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六十一、悲しい姿

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翌日の一限目が古文だった。朝のホームルームが終わって、横山先生が出て行く。すぐに一限目開始のチャイム。でも先生は来ない。どうしたんだろう…。教室内は相変わらず、みんな好きなことをして騒いでいる。たっぷり五分は遅れて、やっと論理先生が来る。今朝も髪はボサボサギトギト、無精髭も伸び、顔も脂ぎってた。服はたるんだトレーナーにジャージ。薄汚れている。悲しい姿だった。
「起立!礼!」
クラス委員長の前橋晴人くんの号令で、みんながおもむろに立ち上がり、礼をする。でも座るとまたみんなざわめきだす。
「よし…。じゃあ始めていく…」
クラスの騒がしさにかき消されそうな先生の声。
「出席を取る。一番…池田文香」
「はい!」
先生に元気を出してほしくて、私はいつもより大きな声で返事をした。
「……。二番…石田達夫」
え…?先生、何も声かけてくれない。でもそれは私だけじゃなかった。先生、誰にも何も声をかけずに、出席取りを終えてしまう。
「では教科書の…百九十ページから、始める」
小さな声で無表情に教科書を開く先生。
「なぁなぁ、論理ぃ」
後ろの席から遥が声を出す。半分閉じた目で、先生は遥を見やった。
「…何だ?」
「論理、髪の毛もうおかっぱにしねぇのー?」
そう聞かれた先生が、暗鬱に顔を伏せる。
「整える気力が…ない」
「ならさー、もう切っちゃいなよ。ボサボサでみっともねぇぜ」
え…?切っちゃいなって…。遥、何を言うの⁉︎でも先生、ぼんやりとこんなことを言ってしまう。
「そうだな…。切るか」
嫌だよ先生。おかっぱは…おかっぱは…先生と私の絆だよ!整えられないなら、整えられないでいい。きっちりする気力が出たときのために、髪だけはそのままにしておこうよ。でも、遥が先生に追いうちをかけてしまう。
「約束な、論理。今日中に床屋行けよ」
「わかった」
やめて…。やめて論理先生…。私は両手で顔を覆った。おかっぱをやめた論理先生なんて、想像したくなかった。

その翌日。胸をどきどきさせて、職員室の入り口に立つ。耳たぶおかっぱをブラッシングする段階で、すでに手が汗ばんでいた。やがて智世もやってくる。
「おはよう文香」
「智世…。おはよう」
耳たぶおかっぱに入念にブラシを入れながら、智世が言う。
「論理、どうなってるかしらね」
「そう…だね…」
髪をとかし終えた智世が、ブラシをポケットにしまう。
「行きましょう、文香」
「う…うん」
ドアノブを押し開ける。室内に足を踏み入れる。先生の背中が…見えた。
「あっ…」
小さく叫ぶ私。昨日と同じ、くたびれたトレーナーとジャージ姿の先生。そしてその髪は…、青々と極端に短く刈り込まれた、丸坊主だった…。鞄を取り落とす私。
「嫌…。そんな…、嫌ぁ…」
先生…。先生の髪、そんな坊主頭にしてしまえるほど、どうでもいいものだったの?あんなに、どんなときだって、お母さんが亡くなったときだって、大事に大事におかっぱ作ってたじゃない!それなのに…、まるで服に付いたパン屑を払い落とすみたいに、きれいさっぱり落としてしまえるの?悲しい。悲しいよ!
「論理、おはよう」
「ううっ…、ぐずっ、ううう…」
泣きながら先生のもとに歩み寄る。先生が振り返った。
「あぁ、お前たちか。おはよう。…なんだ文香、泣いてるのか。どうした」
「せ、先生…ひっく、どう…して、どうして…すはああっ、切っちゃったん…ですか…ぐずっ、それも…丸坊主だ…なんて」
長さはちょっと違ったけど、先生とお揃いのおかっぱにしていられたことが嬉しかったのに。私が勝手に思ってたことだけど、おかっぱどうしでいることが、先生と私の絆だったのに…。でも先生は力なく笑ってこう答える。
「もう、整えるのが面倒でな。いちばん簡単な髪型にしてもらった」
「驚いたわ論理。おかっぱに愛着はなかったの?」
先生は首を横に振る。
「ないな。髪は、邪魔だった」
そんな!そんなっ…。私の口から、こらえきれない嗚咽が漏れた。
「嫌です!先生…、嫌ぁ…、すはあああっ、ええええええええええ…え…えええ…えんっ!すはあああっ、ええええ…えええ…えんっ!」
私はいつまでも泣いた。職員朝礼開始のチャイムが鳴って、他の先生に追い払われて職員室の外に出されても、まだ泣いていた。先生の、あまりにも潔すぎる姿が、たまらなく悲しかった。

泣きじゃくりながら教室に来る。自分の席にくずおれた。智世が寄り添ってくれる。
「ひいいっ、智世…」
乱れた息を吸い込んで、智世に言う。
「私…、ひいいっ、おかっぱにしてる意味…ひいっ、なく…なった」
「そう思うの?」
銀縁眼鏡の奥の細い瞳が、寂しげに私を見つめた。
「だって」
ぎゅっと目を閉じる私。また涙が溢れてくる。
「耳たぶおかっぱ…ひいいっ、先生の…ために、ひいいっ、してるんだもん。ひいっ、その先生が…あんな姿に…うううっ」
「そうね…」
私の震える肩に、智世がそっと手を添えてくれる。
「なら文香、髪、伸ばすの?」
「もう髪型…ひいいっ、作らない。放っとく」
「じゃあ、『耳たぶおかっぱ同盟』も解消かしら?」
「え…?」
私は顔を上げた。智世の、とても悲しそうな瞳があった。
「智世…」
そうだ…。耳たぶおかっぱ、先生との絆でもあったけれど、それより何より、智世との絆でもあったんだ!
「ごめん!ごめん智世っ」
私は智世に抱きついた。新たにまた涙が流れた。
「どうかしてた…。すはああっ、どうか…してたよ…ごめん、すはああっ、ごめんねっ、ううう、ぐずっ…ううう…」
「わかってくれればいいわ」
智世の硬い手が、私の耳たぶおかっぱをゆっくりと、温かく撫でてくれる。大切な親友を傷つけかけたことを後悔しながら、私はさらに泣いていた。

その日の夕食。今日も今日とて、母親と二人きりで食卓を囲む。母親は何も言わない。徹底的に声を出さない人だ。母親の声なんて、生まれてこのかた私は聞いたことがない。そんな母親と、おいしくない食事をする。落ち着きのないトロンとした視線を虚空に投げかける母親。
(私、この人をどう見てるんだろう)
ふとそう思う。十六年間一緒に暮らしてきたけれど、私の母親くらい存在感の希薄な母親はいないに違いない。でも、母親のことは嫌いじゃなかった。この人が私を産んでくれなかったら、今の私は当然いない。論理先生に恋する私も、当然いない。
(この人も…心を病んだ、かわいそうな人だ)
母親は、何か一つのことに集中することができない。家事も、途中でやめてしまうことが多い。やりっぱなしの家事を私が引き継いで仕上げることが多々ある。投げ出された洗濯物や、洗いかけの食器を見るたびに、こんな母親なんて、とよく思う。でも、こんな母親でも、憎めなかった。どんな母親でも、私の母親なんだ。
(どんな母親でも…。どんな先生でも…)
悲しい丸坊主姿の論理先生が思い浮かぶ。心を病んで、どんどん変わっていってしまう論理先生。
(私、先生のこと好きでい続けられるの?)
元日の吹雪の中で声と息の限りに泣き散らしながら、こんな先生なら好きじゃない、と思った。でもやっぱり、先生のこと嫌いになれない。どんな母親だって私の母親なのと同じように、どんな先生だって、たとえ心を深く病んでいたって、私の先生だ。こんな先生、と言えば、こんな先生だろう。でも、こんな先生だからこそ、やっぱり私は先生を愛するんだ。耳たぶに触れてみる。先生への、愛の証の耳たぶおかっぱが、そこにあった。
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