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第六章 グッバイ、旦那様。

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「お嬢さん。寒くないかい?」

 空を見上げていた私の隣から声を掛けられた。

「大丈夫です」

 視線は空に向けたまま、突き放すように言った。声からして明らかに年上だと思う。

「それはよかった。しかし困ったことに私はココアを持っているんだ。私は甘いのが苦手でね。せっかくの温かいココアが冷めてしまってはもったいないと思わないかい?」

「___ふふ。それは、もったいないですね」

 思わず返事をしてしまって、声の主を見る。初老の男性はスーツの上に茶色のコートを羽織っていて、ココアを差し出しながら私に笑いかけていた。背筋がピンと伸びていて、清潔感があり上品な人だと思う。こんな人もナンパするんだ。私からしたら都市伝説の”パパ”というものをしている人かもしれない。

「いやあ、悪いね。私が間違って買ってしまったもので」

「いえ、ありがとうございます。・・・いただきます」

 自然と隣に座った男性に嫌悪感は湧かなかった。隣には、ちゃんとわきまえた距離が開けられているからだろう。熱々のココアは鼻に近付けると甘く、ほっとした気分にさせてくれる。いつしか涙は止まっていた。

「私は話を聞くのが好きでね。こんな年になれば尚更、私には体験出来ないようなことを聞けるからね」

「そうですね。私、凄い体験していますよ」

「ほう、興味深い」

 心地良い声に誘われて、二度と会う事のないこの人にならばありのままの気持ちを話してもいいかなと思った。ははっと笑ながら、匠くんと初めて会った日のことを思い出す。

「私、とんでもない人にプロポーズされて、出会った翌日に電撃入籍したんです」

「おお。それは思い切りましたね」

「私も驚いています。でも、彼を知れば知る程に、どんどん好きになって行くんです。一緒に居られない今だって、彼への気持ちは増すばかりです」

 男性は「ほう」とか「ええ」と、話しやすいタイミングで相槌を入れてくれている。本当に聞くのが好きなんだろう。

「でも気付いちゃったんです。彼が私を見ていないことに。彼は叶わぬ恋をしています。その相手は私ではなくて、私によく似た女性です。それを知ったときに、こんな凄い人が私と結婚した理由がやっとわかって・・・」

「・・・」

「代わりでもいいと思ったんです。彼と、いられる・・・ならっ。でも、申し訳なさそうに抱き締められることが苦しくなってきて」

「もう、離れたくなったということですか?」

 そう問われても答えられなかった。それはずっと考えて来たことなのに、どうしても答えが出なかったことだったから。

「一緒に居たい。罪悪感でも傍にいて欲しい。でもっ・・・愛されたい」

 止まったはずの涙がまた溢れてきて、きっともう化粧は全部落ちてしまっている。もう男性の反応なんてどうでもよかった。想いが溢れて止まらないの。


「でも、っぐ・・・ぅ、かれの未来を縛りたくない、んです。いつか・・・、いつかまた素敵な恋を、してほしいんです。かなわぬこいを続けさせてしまっう、ひっく・・・。そんな、代わりのわだしが、隣にいちゃだめなんですぅ。うう、ああああぁ」


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