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五十六、パンク

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その翌日の朝。今日も早く目が覚めたので、私は耳たぶおかっぱを整え、ヴィルマワンピースを着て机に向かっていた。教科はもちろん古文。でもそうして勉強しているうち、スマホが通知を告げた。開けてみる。
『何ということだ!』
論理先生のツイートが目に飛び込んでくる。
『車に乗ろうと思ったら、前後輪四輪がすべてパンクしている!悪質な嫌がらせだ。即座に警察に届けた』
『パンク修理費用は五万円。憎悪が募る。何のためにそんな巨額な金を支払わなきゃいけない?誰だ、殺してやりたい!』
先生、車の全輪がパンク?ひどいよ、誰の仕業なの?それで五万円って…。でも「殺してやりたい」だなんて、先生大丈夫?だけど事はそこでとどまらなかった。その翌日、また先生のツイート。
『修理して付け替えたばかりのタイヤが、またパンクしていた‼︎各方面に処置をお願いする。誰だ…、卑劣だろう‼︎言いたいことがあるなら堂々と言ってこい‼︎憎すぎて目眩がしてくる』
何…?何それ⁉︎二日連続でパンクだなんて…。嫌がらせも度が過ぎてる。でも…、そうは言っても、先生のあの全力お唱題が思い出された。宗教に何の興味もない人が、近くであれを毎朝毎晩、三百回ずつも聞かされていたら、どうなるだろう。とりあえず、スマホを取り、先生にダイヤルする。コール二回で出てくれる先生。
『文香か…』
「先生…、ツイート見ました。二回連続パンクだなんて、あまりにひどいです」
『ああ…』
憎しみを腹の中でじっと保つように、先生はしばらく黙った。
「警察には届けたんですか?」
『届けた。『誰かから恨みを買っていませんか』と聞かれた』
恨みか…。それは確かにそうかもだけど。
「それで何と答えたんですか?」
『そんな覚えはないと言った』
先生…。そんな覚えはないって言うけど、恨みを買っていてもおかしくないよ。…と、そんなことを先生に言えるはずもなく。
『警察も親切だった。『パンク魔出没。警察も警戒していますが皆さんも注意してください』と書いたビラをアパート全戸に配布した。夜はパトカーを駐車場にまで巡回してくれるらしい』
「それならまだいいですね。先生が警察に届けたってことがわかりますし」
『ああ』
「修理費用は、また五万くらいしたんですか」
『今度は、タイヤの中にチューブを入れてもらって処置した。費用は四千八百円で済んだ』
タイヤにチューブを入れるという処置のしかたは、車に疎い私にはよくわからなかったけど、まずは修理費が安くすんだのはよかったと思う。
「それはよかったですね…」
『あと、駐車場も変えた。ここから百メートルくらい離れたところに、新しく契約し直した。少し不便になると思うと悔しいが』
「でもそれでパンク魔に付け狙われなくなるのなら、いいんじゃないかと思います」
『そうだな…。あ、すまん文香、キャッチ入った。法光寺からだ』
「え?お寺からですか?」
『ああ。とりあえず出てみる。それじゃあな。電話すまない』
「あ、は、はい…」
電話は、あわただしく切れてしまった。お寺から先生に電話?何の用事だろう。ベッドの上で先生からの連絡を待ってみる。一時間くらい経つと、枕元のスマホが通知を知らせた。タップしてみる。先生のツイートだ!
『悔しい…、悔しい…、悔しいっっっっ‼︎』
え?先生、どうしたの?
『寺までが俺の供養を否定する。俺の供養が霊を迷わせるという。家がその尻馬に乗る。寺も家も寄ってたかって『祭壇しまえ、唱題やめろ』の大合唱。もういい…、それなら…。全身の力が抜けた。もう疲れた』
即座に先生にダイヤルする。コール一回、二回、三回…、どうしたの先生、出てよ。七回、八回、九回…、先生っ、先生ぇっ!コール十二回、十三回、十四回。そこでやっと先生が出てくれる。
「先生っ!」
でも電話口からは何も声がしない。
「先生っ、先生っ!大丈夫ですかっ」
『…文香』
耳を澄ませてやっと聞き取れるくらいの、先生の声が答えた。
「先生っ」
『俺のしていることは、みんな中途半端で、有害無益なんだそうだ…』
「お坊さんが、そう言ったんですか」
『ああ…。寺だけは…、ううっ、わかって…くれると、ぐずっ…、思って、いたのに…。ううう…、ああ…あ…』
悔し泣きに泣く先生。
「先生…」
スマホからはしばらく、先生の泣き声だけが聞こえた。先生。誰からも、どこまでも、わかってもらえないんだね…。
「先生、どうして先生のお唱題が中途半端で、有害無益なんですか」
『霊の…立場で見ると、家の供養を受けていいのか…、俺の供養を受けていいのか、わからなく…なるらしい。何か…禍事が起こっていないかと言われたから…パンクのことを話したら…、それが…霊が迷った証拠だと…、う、うううっ…あ、あ…』
お母さんが救われるためにと、一心不乱になって祈っていた先生。その先生がしていたことが、お母さんを迷わせるだけだったなんて。それじゃあ先生、何のために家を出てきたのかわからない。
「お坊さん、祭壇をしまえというんですか」
『葬儀屋が…、お上人様と話をしたとき、俺のことをしゃべったらしい。それで…、それは…中途半端なとんでもない…ことだとなって…、俺に電話…したんだ』
「お家からも、祭壇しまえって?」
『姉まで電話してきて…そういうんだ。どこから聞きつけて…きたのか…知らないが…。『何馬鹿なことをしている、祭壇なんかしまえ、言うことを聞け!』と…一方的にまくし…立てられた…。畜生…っ、ううう…ううっ…』
先生…。せっかく今まで必死になってがんばってきたのに…。先生の信仰はわからないけれど、その悔しさはすごくわかる。先生の泣き声がスマホから流れ出るのが、あまりに悲しい。
「先生…、これからも、お祈り、続けるんですか」
『いや、もう、いい…。祭壇もしまって…、葬儀屋に返す…。お袋を…迷わせるだけだというなら…、続ける…意味がない』
「先生…」
『文香、すまない。疲れた。電話、これくらいでいいか』
「あ…。は、はい…」
『それじゃあな』
電話は切れた。ベッドに横たわったまま、スマホを握りしめる私。先生に、かけてあげる言葉が見つからない。そばにいてあげるだけでいいって智世も遥も言ってくれるけど、こんな子どもの私がそばにいて、先生のあまりに深くて大きな悲しさや悔しさが、どうにかなるというの?教えてください先生。私に何ができますか。やれということなら私、何でもします。だから先生の悲しみや悔しさが、一日も早く癒されますように…。

『そっかぁ、今日の論理のツイート、そういう意味だったのか』
『論理、信仰を土台から否定されたのね』
その夜、私は智世と遥と三人で、グループ通話をしていた。これまでの経緯を話すと、二人とも悲しげに声のトーンを落とす。
「これじゃ先生、あまりにかわいそうだよ…」
『でもね文香、あたしはこれで、却ってよかったと思うわ』
「えぇ、なんで?」
はあああっと、かわいい息継ぎが聞こえて、智世が話し出す。
『霊が迷ったとでも言われなかったら、論理、パンクさせられようが何をされようが、全力唱題続けたと思うの。誰かが論理にストップをかけなきゃいけなかった。それにはお寺が最適よ』
『そうだな。あたしもそう思うぜ』
今度は遥の、はあああっという息継ぎ。コーラのような甘いソプラノが話し出す。
『霊が迷ったとか何とかいうけど、パンクは明らかに、論理の唱題に腹立てた人間の嫌がらせだ。それをもろともせずに唱題続けるんだったら、論理、遠からず殺されるぜ。やめられて何よりだ』
「だけど…、先生の悔しさを思うと…。ご供養、続けさせてあげたかった」
『確かに、それはそうだけどなぁ…』
しばしの間、黙り込む私たち。
『ねえ文香。医学的には、論理のお唱題、強迫性障害なんでしょう?』
「うん、たぶんそうなるよね」
『ある行為をしていないと不安でしかたないのが強迫性障害だとしたら、その『ある行為』を無理やり取り上げられたら、どうなるんでしょうね』
そうだ。先生、どうなっちゃうんだろう…。
「わからない…。嫌だどうしよう、むちゃ心配になってきた…」
行き場所を失った不安が、激しく先生を襲っている様子が思い浮かんだ。先生…。
『文香、明日大晦日だろ。年末年始にかこつけて、論理の様子見に行ってやったらどうだ。そのための合鍵じゃねぇか』
「え…。で、でも、いきなり行くのはちょっと…。それにさ、この前みたいに三人で行こうよ」
『あ、それはちょっと…』
と、遥の申し訳なさそうな声。
『あたし、明日から秀馬と一緒って約束しててさぁ』
『ごめんなさい、あたしもなの。エレンがどうしてもって言うから…』
ああ、そうか。クリスマスと同じだよね。二人とも彼氏と一緒に過ごしたいんだ。
「わかった。明日、一人で行ってみるよ」
『ええ。それなら今日のうちに、ラインか何かで論理に都合を聞けばいいわ。行って、そばにいてあげるといい。文香、がんばりなさい』
智世もそう言ってくれる。私は拳を握りしめた。
「わかった。じゃあこれから先生にラインするね。いいって言ってくれたら、明日行く」

グループ通話を終えた後、私は震える指で、先生宛にラインを送った。
『先生、年末年始も、家には帰りませんよね?』
でもラインが既読にならない。え…、先生いつもならすぐに既読つけてリプライもくれるのに、どうしたの?十分待つ。十五分待つ。どうして先生…?二十分待って、やっと既読がついた。でもそれからさらに何分か経つ。そしてリプライが来た。
『ああ、帰らない』
『じゃあ私、明日先生のとこ行きます。年末年始、私と一緒に過ごしませんか?』
今度は先生、すぐにリプライ。
『別にいいが。文香、他に予定はないのか』
『ありません。大丈夫です』
『俺なんかと一緒にいても楽しくないぞ』
『先生と一緒なら十分です』
『物好きだな文香は』
会話が止まる。先生に…先生に何か声かけてあげなきゃ。
『先生…、ご無事ですか』
『残念だがご無事じゃない。はらわたが煮え繰り返っている』
先生…、やっぱり、ご供養やめさせられたこと、ショックだったんだね。
『腹が立ってしかたありませんか』
『ああ。俺を追い出した家族が憎い!』
『でも先生、ご家族のことは大切だったんでしょう?クリスマスも楽しく過ごしたものだって言ってたじゃないですか』
『何が大切なものか、あんなやつら』
真っ赤に充血した瞳をギラギラさせる先生の様子が思い浮かんだ。怖い…。でも、今の先生を支えられるのは私だけなんだ!
『先生、追い出されちゃったんですものね…。でも、愛情もかけてもらってたんじゃないですか』
『愛情?そんなものも受けていたな。でももう今となってはそんなもの関係ない!』
『先生…』
『俺の家族は、俺の怨敵だ。俺をこんなにした張本人たちだ。許してたまるか。憎んでやる。この世の果てまで行っても、憎んでやる!』
無機質な電子文字が、先生の憎しみに歪められ、踊らされているように見えた。論理先生、大切にしてた家族の悪口を、憚らずに言い尽くしてる。先生…、こんな先生、先生じゃないよ。先生はもっと温かくて優しい人だと思ってたのに。こんな一面もあるんだ…。いや、実は学校での温かくて優しい先生は嘘で、本当はこういう怖い人なのかな。論理先生。私の好きな人。だけど…、幻滅を感じてしまう。嫌だよ先生…。
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