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37. 逃げる

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 なんだ? 何が起きた?

 熱い。息をするたび肺が痛む。蓮は呻きながら目を開けた。目を閉じていたことさえ気づかなかった。
 いつの間にか倒れている。焼けるように背中が痛い。
 息を大きく吸い込もうとして、空気が熱くて、ひどくむせた。

 なんだ。どうしたんだ。

 自分の周りに防壁を発生させる。弱々しく水が蓮を包み、熱さが和らぎ始める。
 蓮は震える手で地面を掻きながら、必死に上体を起こした。

 姉さんは? 姉さんは無事か?
 視界がブレてよく見えない。赤い。

「姉さ……」
「蓮」

 背後から、鋭く自分を呼ぶ声がした。それは姉の声ではなく、もっと低い男の声だ。
 火を使う男の声。
 それを認識した瞬間、意識がはっきりとしてきた。
 これは敵の攻撃じゃない。味方の防御だ。脳がそう判断し、蓮を包む力が質を変え始める。力が、反発ではなく調和し始める。
 呼吸をした。今度は大丈夫だ。空気は相変わらず熱いけれど、焼けるほどじゃない。
 蓮は地面にしゃがみこんだまま、背後を振り返った。
 夏樹の背中が見える。井戸の中に何かを押し込んでいる。いや、押さえている。
 炎の力があたりを包んでいた。その熱量に、井戸の周囲は燃える前に炭と化しつつある。
 自分と蒼太の周りだけ、まだ土が残っていた。

「ボケっとしてんな、早く逃げろ」
「……ハァ⁉ なんで僕が、逃げ……」

 ふざけんなよ、と夏樹に加勢しようとして、蓮は気づく。

 血だらけだ、僕。

 ポタポタと、血が視界に落ちてくる。頭だ。頭を怪我してる。額から血が流れている。
 途端に、視界がぐらりと揺れた。

「あっち行け、邪魔なんだよ!」

 夏樹の怒号に、蓮は歯を食いしばりながら足に力を入れた。ふらついている場合じゃない、立ち上がらなくては。
 土は微かにまだぬかるみが残っている。それが蓮にはありがたかった。ほんの少しでも水を感じられるのは。
 傍らに倒れている蒼太の腕を掴む。意識があるのかも分からない。連れて行けるだろうか、こんな状態で。

「そいつは捨てていけ」

 無慈悲な命令が飛ぶ。「でも」と言いかけて、蓮は、蒼太がかすかに自分の腕を掴み返すのを感じた。
 蒼太を見る。相手も蓮を見ていた。小さな声が聞こえる。

「俺はいいから。紗世を……」

 ああ。
 蓮は泣きそうになりながら、足に力を入れて立ち上がった。
 焼けて黒い消し炭のような範囲はますます広くなっていく。炎の力が強すぎて、自分には辛い。

「できるだけ離れろよ、俺は力のコントロールができないってことを忘れるな」
「どうする気なんだ」
「何言ってんだよ、屋敷を燃やすんだろ。あの子がさっき言ってたじゃないか」

『この家は燃やさなくちゃいけないの、だから夏樹さんがいないと駄目』

 確かに姉さんはそう言っていた。言っていたけど。
 ふと嫌な予感がし、蓮は夏樹の背に声をかける。

「アンタ死ぬ気じゃないだろうな」
「なんですぐそういう発想になるんだよ、死ぬつもりなんか無いよ。ただ、どうなるか分からないって言ってるだけだろ、いいから早く行けよ!」

 夏樹の炎がじわじわと強く、勢いを増していく。
 それはつまり、この拮抗状態を保つのに使う力の量が、どんどん増えているということだ。
 井戸の中の何かが、力を増している。

「ほら早く行け! あの子、堪え切れずにこっちに来るぞ」

 夏樹の視線の先にをたどる。紗世がこちらを見ていた。震えて、泣きそうな顔をして。
 無意識なのか、フラフラと、一歩ずつこちらへ歩いてきている。
 そのことを認識した瞬間、蓮は駆け出した。

 屋敷を燃やすなら、建物から離れなくては。できるだけ遠くへ。
 夏樹の言うことは正しい。癪だけど。コントロールの出来ない攻撃に巻き込まれたら、目も当てられない。

 ふらつく足で、姉までたどり着く。紗世の腕を強く掴んだ。
 柔らかく細い腕。

「蓮、血……血が……」
「だいじょうぶ」

 駆け出したことで、体が悲鳴を上げていた。頭がガンガンと痛み、ろれつがうまく回らない。
 それでも蓮はしっかりと紗世の腕を掴んで引き寄せ、周囲を見渡した。
 屋敷の向こう側へ行きたい。でも建物に入るのは危険だ。いつかの武家屋敷のように、ドアが開かなくなったら困る。
 一番いいのは、ここから脱出し朱雀山へ戻ることだが――……。

 その時じわり、と痛みが引き始めた。
 紗世から霊力が流れ込んでくるのを感じる。それと同時に、朦朧としていた意識がクリアになっていく。

 そして、ふと違和感に気付いた。

 違和感。姉から、何かいつもと違う気配を感じる。
 少し異質な、でも嫌な感じではない、どちらかと言えば自分に馴染みのあるような気配。
 自分の気配を、姉から感じる。
 夏樹が朱雀の御守りを持っていた時、彼から姉の気配を感じたように。

 どこから?
 いや、今はそんな場合じゃない。

「逃げるよ、姉さん」

 蓮は紗世の腕を掴み、走り出そうとした。屋敷の横を通って、表へ。そしてそのまま離れることが出来れば……。
 けれど走り出す前に、蓮が手を引くのと同じ強さで、紗世もまた蓮の手を引いた。

「駄目よ、逃げても何にもならないの」
「ここにいたら危ないよ! 夏樹さん、ここら一帯を燃やす気だ。巻き込まれたら、守り切れるか分からない!」
「あのボスは水系なの! 井戸の底に居るんだから! だから、ある程度ダメージを与えないと、燃やせない!」

 なんだって。
 聞き返すより先に、紗世のおかげでクリアになり始めた蓮の感覚が、周囲の状況を把握し始める。
 確かに、井戸にいる何かは、ひどく大きく、強い。
 さっきは、意識が半ば白濁していて分からなかった。でも今は。

 今は分かる。あれを力技でねじ伏せようと思うなら、きっと相打ちになる。
 夏樹だって、それが分からないわけじゃないだろうに。

「でも、死ぬ気はないって……」

 いやそんなの、誰だってそうか。
 誰もが死ぬ覚悟で闘ってるわけじゃない。死ぬかもしれないって、思ってるだけで。
 死んでもいいって、思ってるわけじゃない。
 必死に逃げろと叫んだ夏樹の声を思い出す。

「それでも、できるだけここから離れないと」
「蓮」
「僕たちが離れないと、あの人は全力を出せないんだよ、だから」
「蓮、待って」

 紗世の腕を掴み、引きずるように歩き出した蓮に、紗世が必死に声をかける。
 でも蓮は聞かなかった。夏樹の力が徐々に強くなっているのを感じたからだ。引き延ばすのは得策じゃない。最大火力を出す前に力尽きたら、目も当てられない。
 紗世の霊力が少しずつ蓮に流れ込み続け、そのおかげで蓮の体に力が入り始めた。紗世を引きずる力が強くなる。

 それと同時に、先ほどから感じている違和感も、少しずつ大きくなり始めた。
 なんだろう。どうして。
 何故、紗世の体から、自分の力の残滓を感じるのだろう。

 ふとその可能性に思い至ったとき、ドク、と蓮の心臓が跳ねた。
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