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三章 地獄編

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 クウの名前でドン引きされてしまったのを悟った私は、静かに立ち上がった。

 ……フォローしようがない。まったくフォローしようがない。

 だって犬の名前が変かどうかなんて、当時は微塵も思わなかった。今だってふつうに可愛い名前だと思う。
 今の二人の反応を見て、なるほどちょっと変な名前だったのかも、と考える余地が生まれたのは私が大人になったからに違いない。
 もっとも私の犬はそれはそれは可愛く気高く美しい子だったので、正直名前なんてなんだっていいし、重要なのは私の犬であるという一点だけだった。名前についても、当時の私にとっては晴海さんが白といえば白、黒と言えば白いものでも黒かったのだから、晴海さんが『喰う』と名付けるなら、じゃあそれでとなったわけで───実は最初の名前は『クウ』じゃなくて『犬』にしようとしたら晴海さんに止められて……なんて話をすれば、さらにドン引きされてしまう。
 さすがにこれ以上、名付けのセンスの無さを二人に披露するわけにはいかなかった。

「そ、そうだ! そろそろお台所のお手伝いでもしようかなー?」

 私は言いながら何事も無かったように部屋を出て、今更ながら台所の瑠璃と清史郎くんのお手伝いに加わったのだった。












「お姉さん、手際良い! 手際いい人がいると助かるね」


 清史郎くんがそう言って褒めてくれるけれど、めちゃくちゃ気を使ってくれている様子を感じる。
 ……ちなみに私がやっているのは洗い物で、褒められるような部分はなにも無い。

「ちょっとちょっと、この子新婚さんなんだから奥様って呼んであげてよ~」

 瑠璃が揶揄うように言う。

「え……でも」

 私を見る彼の目は、政略結婚だったら奥様と呼ばれるのは辛いのでは? と語っていた。
 どうやら気を使ってくれているらしい。七緒さんとの結婚は政略結婚以外に無いと思い込んでいるようだ。なぜだろう。
 今朝会った時にすぐにその誤解を解いておくべきだったかもしれない。

「あの……清史郎くんが気を使うような結婚じゃないから大丈夫。その、七緒さんとはちゃんと仲もいいし……」

 そう言ったものの、七緒さんと個人的に話すようになるまでの過程は最悪だし、恋愛のれの字もなかったし、いつの間にか結婚していたし、要所要所に地雷しか置かれていなかった気がする。そんな出会いから結婚までの過程は清史郎くんだけでなく、弟の道雄にすら詳しく説明出来そうに無い。むしろただの政略結婚の方が平和だったのでは……とつい目が遠くなってしまう。

「……えっと、あいつのどのへんに好きになる要素が?」

 政略結婚ではないと言えば恋愛結婚しかないわけで、つまり私と七緒さんが恋愛をしての結婚という理解をした清史郎くんは、怪奇現象に遭遇したような顔で質問する。

 その質問に私は思わず清史郎くんの顔をまじまじと見てしまう。
 七緒さんの素の性格を把握していないと『どのへん』なんて単語は出てこない。清史郎くんが一賀七緒いつがななおという外ヅラの良い社会人の顔しか知らなければ、そんな質問自体が出ようはずもなく───つまり七緒さんは清史郎くんには素で対応しているという事だ。なんて羨ましい。私なんて素で対応してもらえてまだ一年もたっていないというのに。
 身内だから? 身内はみんなそうだったりするの? 大人げないけどちょっと嫉妬が止まらない。

「そりゃあ、好きになる要素なんて沢山あるわよ。ほら、顔とか身長とかスペックとか?」

 瑠璃が助け舟のように言ってくれるけれど、瑠璃は知っているはずだ。私が七緒さんのスペックを聞いても右から左に受け流していたことを。顔もモテそうだなと思ってはいたものの、ただそれだけで特に何も感じていなかった。
 ……瑠璃が正直に『この子芹沢様の眼鏡姿が好きで~』とは言いづらいのはわかるし、それを言わないでいてくれるのは大変助かります。

「やっぱり、いい男が会社でバリバリ仕事してる背中を見てると女子は惚れちゃうものじゃない?」
「ってことはお姉さん、あいつと同じ会社なんだ?」
「うん、そうだよ」
「オフィスラブってやつなんだね。それってどんな感じなの? 周りには内緒にしたりするの?」

 破壊力のあるその単語に、思わず手に持っていた鍋をシンクに落としそうになる。
 オフィスでラブな展開を思い出そうとするものの、七緒さんに強制的に部署異動させられたり、その異動先に幽霊がいるからそれを見えないようにする為に寝るかという信じられない話を持ちかけられたり───ラブの要素以外しか思い当たらなくて項垂うなだれる。

「……ま、まあ、色々かな。一言じゃうまく言えない……」
「えー、なにそれ。あいつには聞いた事内緒にしとくし」

 ぼそぼそという私に、清史郎くんは不満げに声をあげる。意外に女子のようなノリで聞いてくる。高校生くらいの男の子は人の恋愛話に興味ないものだと勝手に思い込んでいたけれど、よく考えたら女子校育ちの私にはその年代の男子の事なんて良く知らなかった。

「芹沢様が一言でうまく言えるような恋愛をすると思う?」
「なるほど……するわけないね!」

 瑠璃の言葉に清史郎くんは即答して、大変だねお姉さん……みたいな視線を私によこした。あながち間違っていないから否定出来ないし、そこまで断言させるほど七緒さんは清史郎くんに何をしたんだろうか。

「お姉さん、あいつと普段どんな話するの? ……えっと、つまり一方的じゃなくてちゃんとコミュニケーション取れてる?」
「大丈夫だよ、普段も普通の会話だし、ちゃんとコミュニケーション取れてるよ。さっきは私が形式かたしき作るのを手伝ってくれたし───」

 そこまで言って、瑠璃はともかく清史郎くんが形式かたしきという単語自体を知らない可能性に思い至り口を閉じた。
 形式は術者が使うものだと聞いた。清史郎くんは学生だし、術者の仕事をしているようにも見えないし、どう見ても普通の子供だ。それにそもそも、芹沢家の親戚の子であっても怪異とは関係の無い子かもしれない。

「え、形式? お姉さん形式作れるの? すごい!」

 けれど予想に反した反応で、私は首を傾げた。

「もしかして清史郎くんは術者なの?」
「まさか、俺には術者は無理。そこまで力が無いし、形式だって粘土を捏ねた程度のしか出来ない」
「粘土」

 粘土を捏ねた程度、という想像が出来なくて不可解な表情を浮かべていると、若さ故の好奇心で目を輝かせる清史郎くんと視線が合った。


「お姉さんの形式、見てみたい」






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