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三章 地獄編

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「み……道雄!? なんでいるの!?」
「なんだよ、いちゃいけねーのかよ」


 道雄はランニングパンツにTシャツという、早朝からランニングしていたと思わしき格好だ。荷物も何も持っていない。つまり彼は別荘に泊まっていたということだろう。そして泊まっていたという事なら、ひょっとしたら昨晩七緒さんと共に到着していたのかもしれない。

 けれど、つい今しがた道雄についてちょっと切なくなっていたというのに、なぜ七緒さんは道雄がここにいると私に言わなかったのでしょうか?
 七緒さんを見ると、わざとらしいくらいに視線をそらせた。……知ってたのに知らせなかったというやつですね、この陰険メガネめ。
 私の刺すような視線をものともせず、七緒さんは道雄に涼しい顔をして言った。

「妻に愛を囁いている最中だから邪魔しないでほしいな」
「……へー、愛を」

 道雄はそう言いながらこちらへ歩いてやってくる。
 道雄は七緒さんに言われたからといって、はい失礼しましたと去るタイプではない。
 篤は条件的なものを諸々加味して七緒さんなら大賛成ではないがまあ許す、みたいなスタンスだった。けれど道雄は私の相手として七緒さんを賛成していない節がある。

「こいつがあんたに何にも言わねーからって、無茶ばかり要求すんなよ」
「み……道雄」

 ハラハラしながら止めるように言うと、道雄は折り畳まれた紙を七緒さんに差し出した。

「さっきファックスがきてた」

 ファックス? と疑問に思ったけれど、ここは携帯電波が入らない場所でメールも電話も出来ない場所なのだと思い出した。
 七緒さんは渡された紙を開いて中に書かれているらしき文書に目を通すと、小さくため息をついた。

「何かあったの?」
「大した事じゃないよ」

 そう答えた七緒さんは私に微笑む。
 そうは言うものの、なにか面倒な事が起きた───という風にも見えなくもない。

「電話をするから先に戻るよ。……佐保は三国と一緒に戻っておいで」

 私の肩を軽く叩くとそう言って七緒さんは別荘へと戻って行った。その背中を見送っていると道雄が横に並ぶ。

「……家がどこか、わかったか?」

 川を見つめながら道雄が尋ねた。

「うん……川の中なんだね。道雄はよくこの場所を見つけたね。住所だって違うのに」
「小学校の頃に授業で緯度経度を習っていたのをたまたま覚えててさ。まあそれ自体が違ってたら、見つけられなかったけどな」

 緯度経度───確かに市町村の合併で住所は変わる事があるけれど、緯度経度ならば変わることはない。
 そして世界が変わっても、幸いな事にそれは変わらなかった。だから道雄は国外に住んでいたにもかかわらず、ここに来ることが可能だった。

「私なんてどの辺りなのかすら見当もつかなかったよ」
「姉貴は昔から方向音痴じゃん。見つけんの無理だろ」

 笑いながら断言される。無理とはなんだ。
 けれど否定出来ないのが悔しい。先日だって協会の建物でトイレになかなかたどり着けなかったばかりだ。


「……なんにも残ってねーな」

 川を見ながら道雄は言う。

「でももう何も残ってなくていい。全部川の中にあった方がいい───今はそう思う」

 桜子はここを不吉なところ、と呼んだ。
 道雄は全部川の中にあった方がいいと言う。
 なぜ、そんな事を言うのか───……


 私は、道雄に気付かれないように、自分の手を硬く握った。
 前世の記憶の中で思い出せない部分があるをのはいまも変わらない。死んだ時の記憶はある。ただそれに至った経緯の記憶がほとんど無いだけ。
 けれど、生きていて全てを記憶している人はいるのだろうか。たとえば幼稚園で何組だっただとか小学校の担任の先生の名を思い出せなくとも、人生に何も問題はない。前世もそうだ。思い出せない事は何も重要ではないではないはず───なのに、やはり思い出した方が良いのではないか、と少しだけ考えてしまう。


「……お父さんとお母さんは、どうしたんだろう。私たちみたいに転生してるのかな」
「……そりゃわかんねえな」
「クウはどうしたんだろう」
「あのバカ犬なら絶対どこかで生きてんじゃねーの。なんたってバカだから」

 小石を川に投げながら答える道雄に苦笑する。
 昔と違い、今の大人の骨格で小石を投げるとかなり遠くまで飛んでいく。……昔は私と同じ距離でしか石を飛ばせなかったのに。

「道雄にもう一度会えて良かった」
「…………おう」
「守ってあげられなくてごめんね」
「……姉貴」
「今度こそ、私が守るから」
「───やめてくれ、そういうの」

 道雄が私の肩を掴んだ。

「二度と言うな」
「なんで……」
「あの頃は俺には守る力が無かった。子供だったから。俺がもっと大人だったら姉貴を連れて逃げられたのにって、何度も思った」

 肩に指が食い込む。
 少し痛かったけれど道雄の方が痛そうな顔をしていて、何も言えなかった。

「今度は姉貴は姉貴自身の事だけ考えろ。俺の事なんか考えるな」
「でも」
「見ろよ、俺はもう中学生じゃない。
 背丈だってもう姉貴と同じゃない。……どう考えたって、今度は俺が守るばんだろ」
「道雄……」

 そうだね、と言っていいのかわからなかった。
 だって今の道雄の顔も、やはり私が守らなくてはいけない、あの頃と一緒の表情をしていたから。

「……ま、あいつがいるか」

 言って、道雄は手を離した。

「あいつ?」
「芹沢だよ。どう考えても俺より頼りになるだろ。俺と姉貴の二人くらい余裕で守れるだろ」
「まさか七緒さんに丸投げ!? しかも自分も含めちゃう!?」
「そりゃ俺を巻き込んだ責任、あいつにとってもらわねーと割に合わないっしょ」
「……巻き込んだ責任って何?」
「ひみつー」

 歩き出した道雄を私は慌てて追う。

 巻き込んだ、とは道雄を芹沢家の配下にした事だろうか? でもそれは協会が道雄に目をつけないように、七緒さんが道雄を守るために芹沢家の配下ということにしてくれただけで───よくわからないけれど、二人の間でやはり何かあったのかもしれない。


「ワフッ」

 ふいに聞こえた犬の鳴き声に、私と道雄は足を止めた。

「ワ、ワウッ、ウゥ?」

 先を歩く道雄の数メートル先、草木の間からあらわれた中型犬が、首を傾げてこちらを見ていた。
 不審者に警戒しているというよりも『何をしてるの?』と興味深げに見ている感じで、尻尾をパタパタ揺らしている。
 首輪をしていてその首輪からリードが垂れ下がっていた。おそらく散歩に出るところで脱走でもしたのだろう。

「ウー、そこにいんのー?」

 小径からそう言って現れたのは、日に焼けた肌に耳の上で切り揃えた髪が艶々としている子供だった。子供といっても中学生か高校生くらいで、学校指定と思われる上下ジャージ姿がなんだか懐かしい。

「ワッフゥ」
「ワッフゥ、じゃないってもう。毎回逃亡するんだから……あれ、中村さんだ。おはようございます。朝のランニングですか?」
「まあそんなとこ」

 顔見知りなのか、道雄とその子供は挨拶を交わす。

「そこのお姉さんも本家に来てる人?  昨晩は俺と会って無いですよね。
 管理してる家の息子で清史郎って言います。初めましておはようございます!」

 めちゃくちゃ目が大きくて可愛い顔立ちなので一瞬女の子かと思ったけれど、俺、と言っていたのでどうやら男の子らしい。体育会系的にハキハキと話し、大きな目が私を見る。

「おはようございます。町……じゃなくて、芹沢佐保です。初めまして、お世話になります」
「……え、まさかあいつの奥さん……!?」

 名前を聞くとギョッとした様子で、少年は私をまじまじと見た。

「結婚したって嘘じゃなかったんだ……なんで結婚しようと思ったんですか? 政略結婚とか? ───あ、いや、なんでもないです」

 彼はヤバい事を口走ってしまった、みたいな感じで誤魔化すように犬を抱き上げると、そそくさと元来た道を戻っていってしまった。
 管理してるのは七緒さんの遠縁だと言うし、すなわちあの子も七緒さんの遠縁になる。
 そして七緒さんが結婚するとは思っていなかった様子から、おそらく昔から七緒さんを知っているのだろう。

「なんだよ芹沢、子供ウケわりいの」
「そうだね」
「政略結婚って。確かにそっちの方が自然に見えるタイプか」
「そうだね」

 上の空で答える私に、道雄が眉をひそめた。

「……おい、まさかあの子供の言ってる事気にしてんのかよ」
「道雄……」
「気にすんなよ、芹沢の様子を見てれば恋愛結婚だってわかるって」
「あの子、さっき道雄のことって言ってなかった?」

 道雄が固まった。

 

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