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最後の一時間
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この駅のホームには私と俊しかいない。何もなければ、今日この電車に乗るのは今の所、俊だけだからである。
足元には白い靄がかかり、ひんやりとした空気があたりを覆っていた。空は今にも雨の降り出しそうな雲がおしくらまんじゅうをしていた。
ベンチは硬くて、普段ならすぐにお尻が痛くなるのに今日は全く気にならなかった。多分、そんな事を気にしている余裕なんてないからだろう。
「あとどれくらい?」
そう聞いてくる俊の目は、少し悲しそうで、そして少し不安そうだった。
「あと一時間だよ」
私は泣きそうになるのをぐっとこらえて答えた。
あと一時間。それは、俊が乗る電車が来るまでの時間。さっきまでまだ時間はあると思っていたのに、あっという間だ。
私と俊の間には見えない壁があるかのように、文庫本一冊くらいの距離が空いていた。それは、私も俊も相手の体に触れることができなかったからである。
いや、触れられなかったのだ。今まで何度も手をつないできた。唇を重ねることだってあった。
でも最後である今は、いや、今、この場所だからこそ触れることができずにいた。本当のことに気がついてしまうのが怖かったのだ。
「ねえ、やっぱり私も行きたい」
そう何度言っても、帰ってくる答えは同じだった。
「だめだよ。ここにいなくちゃ」
「でも、俊がいないなら、もう意味なんてないもの」
両手にぐっと力を込めて私は言うが、
「大丈夫。かのんは、大丈夫だから」
ゆっくりと俊はそういうのだった。
「残り四十七分、か」
俊は電光掲示板に書かれた数字を読み上げた。行き先も、編成も書かれていない電光掲示板は、ここが普通の駅でないことを嫌でも教えてくる。
「俺は、この結果に一つだけ後悔していないことがあるんだ」
「後悔していないこと?」
「そう。かのんのことを守れたことだよ。もう側にいられないのは悲しい。できれば、ずっと側にいたかった。でもね、俺はだめだったけれど、かのんは守れた」
「でも私は」
私の言葉を遮って俊は話を続けた。
「最後に、約束してほしいんだ」
「約束?」
「そう。この駅から出たら、俺のことは忘れること」
まるで暗闇の中に落ちるような感覚がした。
「嫌だよ。忘れられないよ。だって、愛しているんだよ」
喉の奥から声を絞り出す。
「俺も愛しているよ。大好きだよ。かのんよりも大切なものなんて、どこにもなったよ」
「じゃあ、なんで」
「幸せになってほしいんだ」
その一言でぐっと現実に戻されたようだった。
「ねえ、ここに来る前のこと、どれくらい覚えている?」
「はっきりと覚えているよ。二人で散歩していて、これから二人でたまに行くイタリアンの店でランチにしようかって話していたんだよね。それで、横断歩道を渡っていたら白い車がいきなり突っ込んできて」
「そうじゃなくって」
あの瞬間の話をし始めた俊だったが、私が言いたいのはその話じゃなかった。
「そうじゃないの?」
「一番幸せだった時のこと、覚えている?」
ああ、最後だから泣かないと決めていたのに、何度も泣きそうになってしまう。
「かのんと過ごす毎日が幸せだったよ」
その一言で涙をせき止めていた何かが壊れた。
「じゃあなんで忘れてなんて言うの?なんで幸せになってほしいなんて、他人みたいに言うの?私は俊と一緒じゃなくちゃ、幸せになんてなれないの!」
「俺だって、本当はかのんと幸せになりたかったよ。かのんを幸せにしたかったよ。でもね、できないんだもん」
俊の瞳は今にも涙が溢れそうだ。
「だからね、せめてもう俺のことを忘れて、かのんのことを幸せにしてくれる人と、これからは過ごしてほしいの」
「嫌。ねえ、嫌だよ。私、俊じゃなくちゃ嫌だよ」
「ねえ、かのん。あと三分なんだ」
電光掲示板を指差して俊は言った。
「そんな……」
一時間なんてあっという間だった。
そして、あと三分しか俊と一緒にいることができないなんて、信じられなかった。
「ねえ、かのん」
「なあに?」
「笑って」
もうこれが最後なんだ。覚悟なんてこれっぽっちもできていなかったけれど、私は涙を拭いて無理やり笑った。
「かのんはやっぱり、笑った顔が一番かわいいね。その顔、大好きだよ。俺、かのんと一緒に入られて、幸せだった。今まで、ありがと」
立ち上がる俊につられて、私も立ち上がる。
「わたしも、幸せだった」
俊は一歩私に近づく。
「愛してる」
そう言って俊の唇が私の唇に重なるが、そこに俊の唇の感触はなく、ただ、風が通り過ぎただけだった。
*****
「先生!!かのんさん、目が覚めました!!」
「かのん、かのん!!よかった!!」
そこには知らない顔がずらっと並んでいた。そして口々に「かのん」と言う。だけれども、それがなんなのか私にはわからなかった。
足元には白い靄がかかり、ひんやりとした空気があたりを覆っていた。空は今にも雨の降り出しそうな雲がおしくらまんじゅうをしていた。
ベンチは硬くて、普段ならすぐにお尻が痛くなるのに今日は全く気にならなかった。多分、そんな事を気にしている余裕なんてないからだろう。
「あとどれくらい?」
そう聞いてくる俊の目は、少し悲しそうで、そして少し不安そうだった。
「あと一時間だよ」
私は泣きそうになるのをぐっとこらえて答えた。
あと一時間。それは、俊が乗る電車が来るまでの時間。さっきまでまだ時間はあると思っていたのに、あっという間だ。
私と俊の間には見えない壁があるかのように、文庫本一冊くらいの距離が空いていた。それは、私も俊も相手の体に触れることができなかったからである。
いや、触れられなかったのだ。今まで何度も手をつないできた。唇を重ねることだってあった。
でも最後である今は、いや、今、この場所だからこそ触れることができずにいた。本当のことに気がついてしまうのが怖かったのだ。
「ねえ、やっぱり私も行きたい」
そう何度言っても、帰ってくる答えは同じだった。
「だめだよ。ここにいなくちゃ」
「でも、俊がいないなら、もう意味なんてないもの」
両手にぐっと力を込めて私は言うが、
「大丈夫。かのんは、大丈夫だから」
ゆっくりと俊はそういうのだった。
「残り四十七分、か」
俊は電光掲示板に書かれた数字を読み上げた。行き先も、編成も書かれていない電光掲示板は、ここが普通の駅でないことを嫌でも教えてくる。
「俺は、この結果に一つだけ後悔していないことがあるんだ」
「後悔していないこと?」
「そう。かのんのことを守れたことだよ。もう側にいられないのは悲しい。できれば、ずっと側にいたかった。でもね、俺はだめだったけれど、かのんは守れた」
「でも私は」
私の言葉を遮って俊は話を続けた。
「最後に、約束してほしいんだ」
「約束?」
「そう。この駅から出たら、俺のことは忘れること」
まるで暗闇の中に落ちるような感覚がした。
「嫌だよ。忘れられないよ。だって、愛しているんだよ」
喉の奥から声を絞り出す。
「俺も愛しているよ。大好きだよ。かのんよりも大切なものなんて、どこにもなったよ」
「じゃあ、なんで」
「幸せになってほしいんだ」
その一言でぐっと現実に戻されたようだった。
「ねえ、ここに来る前のこと、どれくらい覚えている?」
「はっきりと覚えているよ。二人で散歩していて、これから二人でたまに行くイタリアンの店でランチにしようかって話していたんだよね。それで、横断歩道を渡っていたら白い車がいきなり突っ込んできて」
「そうじゃなくって」
あの瞬間の話をし始めた俊だったが、私が言いたいのはその話じゃなかった。
「そうじゃないの?」
「一番幸せだった時のこと、覚えている?」
ああ、最後だから泣かないと決めていたのに、何度も泣きそうになってしまう。
「かのんと過ごす毎日が幸せだったよ」
その一言で涙をせき止めていた何かが壊れた。
「じゃあなんで忘れてなんて言うの?なんで幸せになってほしいなんて、他人みたいに言うの?私は俊と一緒じゃなくちゃ、幸せになんてなれないの!」
「俺だって、本当はかのんと幸せになりたかったよ。かのんを幸せにしたかったよ。でもね、できないんだもん」
俊の瞳は今にも涙が溢れそうだ。
「だからね、せめてもう俺のことを忘れて、かのんのことを幸せにしてくれる人と、これからは過ごしてほしいの」
「嫌。ねえ、嫌だよ。私、俊じゃなくちゃ嫌だよ」
「ねえ、かのん。あと三分なんだ」
電光掲示板を指差して俊は言った。
「そんな……」
一時間なんてあっという間だった。
そして、あと三分しか俊と一緒にいることができないなんて、信じられなかった。
「ねえ、かのん」
「なあに?」
「笑って」
もうこれが最後なんだ。覚悟なんてこれっぽっちもできていなかったけれど、私は涙を拭いて無理やり笑った。
「かのんはやっぱり、笑った顔が一番かわいいね。その顔、大好きだよ。俺、かのんと一緒に入られて、幸せだった。今まで、ありがと」
立ち上がる俊につられて、私も立ち上がる。
「わたしも、幸せだった」
俊は一歩私に近づく。
「愛してる」
そう言って俊の唇が私の唇に重なるが、そこに俊の唇の感触はなく、ただ、風が通り過ぎただけだった。
*****
「先生!!かのんさん、目が覚めました!!」
「かのん、かのん!!よかった!!」
そこには知らない顔がずらっと並んでいた。そして口々に「かのん」と言う。だけれども、それがなんなのか私にはわからなかった。
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