいた。話題は新入り、主人が唐突に連れ帰ってきた白奴隷について、である。
今この屋敷の中でもっとも注目されている事柄に違いなく、主人のことともなれば彼らも看過はできなかった。
「子供の頃はよくお気に入りの枕や玩具など持って歩いてらっしゃったわね。それこそ食事にもお風呂にも、どこまでも。懐かしい」
「三十年くらい前の話でしょう?」
「手元に置いておきたい方なのよ」
長年召使として働き、アルフの子供の頃さえも見知っているナフラは動じこそしないが、部下である娘たちが騒ぐのも仕方のないことだとは思っていた。枕や玩具でも噂にはなっただろうが、奴隷となるとあまりにも目立つ。
「ご自身で世話までなさるとは思わなかったけれど。枕は私たちが干していましたからね」
そしてあの可愛がりよう。連れ歩くだけならばともかく、あれこれと世話を焼いている。人形かペットか、そういう扱いだ。
話はどうしてもそこに至る。誰かを可愛がるのはよいとしても、あそこまでとは。
二人が次の言葉を考えて茶を啜るうちに、主人の出迎えに行っていた家令が戻ってくる気配があった。隣の椅子を引いてハリュールが迎える。
「どうでした、ヌハス老」
孫ほど年の離れた後輩に問われて、老爺は深く数度頷いた。
「あれは確かに大層お気に入りのご様子ですね。死ぬまで寵愛なさるそうですよ」
「死ぬまでと来ましたか、そりゃあまた」
あの主人のこと、一時の戯れというのは似合わないと覚悟していたハリュールだが、さすがにその形容には天井を仰いだ。ナフラもまあまあと繰り返して、腰掛けた付き合いの長い男と目を合わせる。
「やっぱりただ顔が好みだって話ではないみたいね。一目惚れかしら」
「凄かったですからね。馬車を停めさせて、もうまーっすぐ、まっすぐあれのところに行きましたから。吃驚しましたよ、どんな美人かと思ったらそんなことないし虫食いだし。もっと見栄えのする者にしてくれればよかったのに。あれ絶対そのうち外にも連れ歩きますよ」
頷き――がばりと身を戻して継ぎ、ハリュールは何度目かの説明をする。一番初め、事の始まりを見届けたのは他ならぬ彼だ。
宮廷での仕事を終えてくたびれた様子で座り込んでいたアルフが、急に馬車を停めさせて通りへと出ていった。普段の落ち着きぶりからは考えられない、本当に何事かと思ったものだった。
その後もこれだ。否、周囲の目など気にせず堂々と何でもしてしまうのは生まれ持った彼の気質ではあるのだが、やはり問題はその愛でようと、相手がいまひとつ見栄えのしない白奴隷であることなのだった。
「そうですね、貴方くらい顔がよければどこに連れていっても遜色ないでしょう」
「俺はそれで選ばれてますからね」
「ほほ、謙遜なのだか嫌味なのだか」
軽口の応酬を挟み、三人で溜息。従者たちは三様に新しい奴隷と主人の振る舞いが齎す屋敷への影響を思う。
「まあですが、買える物でよかったのも確かです。名実旦那様の持ち物ですからそこに気を揉むこともない」
「確かに、奴隷でなければ攫っていたかも」
「今後教育をつけますが、暫くは様子見ということになるでしょう。よく見ておいてください」
それでも、憂い悩むのは彼らの性分ではなかった。大勢の部下を取りまとめるには切り替えの早さも重要だ。家令の言葉にハリュールは再度口を開く。
「見目はともかく、幸い愚鈍ではなさそうです。力の使い方も器用で、書斎を冷やすのもすぐでした。使い古しでも元々はそれなりの等級だったんでしょう。食料庫などでも使えるかはまだ分かりませんが」
指示されずともその辺りはさりげなく確認をしている。安い奴隷だと心配していたが命令への反応は早く冷房としての働きは今のところ十分、ただし広い範囲をよく冷やさなければ務まらない場所でどうかはまだ不明。
試験らしい試験はしていないのでその程度だが、最低限、ただの置物になってはいないことは分かっていた。
「旦那様は加護つきですからね、適当に選んだとしてもよい物を引き当てる、そういう幸運の元にいらっしゃる」
よろしい、とばかりに家令が頷くと、ナフラが立ち上がった。
「ではあの枕ちゃんについてはまた追々。私はそろそろ休ませて頂きます」
「枕ちゃん、いいですね、名付ける手間が省けました」
「――まさかあれだけ目をかけて名無しのままではないでしょう?」
何気なく口にした言葉にハリュールが手を打ったのに、彼女は目を丸くしたが。
「教えてくれないんですよ! まだ話すなとも言われましたし」
主人とも奴隷とも一番長く近くに居た男の呆れた声に、なるほど、と年嵩の二人は甚く納得して頷いた。
中庭の只中、先々代の頃に安らぎを求めて造られた離れ。その中の奥まったベッドの上で件の枕は待っている。
年の頃は二十歳前。白い髪に翡翠色の瞳の氷精憑き。この国では虫食いと呼ばれ嫌われがちな、砂粒を散らしたかの薄いシミが顔から胸元にかけて、右半身に寄って白い肌に点在している。
いかにも人離れした容姿だったが、その色など除いてみればとりたてて美貌というわけではない、どこでも見かけるような痩せぎすの奴隷だ。
主人が不在でも帰宅に備えて灯りが点された明るい室内。ついたての陰に行儀よく腰掛けた姿を見つけて、戻ったアルフは淡く笑みを浮かべた。
亜麻色の上下に瞳に合わせた翠色の帯。自分が選んだ物を身に着けているのは気分がよい。目を引く虫食い痕も当人とは逆にアルフは気に入っていた。元々シミも痣も頓着しないたちではあったが、この奴隷の白い肌の上に広がっているのは星のようで美しいとさえ思って、隠さぬよう襟の広いシャツを選んだ。
「おかえりなさいませ」
主人の帰宅に身構えて、近づいたところで発せられる小さめの声は強張っている。
昨日は何をされても反応に困っておどおどとするだけだったが、一日経って、会話の許可をしてからは幾分ましになっていた。これからもっと変化があるだろうと思えば、主人の楽しみは尽きない。
部屋もしっかりと適温に調整されてはいたが、ひんやりと冷気を纏う体を抱きしめると熱った肌に心地良い。自身が使う香水などと同じ、橙花の香りがするのにも満足した。
首を巡る無骨な鉄の環を撫で、頭を撫で。上向けた顔を暫し眺めた後、まだかさつきの取れない唇へと、主人は口づけを落とした。
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