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三章 地獄編

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「元気そうだね、佐保。久しぶり」

 客間に入ったとたんにいつもの笑顔で私に話しかける兄の顔が、部屋に入る前の一瞬だけしょげている人間に見えた───けれどそれは何かの気のせいかもしれないと思い直す。生まれてこのかた、彼のそういった姿は見たことがないからだ。

 いつもと同じ、自然に見せつつしっかり整った服装に乱れのない髪型、そしていつもの笑顔。けれど何か違和感を感じる。

「久しぶりじゃなくて一週間前ぶりでしょ。一緒に食事したはずだけど……覚えてないの?」
「そうだね、一週間ぶりだ。ずいぶんと長かった一週間だったよ。あれ、前髪切ったんだね。よく似合ってる」

 私には久しぶり感などまったくないのだけど、ようやく会えたみたいなリアクションと妹の前髪の長さの変化に気がつく兄は色んな意味ですごいなと思う。もちろん病的な意味で。

 私は瑠璃に促されて、篤が座るソファの正面のソファに座る。
 ちなみに部屋には既に七緒さんが篤の斜め前のソファに座っており、私と七緒さんが座るソファの後ろに道雄が控えるように立っていた。

「───ところで、なんでここへ来たの?」

 これはせっかくここに来た兄への冷たい一言ではない。
 いくら妹が大好きとはいえ、篤は何もするつもりもなくふらっとやって来るタイプではない。来たからには必ず理由があるはずだと警戒しての一言だ。
 そもそも桜子を送りこんで来た時点で、篤は何かを知っていたのでは───何かとはつまり、私の前世の事なんだけれども。
 ただ、前世の事を知りたいのなら電話でもいいだろうし、それこそ今じゃなくても私が帰ってからだっていいはずだ。
 もしや緊急性の何かがあって、それも私に対面で伝えなくてはいけない何かが発生した、とかだろうか。

「ああうん、いや……ちょっと気になることがあってね……」

 篤は妙に歯切れが悪い返事をする。
 そして私から微妙に目を逸らす。そうだ、部屋に入ってから笑顔を向けられたものの微妙に一度も視線が合っていない。それが違和感の素だったのだと気付いた。

「ふーん、そう……?」

 しばらく篤じっと見ていたけれど、兄の様子から今日何をしに来たのかまったくわからない。
 強いて言えば、悪さをして謝りに来たけど、なかなか言い出せない子供みたいな……そして自分から言い出す前にこちらを伺っているようにも見える。
 それは初めて見る様子だった。篤は生まれてからずっと王様みたいな態度の人間だしとにかく我儘だ。けれど子供がやるような悪さをやらかして親に叱られるようなところは見たことは無かった。むしろ私が生まれた時から彼は親のような存在の人間で───今考えるとそれは色々おかしい気がした。
 子供の篤は家の中では子供らしさ皆無だった。共働きで日中家にいない母の代わりに家事をこなし私をお世話し、さらにテストはいつも満点だった。だけど外では周りから浮いたりせずにごく普通の子供に見えるように振る舞っていたような気がする。……そう思えるようになったのは弟がいた記憶と八重だった記憶を合わせて比較したからだ。そんな子供は何かおかしいような気がする───

「どんなことが気になりますか、篤さん 。佐保さんの事で何か? それとも我が家の事でしょうか? 何でもお答えしますよ」

 篤の子供時代のおかしさに私が考えこんでいるうちに、七緒さんが朗らかに篤に尋ねる。おかげで篤の意識は七緒さんに向いたようだった。

「そうですね。ではお言葉に甘えて……少し聞きにくい事でも?」
「でも貴方は聞くでしょう?」
「もちろん」

 親しげな雰囲気だけど、雰囲気がそうなだけで実際は二人ともそんなに仲良しではないというのが怖い。
 そもそも二人とも知り合って日が浅い。気は合わないわけではないのかもしれないけど、二人とも他人に対して当たり障りない対応が上手いぶんガードが固い性質というか、たぶん分かり合えるまでに時間を要するタイプだと思う。なので実際は今の二人の間にはなかなかの距離があるはずだ。

「ただ今日は……佐保が幸せなのかなって、そればかりが兄として毎日とても気になってね。俺の力不足、いや技量不足のせいで……」

 よくわからない事を言う兄だけど、何か非常に気落ちしている様子は伺えた。

「それでここまで来たの、篤」
「そうだよ。だから───」

 だから佐保、彼とは離婚しようか? のフリだと思った私は、話終わる前に思わずソファから立ち上がって勝手に答える。

「あ、あのね篤、私は毎日幸せなので大丈夫だから。毎日七緒さんを見ているだけで感無量で神様に感謝してるくらいなの。だから大丈夫だからね?」
「そりゃあお前は寝ても覚めても感無量だろうよ……」

 小さな声で横から道雄が思わずという風に言う。
 篤の隣に座る嵯峨野さんはそれを聞いて本人を目の前にして笑っていいのか悩んでいるように忙しく目を彷徨わせていた。それを見て私は慌ててソファに座り直す。

「……そういうことです。ご心配には及びませんよ、篤さん。彼女の事は私が責任を持って幸せにします」

 七緒さんは私の言葉に一切照れる事なく、ごく普通の態度を崩さずに篤に言う。
 言葉だけじゃない。勝手に七緒さんの力を使ったり、どこかに呼ばれて召喚されてしまったりとほぼ迷惑ばかりかけてるというのに、不満に感じたのではと予測出来る部分すら七緒さんは表情にも態度にも出さない。
 これが大人の余裕なのだとしたら、一体どんな修行したらそんなに余裕が出せるのだろうか。

「そうか、俺の心配は余計な事だったのかも知れないな……」
「ええ、心配です」
「……もしや君は今日俺の用事が何だか知っていたのか?」
「心当たりがいくつかあるので、そのうちのどれかだろうと」
「なら、気になる事を聞いたら君はすべて教えてくれるのか?」
「お答えしたところで貴方には解決出来ないのに?」
「最初から言うつもりが無いな……」

 篤と七緒さんは軽口を叩きあっているように見えて、なにか私が分からない話をしているようだった。これが第三者には分からないように話す大人の男同士の会話なのかもしれない……。

「まったく食えない男だな ───ああ、なんだ、君も着物を着るのか……」

 篤は一度息を吐くと、七緒さんの着物姿に今更気付いたようだった。

「ずいぶん着慣れているな」
「そうでもありませんよ。せいぜい一人で着る事が出来るくらいです」
「十分じゃないか」

 そんな二人のやりとりを聞いていると、篤の隣に座る嵯峨野さんと目が合った。そしてなぜか彼は私を見ると固まってしまう。そのまま彼は俯いてしまった。まるで怖いものを見たような態度だ。

「……ですか」

 意を決したように、嵯峨野さんが顔を上げて私に問う。

「え?」
「貴女がムコガワセイウなのですか?」

 部屋の中に沈黙が満ちた。

「ムコガワセイウ?」

 出来るだけ動揺を出さないように答えようとしたけれど、逆に硬質な声になってしまう。

「そうです。もちろん私も最初は信じられませんでし。ただ、ムコガワセイウはやはり貴女なのだと今確信しました」
「確信?」
「はい。今も佐保さんから、木蓮の花の香りがします」
「……木蓮……?」

 木蓮といわれて思い出すのは、二ノ宮さんが力を私に見せつける為に咲かせたのが木蓮の花だったことくらいだ。

「二ノ宮さんに接触した際、貴女は木蓮の花を依代にしたでしょう? 木蓮は今はまだ花は咲く時期ではないのにムコガワセイウからは木蓮の花の香りがしました───そして貴女からもその香りがします。季節外れの花の香りをさせた人間が同一人物ではない、という方が不自然では?」
「……それは……」
「植物を術式で使うのは足がつきやすい。香りがあるものは術者だけでなく万人にもわかってしまいますから」
「は、はあ……そうなんですか?」
「……古い術式を熟知しているのに、貴女はそんな事も知らないのですか?」
「そ、そうですね……まあ、知りませんけど……」

 いやあの、私は武庫川晴雨ではないと一応否定しているので、そんな真顔で聞かないで欲しい。ちょっとは違う人かもとか疑って欲しい。
 というか、彼は普通のOLがある日突如術者として名乗りを上げるはずがない、とか思わないのだろうか。確かにこの場には普通のOLだけど実は狐の瑠璃がいるので、普通の範囲がかなり広くなってしまうので私が術者だという推測は範囲のはじっこでギリギリ有りかもしれないけれど。

「あのですね、嵯峨野さん。多分、武庫川晴雨というのは誤解で……」

 確かに私自身が武庫川晴雨と名乗ったものの、武庫川晴雨そのものかというと微妙に違う気がする。そもそも武庫川晴雨と名乗った時の外見も中身も私ではあるものの、それは佐保の方の私ではない。しかも正しい(?)武庫川晴雨はきっと別にいるのだ。
 どう否定、というかどう説明すべきか、しかも篤がいるこの状態で───そう悩んだ時だった。

「……」

 何の合図もなく部屋にいる全員がピタリと動きを止めた。
 篤以外の人間が一斉に客間の入口に視線を向けている。正解に言うと何者かが歩いてくる気配が客間の入口の向こうから感じる為に視線を向けたと言うべきかもしれない。

 ───髪の毛が逆立つような気配がする。それはとても七緒さんの気配に近い。ただそれはまるでナイフを喉元に突き付けるられているような強烈な気配で、具合が悪くなりそうだった。

(……来た)

 廊下を歩く足音が聞こえた。気配とは違い、とても静かな足音だった。

「七緒、そこの庭の木蓮が枯れていたけどどうした?」

 客間の入口から聞こえたのは、柔らかい口調の柔らかい声だった。そして七緒さんより十ほど歳上の男性が客間の入口から顔を出す。
 誰? という私たちの視線を受けて、彼は頭を下げて挨拶をした。

「ああ、お客様だったか。失礼しました───私は芹沢天馬せりざわてんまと申します。急にお邪魔して申し訳ない」
「すみません、彼は私の叔父で……天馬さん、来るなら来ると事前に連絡して下さい」

 七緒さんが困った表情で言うと、七緒さんの叔父というその人はすまなそうに謝る。

「君たちを驚かせようと思って内緒で来てしまったんだ。悪い事をしてしまったね。……それでこちらのお客様は?」
「私の妻の佐保の兄、円乗寺さんですよ。それと彼と契約している術者の嵯峨野さん」
「ああ、そうでしたか……初めまして。これからの親戚付き合いでお会いする事も多いかと思います。よろしくお願いします」
「こちらこそ、ご挨拶が遅くなり申し訳ありません。佐保の兄の円乗寺篤です。よろしくお願いします」

 篤もソファから立ち上がって挨拶をする。
 そんな状態の中なんとなく気まずい思いで私は座っていた。本来なら立ち上がり私も挨拶するのが筋なわけなのだけど───私には立ち上がり挨拶出来ない理由があった。

 七緒さんの叔父さんは部屋をぐるりと見回すと私に視線を止めた。

「おや、君は……ずいぶんとが、まさか術者かい?」

 それは私への質問だった。けれど質問というより断定しているのは、彼には私が術者であるという確信があるのだろう。

「……オジさん、ごめんね。庭の木蓮は私が使しまったから枯れちゃったんだ。私の名前は武庫川むこがわ晴雨せいう───術者にはなったばかり。これからよろしくね」

 そう答えた私の声は、の声に変わっていた。
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