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第三章 掴んだ手を放すことは、許されないでしょう。

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 静かな車内の気まずさに心臓が高鳴り、プレゼンすることへの緊張も倍増している。隣では五十嵐社長が無言で車を走らせている。黒の無地のティシャツとグレーの薄いチェックの入ったジャケットに、セットのズボン姿がよく似合っている。車が凹凸を感知するたびに、チラチラと腕時計が覗いている。今更だけれど、五十嵐社長はお洒落が好きだ。

 今日行くのは郊外にあるエステサロンで、十店舗を経営している船越社長に会いに行くため。倉科さんに聞いた話によれば、何度か五十嵐社長がお会いしている社長さんらしい。だったら私がわざわざ話に行く意味があるのかなんて思ったけれど口にはしなかった。それでも胸がざわつくのは、五十嵐社長の表情が嬉しそうには見えないから。


 到着したのは東京とは思えない田舎だった。華やかでもないこの場所でエステサロンとは、儲かるのだろうかと不安になるくらいに。

「船越社長はここからエステサロンを始めた。地域密着型のサロンで、地域に合わせた経営をしたお陰で今では十店舗に増えている」

「そうなんですね」

「あと・・・俺が世話にもなった」

「それは、一体どのような?」

 直ぐに返事が無くて、駐車場に止まったままの車内で五十嵐社長を見る。

「学生だった頃。俺が作った化粧品を唯一使って貰った。その恩がある」

「それならば、今回も快く受けてくださるのではないでしょうか?」

「・・・」

 それならいいじゃないかと思うのに、五十嵐社長の表情は「そうだ」とは言っていない。なんだと言うのだ。肝心なことを言ってくれないから、私には分からないことが多過ぎる。五十嵐社長が何も言わずにドアを開けて車を降りるを見て、慌てて鞄を掴んで追いかけた。


「五十嵐くん。待っていたわ」

「船越社長。お時間を作ってくださりありがとうございます」

「五十嵐くんに言われたら、私は断れないに決まっているでしょう?」

 エステサロンのドアを開けるなり五十嵐社長の腕に絡みついたのは、五十代くらいの派手な女性だった。二木専務とは違い、髪をぐるんぐるんで派手にセットした女性は赤い花柄のロングスカートを穿いている。この人が船越社長だとしたら、この態度は可愛い息子への態度とイコールなのだろうか。後ろに続いた私には目もくれずに、サロンのカウンセリングルームまでべったりとくっついたまま移動して行く。

「船越社長。うちの営業の伊藤です」

 カウンセリングのソファは小さめの三人掛けと、一人掛けのものが置かれていた。恐らく一人掛けにスタッフが座るのだろうが、今は私が座っている。なぜなら船越社長と五十嵐社長がそちらに座っているからだ。

「初めまして。船越社長。伊藤と申します」

「どぅも」

 あからさまに違う態度に、顔面は笑顔のままで心の中では盛大に驚いていた。これは可愛い息子に対する態度なんかではない。明らかに五十嵐社長を”男”として見ている。五十嵐社長の顔を見れば、笑顔の奥に困惑が見て取れる。さっきの微妙な雰囲気はこういうことかと納得するしかない。

「さっそくお話させていただいてもよろしいでしょうか?」

「ええ。どぅぞ」

 にこやかに資料の説明をする私と、視線を五十嵐社長に向けたまま適当な相槌を打つ船越社長。そしてマネキンのように偽物の笑顔を張り付けたままの五十嵐社長で、このカウンセリングルームはカオスです。カオス注意報です! 現場からは以上です。

「それでぇ、このIGB-01は五十嵐くんの細胞から出来ているの?」

「ええ、そうですが・・・。元の細胞は五十嵐から取っておりますが、あくまで元は・・そうというだけです。実際の商品は細胞の成長因子部分だけを掬い取ったものなので、細胞自体が入っているわけではありません」

「あら、そぅお」

 五十嵐社長の腕に押し付けられた胸元は、この寒い秋空なのに多めの露出がされている。「そのようなことをしても、五十嵐社長の心は射止められないと思います」と言ってあげたいくらいだ。あ、射止められないけれどダメージは大いに与えている様子。どうにか救って差し上げるべきなのだろうが・・・。

 私のことなんて見ていないのは分かっているから、あたりをきょろきょろと見まわしてみる。ここで商品説明をするために、サロンで取り扱っている化粧品もズラリと並んでいる。酒粕や麹を使った変わり種パックに、健康保持食品として甘酒も置いてある。

「船越社長・・・失礼を申し上げたら謝ります。___日本酒がお好きですか?」

 恐る恐る言った私を船越社長は初めてちゃんと見てくれた。しっかりと塗られたマスカラで強調された目が、大きく開かれている。

「ええ。好きよ。どうして?」

「こちらに置かれている化粧品、そしてあちらに異色を放つ日本酒があります」

 私が五本指で指した方向には、三種類の日本酒が飲み比べセットとして置かれていた。三〇〇ミリリットルずつの可愛い瓶を、透明な袋と綺麗なリボンでラッピングされている。まるで酒屋か土産物売店さながら。

「あ、ははは。そう。好意にしていただいている酒蔵の商品をうちでも販売しているの」

 そう言って笑った船越社長は思ったより悪い人ではない気がした。地域密着型でやってきたからこそ、義理人情に厚い人なのかもしれない。

「実は私も日本酒が好きでして。もちろん船越社長の足元にも及ばないかと思いますが、初めて美味しい日本酒に出会ったときの衝撃は忘れられません」

「そうよね。若い子は飲み放題の日本酒しか知らずに、不味いとほざくわ。とんでもないわ。日本酒と一口に言っても、味も作り方も多種多様で試せば好みのものが必ず見つかるわ」

「はい。私も福島のあるお酒をいただいたときに、フルーティで飲みやすさに驚きました。純米大吟醸だから美味しいわけでもなく、精米歩合や温度でも表情を変える日本酒の魅力は語り切れません」

 船越社長の私を見る目が変わっていくのが分かる。徐々に上がる船越社長の口角に、私もつられて口角が上がっていた。

「五十嵐くんの唯一の欠点は日本酒に疎いこと。伊藤さんならそれを補うことが出来そうね。___気に入ったわ。今度の五十嵐くんとの食事会に伊藤さんも招待するわ」

 船越社長に捕まったまま俯き加減だった五十嵐社長が、視線を私に向けた。その目は生気を取り戻したように見える。

「ありがとうございます。私のお気に入りの一本を持参させていただきます」

「ええ。楽しみにしているわ。あと、IGB-01も楽しみにしているわ」

「え・・・?」

「始めから決めていたわよ。五十嵐くんの腕は信用しているの。そうね・・・五十袋入りで一ケースなら、それを三ついただくわ」

「ありがとうござ「十店舗全部にね」

 船越社長はにこりと私に笑いかけた。言葉の意味を理解したとき、弾かれたように五十嵐社長を見れば困ったように笑う凛とした瞳と目が合った。

 この胸のざわつきを隠すことは、もう難しいだろう。

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