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第40話 アネモネ・アネシア

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 この世に神などいない。
 この世は、地獄だ。

「……」

 特別製の荷馬車に揺られながら、わたしは鉄格子の向こうに広がる光景、穂麦をぼんやり眺めていた。

「ゴホッ、ゴホッ……」

 動く牢獄――ここにはわたし同様、生きたまま殺された人間がゴミのように詰め込まれ、虫のように蠢いている。

「どこに……行くんだろう」

 誰かが不安気に呟いた声に、誰かが答える。

「どこでも……一緒だよ」

 全くもって、その通りだと思った。
 わたしたちは何処にいても、何処に行ったとしても、奴隷以下の虫でしかない。

「うぅ……」

 鉄格子に身体を預けるようにして、わたしは立ち上がる。見上げる空は嘘みたいに蒼くて、とても綺麗で、心が痛かった。

 綺麗な空がわたしを見下ろすたび、あの日、あの時、泣いていた弟の顔が脳裏をよぎる。その都度、わたしの小さな胸は張り裂けそうになる。

 わたしが父親と呼んだ男に売られた日、あの日も、今日のこの空のように、見上げる空は嘘みたいにとても美しかった。

 ――アネモネ・アネシア。15歳。

 わたしは貧しい村の農民家系の長女として、この世に生を受けた。
 けれど、それはわたしにとって不幸のはじまりでしかなかった。

 元々貧しかったアネシア家は、男の子を欲していた。働き手が欲しかったのだ――が、生まれたのはろくに働き手にならないわたし。両親の落胆は、それはそれはとてつもなかったと思う。聞かなくてもわかる。哀しいほどに分かってしまう。

 しかし、そんなアネシア家にもついに待望の男の子が誕生する。玉のように美しく可愛らしい男の子。わたしが8歳の時だ。
 そこから奇跡が起きたように、アネシア家は子宝に恵まれる。立て続けに次男、三男と生まれた。

 わたしは弟たちの誕生をとても喜んだし、心の底から可愛がった。
 だけど、両親は違った。
 あれほど欲しがっていた働き手、男の子が三人も生まれたというのに、両親は浮かない顔をしていた。

 当時はどうして……?
 不思議に思っていた。
 幼すぎたのだ。

 それはある冬の日のこと。
 とても寒い夜のことだ。
 わたしは空腹で中々寝付けずにいた。
 食卓には蝋燭の火が灯っており、両親はまだ起きているのかな? そう思って扉に近づいた。扉の向こう側から母のすすり泣く声が聞こえてきた。

「もう、限界……よ。このままだったら、みんな死んでしまうわよ!」
「わかってる、わかってるから。とにかく落ち着いて」
「落ち着け!? こんな状況で落ち着いてなんていられないわよ!」

 この時のわたしは知らなかったけど、領主が税を大幅に引き上げたらしい。
 今年の夏は不作で、ただてさえ厳しい冬だと村の人たちが話しているのを聞いていた。
 それに加え、この年は不運が重なった。
 主食であるジャガイモが収穫できなくなってしまったのだ。
 ジャガイモに流行った病気。
 これが世に言う《ジャガイモ飢饉》である。

 噂では、このジャガイモ飢饉によって農民の半数が亡くなったという。
 さらに不幸は続き。
 朝、小さかった一番下の弟が冷たくなったまま、目を覚まさなかったのだ。
 まだ1歳半だった。

 父はなんとか金を作るから、しばらく待っていてくれと言い残し、大きな街へと出かけた。
 翌日、父は商人と名乗る男を連れて帰ってきた。長身痩躯の髭の男だ。

 男はわたしを見て、「ガキか」と冷たく吐き捨てる。続いて上着の内ポケットからお金を取り出すと、乾燥した指を舌で湿らせ手際よく数える。

 わたしはこの時点ですごく嫌な予感がして、母の背に隠れ、ギュッと手を握りしめた。
 ――お願い、わたしを離さないで、ママ。
 けれど、母はわたしの手を振り解いた。男が数える札束に鼻息を荒くしていたのだ。

「10万だな」
「――待ってくれ、それはいくらなんでも安すぎるだろ!」
「こ、この娘、まだ処女なんですよ!」
「女は安い。特にガキはな。力仕事ができねぇ上に、あっちの方も下手くそだ。仕込むのに時間が掛かるから、買い取り手が少ねぇ。その上、ガキと女はすぐに死ぬ」
「だけど、その、そういうのが好きな……へ、変態には高く売れるって話を聞きました!」
「たしかにな。だけど、その変態を探す手間を考えると、やはりこれが妥当だ」

 黙り込む両親が、悪魔のような眼でわたしを見つめる。
 お願い、そんな顔でわたしを見ないで。

「ママ……? お姉ちゃんどうかしたの?」
「お、奥に引っ込んでなさい!」
「お、お姉ちゃんは……幸せになるために、遠くに行くのよ」

 震える声で嘘八百を並べる両親に、「わたし、何処にも行きたくない!」張り裂けそうな声で叫んだ。

 幼いながらにわたしの異変に気がついた弟が、駆け寄り、抱きついてくる。わたしを守ろうと泣き叫び、必死にしがみつく弟を両親は力尽くで引き離した。

「お、お姉ちゃん! お姉ちゃん―――!!」
「だ、大丈夫だからっ! お姉ちゃんは大丈夫だから!」

 この日、わたしはわずか10万ギルで奴隷商人に売り飛ばされた。
 嘘みたく、晴れ渡った日のことだ。

 それから三年の月日が流れ、わたしは変態の玩具になり、汚され、両腕を失った。
 そしてまた、わたしは売り飛ばされた。
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