上 下
49 / 65
第五章 引き裂くのは運命か、それとも定めか。

5-5

しおりを挟む


 午後のジムは散々だった。体験入会の女性が殺到していて、あまりの人数にフロアが揺れているとさえ錯覚してしまうほどに。既存の会員たちは皆迷惑そうな顔をしていて、帰ってしまう人も多くいた。山本くんに謝罪されたときは「こちらこそ、すみません」と謝り返した。だって、こんなことになってしまったのはCMが原因だとしか思えないからだ。

 CM公開から今日で四日目なのに、恋する女性は行動が早すぎる。確かに芸能人になってしまったら一生出会うことはなくなってしまうかもしれないけれど、一般人の今なら・・・とも思ってしまうかもしれない。残念だけれど五十嵐社長は一般人であっても、レベチの高嶺の花なのだ。若者言葉を使ってみたけれど、今日一日ネットサーフィンし過ぎた所為かもしれない。

 コンコン。ノックされたのは自宅の玄関ドア。これまでこの部屋に訪ねてきた人はひとりしかいない。着替える時間はないから、ベッドに寝転んで乱れた着衣を正しながら玄関ドアを開けた。

「___倉科さん」

 予想外の訪問者に驚きつつ目を瞬かせる。終業時刻は十八時で、今は二十時を過ぎようとしていた。通常であれば帰っているはずの人物が目の前に立っている。

「今すぐ荷物をまとめてください」

「え?」

「急いでください」

 玄関に立つ私を押しのけて倉科さんが部屋に入り、そしてキャリーバッグに荷物を詰め始めた。慌てて追いかけてキャリーバッグを掴む。

「どど、どういうことですか?」

「住み込みは終了です。明日からはこちらではなく、ラヴィソンの方に出社してください」

「え? まだあとひと月あるはずじゃ「もう結構です。売り上げ目標も達成しました。ラヴィソンでの今後のご活躍、期待しています」

 あっさりと目標達成を告げられ、予想していた皆でハイタッチみたいな空気は皆無だった。呆然と床にへたり込めば、そんな私を横目に倉科さんは荷物を詰め続けている。来た時はキャリーバッグひとつだったのに、帰りは大きな紙袋三つ分荷物が増えていた。

「佐山部長が来られています。急いで降りましょう」

 ふた月過ごした部屋に後ろ髪を引かれながらも背中を押されれば前に進むしかない。両肩に紙袋をひっかけて、部屋着にコートを羽織ったへんちくりんな女がビルの前に放り出される。道路には佐山の車が停まっていて、私を見るなり窓を開けて名前を呼んでいた。振り返ってみれば少し後方で、倉科さんが私に向かって最敬礼をしていた。

「倉科さん・・・」

 ゆっくりと上げられた顔はいつものクールさの向こうに葛藤が見える。

「社長が貴女を選んだ理由、分かりたくありませんでした。貴女は自分のことに対しては馬鹿だから・・・一生分からなくて結構です。社長は私が守りますからご心配なく。さよなら」

 私が口を開く前に踝を返してビルへと戻って行ってしまった。私は何の説明もなくお払い箱、ということなのだろうか。何が何だか分からないぐちゃぐちゃな思考で、情けない顔をしながら佐山を振り返る。車から降りてきた佐山は何も言わずにキャリーバッグを車に積み、私から紙袋を奪ってそれらも乗せてしまった。

 何の心の準備も出来ていない。何の挨拶も出来ていない。それなのに私はここを去らなければいけないと言うのか。五十嵐社長にも会わずに?

「伊藤! 行くな」

 思わず駆け出しそうになった私の腕を、佐山が強い力で引き戻した。

「行くなよ。・・・帰ろう」

 頬を伝うのは悲しみか悔しさか、自分でも制御出来ない涙が零れていく。嗚咽は出なくてただただ溢れる涙に、鼻が真っ赤に染まって熱をもつ。なんだ。なんだ。なんなんだ。いらないおもちゃは最後に抱き締めもせずに捨ててしまうのか。私が必死に働くように思わせぶりに弄んだと言うのか。

「大丈夫。俺がいるから」

 佐山の掠れた声が聞こえて、目の前が真っ暗になった。顔に当たる感触にこれはスーツだと分かる。手で触ればそれは確信に変わって、不細工な顔が見えないようにぎゅっと握りしめた。佐山は来ていたスーツを私の頭から被せてくれていて、そのまま車へとエスコートしてくれたのだ。助手席に座らせられ、ドアの閉まる音がする。数秒後にドアが開いて、再び閉まる音がして佐山も乗り込んだことを悟った。

「___ごめん」

 ぐずぐずの声で謝罪を口にすれば、頭を小突かれた。佐山は・・・良い男だ。私が違う未来線上にいれば好きになることも大いにあっただろう。それでも私は、ここにいる私の心を奪っているのは違う男なのだ。きっと真っ赤な顔だから、佐山のスーツは帰るまで借りておこうと思う。そう思ったとき、スーツの上からおもむろに抱き寄せられた。

「貴方のお陰で伊藤が輝きを取り戻したこと、感謝します。これからは俺が磨くので」

 突然佐山が声を張り上げる。私も突然のことに動けずにいたら、助手席の窓が閉まる音がした。都合良い私の勘がけたたましく警鐘を鳴らすから、慌ててスーツを脱ぎ捨てる。ぼさぼさの髪の隙間から、ビルのエレベーター前に立つ人影が見えた。ちゃんと確認したいのに佐山が車を発進させてしまうから見えなかった。

「佐山! 誰かいた?!」

 髪を整える余裕もなく佐山を見れば、イラついたように眉を寄せている佐山の横顔は口を噤んで動かない。シフトレバーに置かれた佐山の腕を掴み揺らして抗議する。

「佐山!」

「落ち着け。・・・お前の会社も家も、上司もあそこには無い」

 ぽろぽろ落ちていく涙で佐山のスーツが濡れていく。下唇を強く噛んでみても涙は止まらない。

「目を覚ませ。落ち着いたら通常の取引先同様に付き合えるようになる。二度と会えないわけじゃない。何をそんなに興奮しているんだ」

 そんな風に言われたって答えられるはずがない。恋していましたって。キスされて勘違いしていました、だなんて言えるはずがないじゃない。普通になんて戻りたくない。私は石ころで良かったのに。高嶺の花の近くに転がる石でいられれば良かったはずなのに。欲を出してしまったから? だから私を遠ざけるの? そんなこと聞いたって、きっと答えなんてくれないのは分かっているのに。

「出勤は来週からでいいから、ゆっくり休め」

 気遣うように肩を叩いてくれた佐山の優しさを理解出来るほど、私の心には余裕がなかった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

イケメンエリート軍団の籠の中

便葉
恋愛
国内有数の豪華複合オフィスビルの27階にある IT関連会社“EARTHonCIRCLE”略して“EOC” 謎多き噂の飛び交う外資系一流企業 日本内外のイケメンエリートが 集まる男のみの会社 唯一の女子、受付兼秘書係が定年退職となり 女子社員募集要項がネットを賑わした 1名の採用に300人以上が殺到する 松村舞衣(24歳) 友達につき合って応募しただけなのに 何故かその超難関を突破する 凪さん、映司さん、謙人さん、 トオルさん、ジャスティン イケメンでエリートで華麗なる超一流の人々 でも、なんか、なんだか、息苦しい~~ イケメンエリート軍団の鳥かごの中に 私、飼われてしまったみたい… 「俺がお前に極上の恋愛を教えてやる 他の奴とか? そんなの無視すればいいんだよ」

出逢いがしらに恋をして 〜一目惚れした超イケメンが今日から上司になりました〜

泉南佳那
恋愛
高橋ひよりは25歳の会社員。 ある朝、遅刻寸前で乗った会社のエレベーターで見知らぬ男性とふたりになる。 モデルと見まごうほど超美形のその人は、その日、本社から移動してきた ひよりの上司だった。 彼、宮沢ジュリアーノは29歳。日伊ハーフの気鋭のプロジェクト・マネージャー。 彼に一目惚れしたひよりだが、彼には本社重役の娘で会社で一番の美人、鈴木亜矢美の花婿候補との噂が……

冷酷社長に甘く優しい糖分を。

氷萌
恋愛
センター街に位置する高層オフィスビル。 【リーベンビルズ】 そこは 一般庶民にはわからない 高級クラスの人々が生活する、まさに異世界。 リーベンビルズ経営:冷酷社長 【柴永 サクマ】‐Sakuma Shibanaga- 「やるなら文句・質問は受け付けない。  イヤなら今すぐ辞めろ」 × 社長アシスタント兼雑用 【木瀬 イトカ】-Itoka Kise- 「やります!黙ってやりますよ!  やりゃぁいいんでしょッ」 様々な出来事が起こる毎日に 飛び込んだ彼女に待ち受けるものは 夢か現実か…地獄なのか。

腹黒上司が実は激甘だった件について。

あさの紅茶
恋愛
私の上司、坪内さん。 彼はヤバいです。 サラサラヘアに甘いマスクで笑った顔はまさに王子様。 まわりからキャーキャー言われてるけど、仕事中の彼は腹黒悪魔だよ。 本当に厳しいんだから。 ことごとく女子を振って泣かせてきたくせに、ここにきて何故か私のことを好きだと言う。 マジで? 意味不明なんだけど。 めっちゃ意地悪なのに、かいま見える優しさにいつしか胸がぎゅっとなってしまうようになった。 素直に甘えたいとさえ思った。 だけど、私はその想いに応えられないよ。 どうしたらいいかわからない…。 ********** この作品は、他のサイトにも掲載しています。

イケメン社長と私が結婚!?初めての『気持ちイイ』を体に教え込まれる!?

すずなり。
恋愛
ある日、彼氏が自分の住んでるアパートを引き払い、勝手に『同棲』を求めてきた。 「お前が働いてるんだから俺は家にいる。」 家事をするわけでもなく、食費をくれるわけでもなく・・・デートもしない。 「私は母親じゃない・・・!」 そう言って家を飛び出した。 夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。 「何があった?送ってく。」 それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。 「俺と・・・結婚してほしい。」 「!?」 突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。 かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。 そんな彼に、私は想いを返したい。 「俺に・・・全てを見せて。」 苦手意識の強かった『営み』。 彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。 「いあぁぁぁっ・・!!」 「感じやすいんだな・・・。」 ※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。 ※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。 ※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。 ※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。 それではお楽しみください。すずなり。

隠れ御曹司の愛に絡めとられて

海棠桔梗
恋愛
目が覚めたら、名前が何だったかさっぱり覚えていない男とベッドを共にしていた―― 彼氏に浮気されて更になぜか自分の方が振られて「もう男なんていらない!」って思ってた矢先、強引に参加させられた合コンで出会った、やたら綺麗な顔の男。 古い雑居ビルの一室に住んでるくせに、持ってる腕時計は超高級品。 仕事は飲食店勤務――って、もしかしてホスト!? チャラい男はお断り! けれども彼の作る料理はどれも絶品で…… 超大手商社 秘書課勤務 野村 亜矢(のむら あや) 29歳 特技:迷子   × 飲食店勤務(ホスト?) 名も知らぬ男 24歳 特技:家事? 「方向音痴・家事音痴の女」は「チャラいけれど家事は完璧な男」の愛に絡め取られて もう逃げられない――

恋に異例はつきもので ~会社一の鬼部長は初心でキュートな部下を溺愛したい~

泉南佳那
恋愛
「よっしゃー」が口癖の 元気いっぱい営業部員、辻本花梨27歳  ×  敏腕だけど冷徹と噂されている 俺様部長 木沢彰吾34歳  ある朝、花梨が出社すると  異動の辞令が張り出されていた。  異動先は木沢部長率いる 〝ブランディング戦略部〟    なんでこんな時期に……  あまりの〝異例〟の辞令に  戸惑いを隠せない花梨。  しかも、担当するように言われた会社はなんと、元カレが社長を務める玩具会社だった!  花梨の前途多難な日々が、今始まる…… *** 元気いっぱい、はりきりガール花梨と ツンデレ部長木沢の年の差超パワフル・ラブ・ストーリーです。

【R18】エリートビジネスマンの裏の顔

白波瀬 綾音
恋愛
御社のエース、危険人物すぎます​─​──​。 私、高瀬緋莉(27)は、思いを寄せていた業界最大手の同業他社勤務のエリート営業マン檜垣瑤太(30)に執着され、軟禁されてしまう。 同じチームの後輩、石橋蓮(25)が異変に気付くが…… この生活に果たして救いはあるのか。 ※サムネにAI生成画像を使用しています

処理中です...