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占司殿の朱二
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十年前。祓い一の実力と美貌を持つという柚木が消えた年。そして、繰吟の兄、玲(れい)が崩御した年だった。同時に妹だった繰吟がその座を継いだ年だ。
「なるほど」
舞扇の声は何の感情も伝わらなかった。
「それだけではない。繰吟。恐ろしいことが起こったぞ。神の気配が、一つ消えた」
朱は自分の言葉に顔をゆがめる。今度は、役人たちはざわめきはしなかった。あまりの大事に、信じられるまで時間が掛かったのだ。
「なっ」
誰かが、息を呑んだ。それをきっかけに、波紋が動揺が広がる。矢継ぎ早の質問が飛んだ。
「神が死んだのはどこだ! まさか桜沙(おうさ)ではあるまいな。あそこには妹が……」
「常黄泉の地の規模は?」
「ええい、黙れい!」
子供独特の高く通る声が響いた。
「落ち着け。神が消えたのは葦穂(あしほ)の奥じゃ。都に影響はない」
一応の安堵が空気に流れた。
「だが神が消えるなど、あってよいことではない。おそらく八百万(やおよろず)の神々も、同胞の一人が消えたのを感じ取っているかも知れぬ。そうならばもっと恐ろしいことがおこるぞ」
自身の不安をやわらげようと朱は魁の背をなでる。
「都を守るために、結界を張ろうと思う。占司殿を中心に。人は通れるが、荒ぶる神は通れないようなものを」
しばらく黙っていた帝が口を開いた。
「消えた神の近くに、巫女は?」
「それが……」
帝の質問に、朱は口ごもった。
「ここにいる者は皆、口が堅い。それに、私が信頼している物ばかりだ。言うがいい」
「鹿子がいる。気配が消えたと言ったが…… 自然に消えたのではない、消されたのだ。神が、斬られた」
さわさわと、庭に植えられた木の葉ずれが聞こえた。生まれた静寂を破ったのは、操吟だった。
「わかった。なんとかしなければなるまいな」
その言葉を聴きながら、朱は開いたままの戸口から外を見やった。空の青さに眩しいほどの鮮やかな緑の山。その山はまるまる一つ、前の帝、玲帝の墓だった。たしか異変が起こったのはこちらの方向だったはず。朱の視線に誘われるように、冷たい風が吹き込んできた。
ざわり、とその風に朱は鳥肌を立てた。ふと、耳の辺りに誰かの手が見えた。目隠しをする途中のように伸ばされた手。その腕がまとっている袖は、優美な紫色だ。帝でしか身につけることができぬ色。
朱が瞬きをした。刹那、紫色の袖は消える。後を振り向いても、誰もいない。この部屋で唯一その色を身につけられる繰吟は御簾の中にいる。
朱は首を軽く振る。疲れているときと占いをした後、妙な影を見ることはよくあることだ。陰風も、もう止んでいた。
突然魁が鳴いた。敵を威嚇するように低くうなる声をあげる。さすがにこれはまずいと朱は慌てた。
「こ、これ、どうしたのじゃ魁。普段頼んでも鳴いてくれないというに。ええい、黙れ! 帝の御前じゃぞ」
見た目は童女の朱がおろおろと魁の口をふさごうとする姿に、役人達は思わず暖かい笑みを浮かべた。
御簾の中で舞扇が帝に頭を下げる。
「もうしわけありません、繰吟帝」
別に魁が鳴いたからといって舞扇が謝らなければならない理由はないのだが、生真面目な彼は犬の無礼も自分の物と受け取っているようだった。
「舞扇、お前だけに訊くが」
「はい」
「さっき、すぐ背後から人の声が聞こえなかったか?」
舞扇は思わず振り返る。しかしそこには木の壁しかない。
「音が反響したんでしょうか?」
「まさか。それならば私がそうと気づく。いや、なんでもない。気のせいだろう」
そう、それは帝がいるこの部屋で聞こえるはずのない、聞こえてはいけない言葉だった。
『祟ル』
この繰吟を、治める国を呪う恨みの言葉など。
「なるほど」
舞扇の声は何の感情も伝わらなかった。
「それだけではない。繰吟。恐ろしいことが起こったぞ。神の気配が、一つ消えた」
朱は自分の言葉に顔をゆがめる。今度は、役人たちはざわめきはしなかった。あまりの大事に、信じられるまで時間が掛かったのだ。
「なっ」
誰かが、息を呑んだ。それをきっかけに、波紋が動揺が広がる。矢継ぎ早の質問が飛んだ。
「神が死んだのはどこだ! まさか桜沙(おうさ)ではあるまいな。あそこには妹が……」
「常黄泉の地の規模は?」
「ええい、黙れい!」
子供独特の高く通る声が響いた。
「落ち着け。神が消えたのは葦穂(あしほ)の奥じゃ。都に影響はない」
一応の安堵が空気に流れた。
「だが神が消えるなど、あってよいことではない。おそらく八百万(やおよろず)の神々も、同胞の一人が消えたのを感じ取っているかも知れぬ。そうならばもっと恐ろしいことがおこるぞ」
自身の不安をやわらげようと朱は魁の背をなでる。
「都を守るために、結界を張ろうと思う。占司殿を中心に。人は通れるが、荒ぶる神は通れないようなものを」
しばらく黙っていた帝が口を開いた。
「消えた神の近くに、巫女は?」
「それが……」
帝の質問に、朱は口ごもった。
「ここにいる者は皆、口が堅い。それに、私が信頼している物ばかりだ。言うがいい」
「鹿子がいる。気配が消えたと言ったが…… 自然に消えたのではない、消されたのだ。神が、斬られた」
さわさわと、庭に植えられた木の葉ずれが聞こえた。生まれた静寂を破ったのは、操吟だった。
「わかった。なんとかしなければなるまいな」
その言葉を聴きながら、朱は開いたままの戸口から外を見やった。空の青さに眩しいほどの鮮やかな緑の山。その山はまるまる一つ、前の帝、玲帝の墓だった。たしか異変が起こったのはこちらの方向だったはず。朱の視線に誘われるように、冷たい風が吹き込んできた。
ざわり、とその風に朱は鳥肌を立てた。ふと、耳の辺りに誰かの手が見えた。目隠しをする途中のように伸ばされた手。その腕がまとっている袖は、優美な紫色だ。帝でしか身につけることができぬ色。
朱が瞬きをした。刹那、紫色の袖は消える。後を振り向いても、誰もいない。この部屋で唯一その色を身につけられる繰吟は御簾の中にいる。
朱は首を軽く振る。疲れているときと占いをした後、妙な影を見ることはよくあることだ。陰風も、もう止んでいた。
突然魁が鳴いた。敵を威嚇するように低くうなる声をあげる。さすがにこれはまずいと朱は慌てた。
「こ、これ、どうしたのじゃ魁。普段頼んでも鳴いてくれないというに。ええい、黙れ! 帝の御前じゃぞ」
見た目は童女の朱がおろおろと魁の口をふさごうとする姿に、役人達は思わず暖かい笑みを浮かべた。
御簾の中で舞扇が帝に頭を下げる。
「もうしわけありません、繰吟帝」
別に魁が鳴いたからといって舞扇が謝らなければならない理由はないのだが、生真面目な彼は犬の無礼も自分の物と受け取っているようだった。
「舞扇、お前だけに訊くが」
「はい」
「さっき、すぐ背後から人の声が聞こえなかったか?」
舞扇は思わず振り返る。しかしそこには木の壁しかない。
「音が反響したんでしょうか?」
「まさか。それならば私がそうと気づく。いや、なんでもない。気のせいだろう」
そう、それは帝がいるこの部屋で聞こえるはずのない、聞こえてはいけない言葉だった。
『祟ル』
この繰吟を、治める国を呪う恨みの言葉など。
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