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第六章 グッバイ、旦那様。

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 朝はこっそり出ていく匠くんを狸寝入りしながら見送った。玄関ドアの閉まる音を聞いてから飛び起きる。

「うっしゃ」

 腕を振って自分に気合を入れながら、主寝室を後にしてリビングへと向かう。入った瞬間から漂うコーヒーの香りに誘われてみれば、未だポタポタとドリップ中のコーヒーを見つけた。きっと私のため。そう思うと、嬉しくて笑みが零れた。戸棚からお洒落なカップを引っ張り出してコポコポと注げば、更に苦い香りが漂う。
 それを片手にベランダに立てば、眩い太陽が迎えてくれた。昨日とは違う素敵な朝。下を見れば人は本当に米粒で、人差し指と親指で掴む仕草をしてみた。指先は簡単にぶつかって、人も空気も掴むことなんて出来ない。ステンレスの冷たい手すりを撫でてみる。いつかのようにそこに両肘を乗せて。違うのは後ろから抱き締めてくれる腕がないだけ。



 マンションのロータリーには、見覚えのある黒い車が停まっていた。

「亜子さん」

「すみません。お待たせしました」

「いえ」

 天野さんは微笑んで手を差し出してくれた。それに応えるように右手に持っていたキャリーバッグを渡す。うんうんと小さく頷いてから、天野さんはそれをひょいと持ち上げてトランクに仕舞った。それを横目に私は開かれたままの後部座席に自ら乗り込み、そして扉を閉める。これからはまた、元通り。

「元のお住まいの手配は済んでおります。簡単ですが、直ぐに生活出来るように道具も揃えて置きました」

「ありがとうございます」

 車は動き出していて、移りゆく景色を頬杖を付きながら眺める。

 大丈夫。私、五年前もDVでボロボロだったけれど、立ち直れたじゃない。あれから執着することを止めたのに、いつのまにか匠くんに染まっていた。大丈夫。きっと煙草と同じように、時間が解決してくれる。
 田村さんに連絡してみよう。ニートじゃいらんないし、また働けるかどうか。そして傷が癒えて来たら、もし、私の勘が本当ならば田村さんと。・・・なんて、まだ全然想像つかないや。

「亜子さん」

「はい」

「匠様は末っ子です」

「はい?」

「末っ子は、上の兄弟の失敗を見て上手く生きていくんです」

「・・・」

「私にはわかります。亜子さんは代わりなどではなかった」

 ぐっと息が苦しくなるくらいに胸が締め付けられる。天野さんはどれだけのことを知っているのだろうか。匠くんの沙也加さんへの想いは、私なんかでは癒えない。私は・・・代わりにもなれない。

「少し聞いてくださいますか?」

「はい」

「私は数年前もこのように、ひとりの女性を送り届けていました。彼女は強い意思で想い人と別れを選んだ直後でした」

 まるで今の私のよう。

「その方は今、どうなっていると思いますか?」

「え、と・・・自殺とかのバッドエンドではないですよね?」

「はっはっは。亜子さんはこれから自殺しますか?」

「い、いえ! そんなことしたら、匠くんに迷惑かかります。私は・・・」

 私はどうなるんだろう。抜け殻のようになってしまうかな。匠くんを探して街を彷徨ってしまうかな。

「大丈夫ですよ」

 天野さんは私の心の声と会話しているかのように、さらりと答えた。


「その女性は今、とっても幸せです」


「そう、ですか。よかった」

「ええ。匠様はそれを見ているから、間違ったりしないでしょう」

「?」

「大谷家の血をナメたらいけませんよ?」

 バックミラーに映った天野さんの目は何かを確信しているようだった。
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