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34. 蒼太の後悔
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蝉の声を聴くたび、蒼太は思い出す。
『もう会わない』
あれは7月の暑い日で、たった3週間前のことだ。
高校からの帰り道に紗世が言った。たった一言、唐突に。
……いや、唐突とは少し違うか。薄々気づいてた、自分だって。紗世がいつだって何かを諦めて、考え込んでいることは。
7月の終わりには、儀式がある。
記録によれば、儀式を初めてから今まで、失敗したことはない。
でも所々に不明瞭な記録があって、俺たちは、それが何を意味するのかなんとなく分かっていた。
どんな犠牲を払っても、とにかく封印を行いさえすれば、成功は成功なわけで。
依り代や守り人が何人死んだとしても、完遂さえすれば記録は成功と書かれるわけで。
だから自分たちは、少なくとも俺は、全員が五体満足で終わる可能性は低いのかもしれないと、覚悟はしていた。
していたけど。でも。
でも、紗世のことはあまり心配していなかった。
玄武は依り代が二人いる。矢面に立つのは秀悟だったし、紗世はバックアップのはずだ。
秀悟の刀を製造し、結界を張るのに出てくるだけ。怪我をして傷つくのは秀悟の役目だ。
だから、紗世は無事に秋を迎えると思っていた。
もう会わない。
そう言われた時はひどく動揺して、でも同時に楽観もしていた。
秀悟が無事に儀式を終えれるか分からないから、きっとナーバスになっているんだ。
すべてが無事に終わったら、きっとまた。
そんな風に考えていた。
だから。
『姉さんを逃がすことが出来たら、一緒に逃げてくれる?』
青ざめた顔で、あの弟がそんなことを言ってきたときは驚いた。
大嫌いな俺の所に、人目を忍ぶようにやって来て。
『逃がすってなんだ? 紗世に何かあったのか?』
『あの人、死ぬ気だ』
あの時の衝撃は忘れない。
死ぬ? どうして?
『僕、なんとか姉さんを説得してみる。だから、姉さんが逃げれたら、アンタ一緒に逃げてよ』
『……お前、俺にそれを頼むのは……』
『姉さんが逃げたら、どのみち儀式がどうなるか分からない。兄さんと僕だけじゃ、玄武様を無事下ろせる保証がないから』
蓮はひどく落ち着いて、暗い声で恐ろしいことを言う。
今まで、自分たちは皆、この弟だって、儀式の成功のためだけに生きてきたのに。
『……なんでお前が一緒に逃げないんだ?』
『塀を乗り越えるのに、こっち側から持ち上げなきゃいけないんだ。姉さんは僕が持ち上げるにしても、僕はひとりじゃ乗り越えられない』
『待てよ、何言ってるんだ。逃げるって文字通りの意味なのか? 誰にも告げずに……秀悟にも言わないで紗世を逃がすつもりなのか?』
『そうだよ』
迷いない返事。蒼太はひどく驚いて、それから、本当に紗世が死ぬんだと思った。
蓮が続ける。朝早く、まだ門の見張り以外は誰も起きていないような時間に、紗世に塀を越えさせる。
成功したら連絡するから、玄武の山の麓まで、紗世を迎えに来てほしい。
『そんなことして、お前は大丈夫なのか?』
『怒られるだろうね。でも儀式が終わるまでは、殺されないだろうから大丈夫だよ』
それの何が大丈夫なんだよ、と蒼太は思ったが、言わなかった。
蓮はすっかり覚悟を決めた目をしていて、余計なことを言うのは憚られたからだ。
『頼んだよ。連絡するからね』
言うだけ言って、蓮は帰ってしまった。混乱する自分を残して。
紗世が死ぬ。もう二度と会えない。
『もう会わない』
あれは本気の言葉だったんだ、と蒼太は初めて気がついた。
その日から、蒼太は電話の音に敏感になった。いつ蓮から連絡がくるか分からない。眠るときも、携帯電話を胸に抱いて眠った。
電話は鳴らなかった。
当然だろうな、と蒼太は思う。紗世が、弟が大変な目に合うと分かっていて逃げるわけがないし、我が身可愛さに秀悟を裏切るとも思えなかった。
鳴ったら嬉しかったけれど。
儀式が近づくにつれて、蓮の言葉が重く胸に浸透する。
紗世は本当に死ぬんだろうか。もう二度と会えないのだろうか。
自分たちは何のため儀式をするんだろう。
彼女が死んで、あとには何が残るだろう。
儀式の当日も、自分はそんなことばかり考えていた。
この儀式が終わったら、自分は、一番好きな女の子に、もう会えないのだろうか。
紗世。
あの子のことばかり考えて。だから。
だから、この身に宿したはずの青龍が、突然吹き荒れるように暴走した時、咄嗟に制御できなかった。
集中してなかった。
青龍の穴から黄龍の力が噴き出して、山を蹂躙した時も、自分は後手後手に回って、そして。
気づいたときには、何もかも終わってしまった。村は全滅だった。黄龍が全部食べてしまってた。
生き残ったのは自分だけ。
俺のせい。
たぶん秀悟なら、もっとうまく対処出来たろうに。
死体だらけの村を歩いて、途方に暮れていた時に、待ち望んでいた電話が鳴った。
相手は紗世でも、蓮でもなかったけど。
『生きてるか』
「……生きてる。俺だけ」
『十分だろ』
電話の向こうで秀悟が嗤った。
『篤紀と連絡が取れない。それに、気づいてたか? 黄龍に朱雀が混じってた。朱雀だけコントロールされてないんだ。あいつ死んだのかもしれない』
ビク、と体が硬直する。
よせよ、そんな簡単に死ぬとか言わないでくれ。もう二度と会えないなんて。
「紗世は? あいつは無事か?」
『逃げた』
「なんだって? いつ?」
『儀式が失敗してすぐ。蓮が連れて行った』
蒼太はホッとして、その場に座り込んだ。
良かった、生きているなら。
生きているなら、それで。また会えるなら。
たとえ自分のことを忘れていても。
「――、――っ!」
紗世の声がする。風の音が強くて、うまく聞き取れない。
ところで自分は、いま何をしているのだっけ。ひどく苦しい。足に力が入らない。
「――蒼太さん!」
はっ、と蒼太は目を開けた。
目が痛い。血だ。血が目に入って、痛い。
それでも必死に目を開くと、目の前に落ち窪んだ顔を少女がいた。こちらを見ている。自分の胸倉を掴んで、やすやすと持ち上げている。
脚が何かに当たる。石の感触。水のにおい。細かな砂利が落ちて、遥か底で水に落ちる音が聴こえる。
井戸だ。自分のすぐ背後に井戸がある。落とそうとしている。
少女の向こうに、紗世が見えた。
逃げろって言ったのに。
蒼太は少女の手を掴んだ。
『もう会わない』
あれは7月の暑い日で、たった3週間前のことだ。
高校からの帰り道に紗世が言った。たった一言、唐突に。
……いや、唐突とは少し違うか。薄々気づいてた、自分だって。紗世がいつだって何かを諦めて、考え込んでいることは。
7月の終わりには、儀式がある。
記録によれば、儀式を初めてから今まで、失敗したことはない。
でも所々に不明瞭な記録があって、俺たちは、それが何を意味するのかなんとなく分かっていた。
どんな犠牲を払っても、とにかく封印を行いさえすれば、成功は成功なわけで。
依り代や守り人が何人死んだとしても、完遂さえすれば記録は成功と書かれるわけで。
だから自分たちは、少なくとも俺は、全員が五体満足で終わる可能性は低いのかもしれないと、覚悟はしていた。
していたけど。でも。
でも、紗世のことはあまり心配していなかった。
玄武は依り代が二人いる。矢面に立つのは秀悟だったし、紗世はバックアップのはずだ。
秀悟の刀を製造し、結界を張るのに出てくるだけ。怪我をして傷つくのは秀悟の役目だ。
だから、紗世は無事に秋を迎えると思っていた。
もう会わない。
そう言われた時はひどく動揺して、でも同時に楽観もしていた。
秀悟が無事に儀式を終えれるか分からないから、きっとナーバスになっているんだ。
すべてが無事に終わったら、きっとまた。
そんな風に考えていた。
だから。
『姉さんを逃がすことが出来たら、一緒に逃げてくれる?』
青ざめた顔で、あの弟がそんなことを言ってきたときは驚いた。
大嫌いな俺の所に、人目を忍ぶようにやって来て。
『逃がすってなんだ? 紗世に何かあったのか?』
『あの人、死ぬ気だ』
あの時の衝撃は忘れない。
死ぬ? どうして?
『僕、なんとか姉さんを説得してみる。だから、姉さんが逃げれたら、アンタ一緒に逃げてよ』
『……お前、俺にそれを頼むのは……』
『姉さんが逃げたら、どのみち儀式がどうなるか分からない。兄さんと僕だけじゃ、玄武様を無事下ろせる保証がないから』
蓮はひどく落ち着いて、暗い声で恐ろしいことを言う。
今まで、自分たちは皆、この弟だって、儀式の成功のためだけに生きてきたのに。
『……なんでお前が一緒に逃げないんだ?』
『塀を乗り越えるのに、こっち側から持ち上げなきゃいけないんだ。姉さんは僕が持ち上げるにしても、僕はひとりじゃ乗り越えられない』
『待てよ、何言ってるんだ。逃げるって文字通りの意味なのか? 誰にも告げずに……秀悟にも言わないで紗世を逃がすつもりなのか?』
『そうだよ』
迷いない返事。蒼太はひどく驚いて、それから、本当に紗世が死ぬんだと思った。
蓮が続ける。朝早く、まだ門の見張り以外は誰も起きていないような時間に、紗世に塀を越えさせる。
成功したら連絡するから、玄武の山の麓まで、紗世を迎えに来てほしい。
『そんなことして、お前は大丈夫なのか?』
『怒られるだろうね。でも儀式が終わるまでは、殺されないだろうから大丈夫だよ』
それの何が大丈夫なんだよ、と蒼太は思ったが、言わなかった。
蓮はすっかり覚悟を決めた目をしていて、余計なことを言うのは憚られたからだ。
『頼んだよ。連絡するからね』
言うだけ言って、蓮は帰ってしまった。混乱する自分を残して。
紗世が死ぬ。もう二度と会えない。
『もう会わない』
あれは本気の言葉だったんだ、と蒼太は初めて気がついた。
その日から、蒼太は電話の音に敏感になった。いつ蓮から連絡がくるか分からない。眠るときも、携帯電話を胸に抱いて眠った。
電話は鳴らなかった。
当然だろうな、と蒼太は思う。紗世が、弟が大変な目に合うと分かっていて逃げるわけがないし、我が身可愛さに秀悟を裏切るとも思えなかった。
鳴ったら嬉しかったけれど。
儀式が近づくにつれて、蓮の言葉が重く胸に浸透する。
紗世は本当に死ぬんだろうか。もう二度と会えないのだろうか。
自分たちは何のため儀式をするんだろう。
彼女が死んで、あとには何が残るだろう。
儀式の当日も、自分はそんなことばかり考えていた。
この儀式が終わったら、自分は、一番好きな女の子に、もう会えないのだろうか。
紗世。
あの子のことばかり考えて。だから。
だから、この身に宿したはずの青龍が、突然吹き荒れるように暴走した時、咄嗟に制御できなかった。
集中してなかった。
青龍の穴から黄龍の力が噴き出して、山を蹂躙した時も、自分は後手後手に回って、そして。
気づいたときには、何もかも終わってしまった。村は全滅だった。黄龍が全部食べてしまってた。
生き残ったのは自分だけ。
俺のせい。
たぶん秀悟なら、もっとうまく対処出来たろうに。
死体だらけの村を歩いて、途方に暮れていた時に、待ち望んでいた電話が鳴った。
相手は紗世でも、蓮でもなかったけど。
『生きてるか』
「……生きてる。俺だけ」
『十分だろ』
電話の向こうで秀悟が嗤った。
『篤紀と連絡が取れない。それに、気づいてたか? 黄龍に朱雀が混じってた。朱雀だけコントロールされてないんだ。あいつ死んだのかもしれない』
ビク、と体が硬直する。
よせよ、そんな簡単に死ぬとか言わないでくれ。もう二度と会えないなんて。
「紗世は? あいつは無事か?」
『逃げた』
「なんだって? いつ?」
『儀式が失敗してすぐ。蓮が連れて行った』
蒼太はホッとして、その場に座り込んだ。
良かった、生きているなら。
生きているなら、それで。また会えるなら。
たとえ自分のことを忘れていても。
「――、――っ!」
紗世の声がする。風の音が強くて、うまく聞き取れない。
ところで自分は、いま何をしているのだっけ。ひどく苦しい。足に力が入らない。
「――蒼太さん!」
はっ、と蒼太は目を開けた。
目が痛い。血だ。血が目に入って、痛い。
それでも必死に目を開くと、目の前に落ち窪んだ顔を少女がいた。こちらを見ている。自分の胸倉を掴んで、やすやすと持ち上げている。
脚が何かに当たる。石の感触。水のにおい。細かな砂利が落ちて、遥か底で水に落ちる音が聴こえる。
井戸だ。自分のすぐ背後に井戸がある。落とそうとしている。
少女の向こうに、紗世が見えた。
逃げろって言ったのに。
蒼太は少女の手を掴んだ。
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