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8.繋ぐ罪/ふたり

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「ごめん、もっかい言って」

 響は甘えるように耳を寄せてくる。
 俺に“貞操”を求めて。

「……っ、うぁ」

 心臓が無駄にバクバクし始める。

 ──何を動揺しているのだ。

 俺は彼の辞書。
 純真無垢なその頭に、“貞操”の正しい読み方を叩き込まなくてはならない。
 辞書として。あくまで辞書として、だ。
 どうせやるなら何もかも割り切ってやるしかないのだ。

「て、い、そ、う!」

 その四文字を口にした途端、猛烈な疲労感が体を重くさせた。
 まさか、彼の耳に向かって貞操を叫ぶ日がくるとは思わなかった。

「ていそー?」

 だが、俺の達成感に対して響はポカンとしている。そう、彼は“貞操”の意味も知らないのだ。
 無知とは時に残酷である。

「……なっ、……なん、て、いうか……その……」

 俺が、響に、貞操を──。
 分かりやすく、貞操を、教える──。

 無理だ。
 できない。

 できっこない!

「ああっ! 分かった。これって貞子の“貞”だ!」
「は?」
「井戸から出てくるやつ!」
「……はぁ」

 なにが分かったというのか。

「そっか、ありがとねー!」

 問題はまったく解決していないのに、彼は一人で納得し、難読字だらけの世界へと戻って行く。
 体中がのぼせあがった辞書男だけが、現実に放り出される。

 心の中で、俺は激しく身悶えた。
 恥ずかしい。
 どうにもこうにも恥ずかしい。
 頭を抱え、髪をかきむしり、叫びながら地団駄を踏む妄想。
 きっと、いかがわしい単語に線や印を付けられる辞書は、こんな気持ちなのだろう。

 こんなの──。
 生殺しにされているのと同じだ。


「あっ!」

 彼がまた声をあげる。さらに嫌な予感。
 ビクッとおびえる俺にはまったく気づかず、響は真面目な生徒よろしくハキハキと質問する。

「龍広先生、こっちはなんですか?」

 指の先には、“愛撫”の文字。

「……っぐ」

 ある意味、さっきのより酷い。

 およんでいる。
 完全に、およんでいる。
 “貞操”を破り、事におよんでるじゃないか。

「……ぁ、っい、ぶぅう……!」

 その返答は、ほとんど泣き声みたくなってしまった。

か!」

 当然のごとく、“意味は?”と目配せしてくる。
 俺の頭の中の理性が悲鳴をあげた。これ以上ドギマギすると逆にあやしまれるぞと警告する。いつもの自分に戻るのだと叫んでいる。

「……っや、やさしくなでるって、こと、だ」

 あくまで冷静に、なるべく淡白に答えた。

「そっか。“なでる”か! ありがと」

 さっきからなんなんだ。
 冷や汗が出てしょうがない。

 貞操とか愛撫とかそんな単語が出てくる作品なんて、卑猥だ。絶対に卑猥だ。
 俺の隣で響がそんな卑猥小説を読んでいる、なんて。


 ──我慢、できない。

 
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