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第二章 ガタガタの階段は、しがみついて泥臭く登れば良いでしょう。

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「こちらが営業先のリストです」

 会議室の白いテーブルを滑るように渡された紙に視線を落とす。そこに羅列されていたのはフェイシャルサロンや美容クリニックの名前だった。名前だけでなく資本金や店舗数、創立年月日なども載っている。

「えっと・・・ドラッグストアとかじゃないんですか?」

 下から見上げるように倉科さんを見れば、呆れたような視線が返ってくる。

「うちの美容液はいくらですか?」

「千五百円です」

「ええ。一回分が、ですね」

「・・・」

「それが店頭に並ぶとして、小売店側が例えばわかりやすく五百円乗せたら二千円です。一回分が、です。一週間で一万四千円。ひと月が三十日間だとしたら六万円です。ドラッグストアに置かれていたとして、貴女は買いますか?」

「・・・」

 ぐうの音も出ない。確かにドラッグストアで買う化粧品なら、化粧水でも二千円くらいまでが妥当だ。もちろん、一本だ。一回分ではない。しかも有名なメーカーのものでもなければ尚更だ。美容液ともなればもう少し高くても買うけれど、それでもIGバイオの金額設定では庶民に手は出せない。

「では、デパートのコスメ売り場では?」

 そう言われて五十嵐社長と言ったショップが浮かんだので、ぱっぱと頭の中で払い消して置く。確かにデパートならもう少し高くても買うかもしれないけれど、それでも二万円が限度だろう。「無理です」と両手を上げて大げさに首を振って見せた。気分は海外ドラマの演技派女優。

「うちの美容液は一回分ずつ個梱包をしています。一回ずつの量が一定で、ロスもないようにするためです。つまりは日常的に家庭で使うものではなく、エステサロンなどで効果を高めて使う業務用ということです。洗剤だって市販のものより清掃業者が使うもののほうが濃度も高くて効果があります。つまりはそういうことです」

「なるほど」

 わかりやすい説明に、未だ女優気分のまま音を立てずに手を叩く真似をする。もちろん睨まれたが、それにもジェスチャーで返しておいた。改めて視線を紙に落とせば、エステサロンや美容クリニックでも規模が全然違うのがわかる。私でも知っている超大手から、一店舗のみの駆け出し店もある。営業に対しては超消極的な私の答えはひとつだ。

「じゃあ、ここ「ここだ」

 私が指差したのと同時に、後ろから伸びて来た長い指が違う場所を指した。漂う色香でわかってしまうのは変態チックだけれど、わかってしまうからしょうがない。会議に参加していなかったはずの五十嵐社長が指したのは、エステサロンでも美容クリニックでもなかった。

「株式会社二木にき?」

「化粧品会社だ」

「え? 今、倉科さんからエステサロンや美容クリニックがいいと聞いたところなんですけど」

「NIKIだ。聞いたことあるだろう?」

「に、き。・・・NIKI! わかります。私の愛用マスカラ、そこです! 伸びが良くて、塗り心地がいいんですよね。ブラシの形状なのかな・・・。兎に角、お気に入りで学生時代から使っているやつです」

「そこだ。NIKIは自社ブランドの基礎化粧品を使ってエステサロンも経営している」

「ほお、初耳です」

「お前は世間知らずだから、そうだろうな」

 一言余計な五十嵐社長を睨めば、何時ものむかつく笑みではなく真面目な表情をしていたから口をつぐんだ。五十嵐社長の仕事モードである。このときだけは頼りになって、ちょっと素敵に見える気がする。

「お前ならどんなアプローチをする?」

「えっと・・・フェイシャルエステに追加すれば、シワや色素沈着などに効果があります。とかですかね?」

「お前なら、買うか? 業務用だから、じゃあお試しでひとつだけ・・・なんてことはありえない。ひとケース五十袋入りを五つ、とかそういう世界だぞ。無名の会社が営業に来て、買うか?」

「確かに、信用がないので買いません。安くもないですし・・・」

「もちろんだ。高品質なものを厳選し、全てを検品してから出す。培養に日数もかかるし、全て手作業で人件費もかかる。金額をさげることは不可能。ある程度の使用効果のデータは取れているが、それだけでは弱い」

「はい・・・」

 自信のない小さな声で返せば、腕組みをしてこちらを見下ろしていた五十嵐社長が短く息を吐いた。

「宿題だ。お前が営業するんだ。お前が考えてお前の言葉で、自信をもって売り込みに行くんだ。用意された言葉を言うだけでは、何も伝わらん」

 なんだか泣きたくなる。それが出来ないから挫折したタヌキになっているのだ。さっきまでの女優気分はすっかりとどこかへ行ってしまって、今はただの伊藤日和三十歳独身である。

「答えは後で聞く。ついてこい」

 肩身狭く縮んでいた私に顎で「ついてこい」と示してから、五十嵐社長は会議室を出てしまった。心は落ち込んでいるし、今は五十嵐社長の言葉に言い返せる気力も無い。重い腰を持ち上げて会議室を後にした。


 五十嵐社長が待っていたのは受付の横だった。じりじりと近付いてみれば、五十嵐社長の足元に体重計が用意されていた。

「今日で一週間だ。途中経過を見せろ」

 どうせ許してくれないから、無言で頷いてからパンプスを脱ぐ。先にトイレに行って少しでも体重を減らしたいだとか、そんなこと言える雰囲気ではない。気持ちは雲のようにふわりと体重計に乗ってみたが、ガシャンと体重計が鳴いたので私が雲になりきれなかったことを悟る。あのキス事件から四日間、ジムには通っていたけれど体重には気を配っていなかった。

 視線を彷徨わせていた私の正面に立った五十嵐社長は、私の足元を一瞥してから見下ろしてくる。もちろん目を合わせる勇気なんてなくて、五十嵐社長のシャツの胸元ボタンを見つめた。

 五十嵐社長の両手が、おろしたままの私の髪に触れた。せっかくサラサラだからとか、顔の大きさを隠したいからという理由でおろしていたがそれがいけなかったのだろうか。肩口に感じる体温に、ちらりと視線を上げれば綺麗な黒目と目が合う。

「合格だ」

 そう言ってほほ笑んだ五十嵐社長の笑みは優しかった。胸のあたりからざわざわと登ってくる熱に、ブルリと肩が揺れる。弾かれたように視線を体重計にやれば65.3の表示。ここ数年の中でも最小値だ。

「私生活を正すだけでこんなにも結果がついてくる。どれだけ堕落した生活をしていたか分かるか?」

「分かっていましたよ。きっかけがなかっただけです」

 さっきまでの落ち込んだ気分が高揚していくのが分かる。勝手に持ち上がる口角を引き締めようとすればするほど、気持ちの悪い笑顔を作ってしまう。再び五十嵐社長の手が伸びてきて、私の頬のあたりの髪を梳くように持ち上げる。

「フェイスラインが全然違う。手足のむくみも落ち着いてきたな」

 急にそんなこと言われれば、照れを通り越して走り出したい気持ちになる。喜びに下唇を噛めば、五十嵐社長はどこかに行ってしまった。今はそんなことよりも褒められたことを、足を踏み鳴らして噛みしめる。

「これを今日から使え」

 いつの間にか戻っていた五十嵐社長の手には、白い箱が握られていた。二十センチ四方の箱には“IGB‐01”と書かれている。

「これは?」

「お前がこれから売っていく商品だ」

 手渡された箱を開ければ、黒いパッケージの試供品みたいな小袋がぎっしりと詰まっている。

「毎日化粧水の後に使用するように」

「ありがとうございます」

「七万五千円だ」

「___え?」

「原価で七万五千円。本来買うならば余裕で十万は超えるだろうな」

「・・・」

「実感しろよ。それがどれだけのものか」

 去っていった五十嵐社長の背中を見ながら、なんとも言えない気持ちになった。

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