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18. 不穏な夜
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時刻は夜だ。今外に出るのは自殺行為に等しい。
夕飯時に話した感じでは、夏樹は身を守る術をほとんど持っていない。ただその身に宿した霊力が彼を覆い、守っているに過ぎない。
「こんな時間に外に出るのは危ないですよ」
「わかってます、でも……」
「でも?」
「声が……」
夏樹は額に手をやり、視線を彷徨わせた。
「声が聞こえるんです、ずっと、俺を呼んでる」
ホラーゲームだからなぁ、と紗世は思った。
プレイヤーキャラの助けたNPCが、夢遊病のような状態になって、夜のうちに家を出て行ってしまうのはよくあることだ。
夏樹も絶対そうすると思った。だから寝ずに待っていたのだ。
紗世はゆっくりと夏樹に近づいた。夏樹の手を取り、彼の目を覗き込む。
夏樹は紗世よりずっと背が高い。けれどこの家の玄関は、室内側が一段高くなっている。そのおかげで、紗世と夏樹の目線の高さはぐっと近づく。
夏樹が息を呑んだ。鼻先が触れあいそうな近さで、紗世は微笑んだ。
「まだ声は聞こえます?」
「え?……いや、今は、聞こえないです」
ひそひそと小さな声で尋ねると、夏樹は顔を赤らめて首を振った。そうでしょう、と紗世は満足げに頷く。
蓮にも言った。ジャパニーズホラーは、男女が良い感じになっている時は、お化けは出てこない。
ほら、その証拠に。不穏な空気が消えていく。
紗世が手を引くと、夏樹は引かれるままに靴を脱ぎ、玄関を一段上がった。そのままきちんとついてくる。
「夏樹さんの部屋はやめて、応接間のソファで寝るのが良いと思います」
応接間はたぶん、セーフルームだから。声は聞こえないだろう。
夏樹は、新島が昼の内に、蓮の為にと整えた部屋を使っていた。セーフルームではないから、何らかの……よくないイベントが起きようとしていたのだろう。
紗世は夏樹を手を引いて応接間へ行くと、ソファへ彼を座らせた。
「さあ眠って。疲れてるはずですよ、ずっと眠れてなかった上に、今日は始発でここへ来たんでしょう?」
あなたが眠るまで、ここに居ますから。
紗世の言葉に、夏樹は大人しく横になる。すぐ寝るだろう、と紗世は思った。たぶん、夏樹はいま数日ぶりに、何も聞こえない静かな夜を迎えている。
ウトウトと瞬きを繰り返しながら、夏樹がふと呟いた。
「紗世さん、俺は死ぬのかな」
「……どうして?」
「こんなの普通じゃないって思うから」
「そうね、おかしなことばかりだね」
紗世はこの世界へ来て初めて、同じような感覚の意見を聞いた気がした。
そう、普通じゃないね。自分に死亡フラグが立っているというのは。
私もあなたも、まいっちゃうね。
「でも、大丈夫よ、きっと何とかなるわ」
「そうかな……」
「うん。さぁ、おやすみなさい」
紗世はそっと夏樹の額に唇を寄せた。かすかに、熱い炎の匂いがする。
目をつむり、寝息を立て始めた夏樹に微笑んで、紗世は応接間を後にした。
ドアを開け、廊下に出る。ひどく暗い。けれども窓から差し込む月明りが、足元だけは照らしている。
満月だろうか。紗世は窓の外を眺めた。想像より大きな月が空に浮かんでいる。紅い月が。
その時、カタンと紗世のすぐ傍から音がした。紗世はビクリと体を震わせ、振り向く。
蓮が立っていた。
「! あ、あぁ、蓮、いたの、びっくりした」
蓮は何も言わずにじっと紗世を見つめ、手を差し出した。紗世は微笑んで手をつなぐ。
「私がいなくて心配したの? ごめんね、何も言わなくて。さ、部屋に戻……」
紗世はふと言葉を止めた。蓮がひどく暗い顔をして、何も言わずにこちらを見ているからだ。
どうしたの、と青ざめた頬に触れようと手を伸ばした時、蓮が小さな声で言った。
「姉さん、あいつ、誰なの?」
「あいつって? 夏樹さん? さあ、私もよく知らないの」
「嘘だ」
ぴしゃりと短く跳ね付けられて、紗世は一瞬言葉に詰まる。
「嘘じゃないよ、私はあの人のこと知らないよ」
「姉さん、いつも覚えてないって言うのに、なんであいつのことは知らないって言うの? 覚えてないだけで、知ってたかもしれないじゃないか」
紗世は目を見開く。
「僕のことすら思い出してないんだ、他にも思い出してないことが山とあるはずだろ。あいつのことだって、知ってるけど思い出してないだけかもしれないのに、なんで知らないなんて言い切れるの」
おかしいよ、と暗い声で蓮はつぶやく。だんだんと、周囲の空気が冷たくなっていく。掴まれた手が痛い。
紗世は何と答えていいか分からず、返答に詰まった。
確かに、蓮の疑問は正しい。紗世はゲームの知識から、夏樹がこの山へ来たのは初めてだと知っている。だから、記憶を失う前の紗世が夏樹とは会っていないだろうと思っていた。
けれどもしかしたら、知ってる可能性はあったかもしれない。なんせ自分は「玄野紗世」のことを何も知らないのだから。
それなのに、「知らない」と言い切るのは尚早だったかもしれない。
「蓮、待って、冷たいよ……」
掴まれた手の痛みが徐々に大きくなる。蓮の手が痛いほど冷たくなるにつれ、自分の手も冷たく硬くなり始める。
蓮は何も言わない。
「蓮、あの人は、朱雀の依り代なのよ、それだけ知ってる。覚えてるの。他は知らない、本当に。名前も知らなかった」
「依り代?」
「そう……、朱雀の依り代は、本当はあの人だったの。でも山から離れていたから選ばれなかった。それで間違った人が依り代になって……」
紗世の言葉に、蓮は小さく息を呑んだ。
「儀式が失敗した原因は、それなの?」
「たぶん……そうだと思う」
「なんでそんな大事なこと、教えてくれないの」
「ご、ごめんなさい、自分でもあまり確信が持てなくて……信じてもらえるか分からなかったし……」
オロオロと紗世は言い訳をする。
だって仕方ない。昨日の段階では、夢なんじゃないかと思っていたし、それに、何故知ってるのかと聞かれても答えられなかった。
これが絶対に正しい知識かも分からない。何もかも不確かなのだから。
「僕ってそんなに頼りない?」
蓮が静かに聞いた。
いつの間にか、手の痛みは治まっていた。冷たさはもう感じない。
代わりに感じるのは、耳が痛くなるほどの静けさ。
蓮の手から力が抜ける。彼は自然と紗世の手を離した。
ああ。
蓮は怒っている。同時に傷ついてもいる。これはまずいサインだ。知っている。こういうイベント、よくあるもの。
登場人物たちが喧嘩をして、どちらかが目を離した隙に、相手がいなくなる。この場合、消えるのは絶対に自分だ。紗世は自分たちの周りに不穏な空気が立ち込めるのを感じる。夏樹を捕まえ損ねて怒っている。何かの意思を感じる。
紗世は焦って、蓮へ一歩近づいた。すぐ傍まで。蓮の体がビクリと跳ねる。近いよ、と蓮が呻くように言った。
「私から目を離さないで」
「……なに?」
「私を捕まえてて。離れないように」
紗世の言葉に、蓮は一瞬泣きそうな顔をした。そしてもう一度紗世の腕を強く掴む。
「なんなの、分かんないよ、僕にどうしろって言うの」
「蓮が言ったんだよ。手を繋いで、ずっと隣にいてって」
「言ったけど……」
姉さんずるいよ。
小さな声で蓮は言った。それきり会話は続かなかった。
夕飯時に話した感じでは、夏樹は身を守る術をほとんど持っていない。ただその身に宿した霊力が彼を覆い、守っているに過ぎない。
「こんな時間に外に出るのは危ないですよ」
「わかってます、でも……」
「でも?」
「声が……」
夏樹は額に手をやり、視線を彷徨わせた。
「声が聞こえるんです、ずっと、俺を呼んでる」
ホラーゲームだからなぁ、と紗世は思った。
プレイヤーキャラの助けたNPCが、夢遊病のような状態になって、夜のうちに家を出て行ってしまうのはよくあることだ。
夏樹も絶対そうすると思った。だから寝ずに待っていたのだ。
紗世はゆっくりと夏樹に近づいた。夏樹の手を取り、彼の目を覗き込む。
夏樹は紗世よりずっと背が高い。けれどこの家の玄関は、室内側が一段高くなっている。そのおかげで、紗世と夏樹の目線の高さはぐっと近づく。
夏樹が息を呑んだ。鼻先が触れあいそうな近さで、紗世は微笑んだ。
「まだ声は聞こえます?」
「え?……いや、今は、聞こえないです」
ひそひそと小さな声で尋ねると、夏樹は顔を赤らめて首を振った。そうでしょう、と紗世は満足げに頷く。
蓮にも言った。ジャパニーズホラーは、男女が良い感じになっている時は、お化けは出てこない。
ほら、その証拠に。不穏な空気が消えていく。
紗世が手を引くと、夏樹は引かれるままに靴を脱ぎ、玄関を一段上がった。そのままきちんとついてくる。
「夏樹さんの部屋はやめて、応接間のソファで寝るのが良いと思います」
応接間はたぶん、セーフルームだから。声は聞こえないだろう。
夏樹は、新島が昼の内に、蓮の為にと整えた部屋を使っていた。セーフルームではないから、何らかの……よくないイベントが起きようとしていたのだろう。
紗世は夏樹を手を引いて応接間へ行くと、ソファへ彼を座らせた。
「さあ眠って。疲れてるはずですよ、ずっと眠れてなかった上に、今日は始発でここへ来たんでしょう?」
あなたが眠るまで、ここに居ますから。
紗世の言葉に、夏樹は大人しく横になる。すぐ寝るだろう、と紗世は思った。たぶん、夏樹はいま数日ぶりに、何も聞こえない静かな夜を迎えている。
ウトウトと瞬きを繰り返しながら、夏樹がふと呟いた。
「紗世さん、俺は死ぬのかな」
「……どうして?」
「こんなの普通じゃないって思うから」
「そうね、おかしなことばかりだね」
紗世はこの世界へ来て初めて、同じような感覚の意見を聞いた気がした。
そう、普通じゃないね。自分に死亡フラグが立っているというのは。
私もあなたも、まいっちゃうね。
「でも、大丈夫よ、きっと何とかなるわ」
「そうかな……」
「うん。さぁ、おやすみなさい」
紗世はそっと夏樹の額に唇を寄せた。かすかに、熱い炎の匂いがする。
目をつむり、寝息を立て始めた夏樹に微笑んで、紗世は応接間を後にした。
ドアを開け、廊下に出る。ひどく暗い。けれども窓から差し込む月明りが、足元だけは照らしている。
満月だろうか。紗世は窓の外を眺めた。想像より大きな月が空に浮かんでいる。紅い月が。
その時、カタンと紗世のすぐ傍から音がした。紗世はビクリと体を震わせ、振り向く。
蓮が立っていた。
「! あ、あぁ、蓮、いたの、びっくりした」
蓮は何も言わずにじっと紗世を見つめ、手を差し出した。紗世は微笑んで手をつなぐ。
「私がいなくて心配したの? ごめんね、何も言わなくて。さ、部屋に戻……」
紗世はふと言葉を止めた。蓮がひどく暗い顔をして、何も言わずにこちらを見ているからだ。
どうしたの、と青ざめた頬に触れようと手を伸ばした時、蓮が小さな声で言った。
「姉さん、あいつ、誰なの?」
「あいつって? 夏樹さん? さあ、私もよく知らないの」
「嘘だ」
ぴしゃりと短く跳ね付けられて、紗世は一瞬言葉に詰まる。
「嘘じゃないよ、私はあの人のこと知らないよ」
「姉さん、いつも覚えてないって言うのに、なんであいつのことは知らないって言うの? 覚えてないだけで、知ってたかもしれないじゃないか」
紗世は目を見開く。
「僕のことすら思い出してないんだ、他にも思い出してないことが山とあるはずだろ。あいつのことだって、知ってるけど思い出してないだけかもしれないのに、なんで知らないなんて言い切れるの」
おかしいよ、と暗い声で蓮はつぶやく。だんだんと、周囲の空気が冷たくなっていく。掴まれた手が痛い。
紗世は何と答えていいか分からず、返答に詰まった。
確かに、蓮の疑問は正しい。紗世はゲームの知識から、夏樹がこの山へ来たのは初めてだと知っている。だから、記憶を失う前の紗世が夏樹とは会っていないだろうと思っていた。
けれどもしかしたら、知ってる可能性はあったかもしれない。なんせ自分は「玄野紗世」のことを何も知らないのだから。
それなのに、「知らない」と言い切るのは尚早だったかもしれない。
「蓮、待って、冷たいよ……」
掴まれた手の痛みが徐々に大きくなる。蓮の手が痛いほど冷たくなるにつれ、自分の手も冷たく硬くなり始める。
蓮は何も言わない。
「蓮、あの人は、朱雀の依り代なのよ、それだけ知ってる。覚えてるの。他は知らない、本当に。名前も知らなかった」
「依り代?」
「そう……、朱雀の依り代は、本当はあの人だったの。でも山から離れていたから選ばれなかった。それで間違った人が依り代になって……」
紗世の言葉に、蓮は小さく息を呑んだ。
「儀式が失敗した原因は、それなの?」
「たぶん……そうだと思う」
「なんでそんな大事なこと、教えてくれないの」
「ご、ごめんなさい、自分でもあまり確信が持てなくて……信じてもらえるか分からなかったし……」
オロオロと紗世は言い訳をする。
だって仕方ない。昨日の段階では、夢なんじゃないかと思っていたし、それに、何故知ってるのかと聞かれても答えられなかった。
これが絶対に正しい知識かも分からない。何もかも不確かなのだから。
「僕ってそんなに頼りない?」
蓮が静かに聞いた。
いつの間にか、手の痛みは治まっていた。冷たさはもう感じない。
代わりに感じるのは、耳が痛くなるほどの静けさ。
蓮の手から力が抜ける。彼は自然と紗世の手を離した。
ああ。
蓮は怒っている。同時に傷ついてもいる。これはまずいサインだ。知っている。こういうイベント、よくあるもの。
登場人物たちが喧嘩をして、どちらかが目を離した隙に、相手がいなくなる。この場合、消えるのは絶対に自分だ。紗世は自分たちの周りに不穏な空気が立ち込めるのを感じる。夏樹を捕まえ損ねて怒っている。何かの意思を感じる。
紗世は焦って、蓮へ一歩近づいた。すぐ傍まで。蓮の体がビクリと跳ねる。近いよ、と蓮が呻くように言った。
「私から目を離さないで」
「……なに?」
「私を捕まえてて。離れないように」
紗世の言葉に、蓮は一瞬泣きそうな顔をした。そしてもう一度紗世の腕を強く掴む。
「なんなの、分かんないよ、僕にどうしろって言うの」
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