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二十九、取り残された子ども

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明くる九月二日の朝になった。あまりおめかしする気にはならないので、すっぴんで普通に制服を着ていく。でもヘアブローはしっかりやった。襟は明日剃る日なので、今朝はちょっとジョリっとしている。地下鉄に乗ると、遥と秀馬くんがいた。
「おはよう遥、秀馬くん」
「文香…」
遥がとても心配そうな目で私を見つめる。昨夜遥とはラインして、一日の日の一部始終を話した。
「智世と二人、枕並べて失恋確定かよ。くそっ…、真美のやつっ」
遥のゴツゴツした手が、私の手をしっかり握ってくれる。その脇で秀馬くんが首を傾げた。
「真美も不可解だな。論理のことなんて気にしていなかったんだろう?なのになぜOKしたんだ?」
「しかもその後未読無視で、電話にも出ねぇんだろ。なんだそれ?よくわかんねぇ」
「うん…」
私たちは、言葉もなく地下鉄に揺られた。大きな走行音だけが響いてくる。今日、学校で真美、論理先生にどんな態度とるつもりなんだろうか…。

職員室の入り口で智世と出会った。智世も今朝は制服姿だ。二人して念入りに切りたて耳たぶおかっぱをとかしてから、室内に入る。先生の背中が見えてくる。あれ?今朝はセーラーじゃない。先生もあんまり、おめかしする気分じゃなかったのかな。でもそれでも、リップラインのおかっぱだけは、いつものようにかっちり美しく揃っている。
「論理」
「論理先生…」
二人して先生に声をかける。先生が気づいて振り向いた。天使の輪が揺らめく。
「おお、文香に智世か。おはよう」
「おはよう論理」
「お、おはよう、ござい…ます…」
私たちは先生の前に進み出た。ひょっとして真美がいるんじゃないかって思ったけど、先生のもとには誰もいなかった。
「それで論理、まだ未読無視は続いてるの?」
智世が聞く。昨夜、智世と通話して、先生とのラインの内容は話してあった。
「ああ」
先生が顔を伏せる。不安げだ。
「文香とのラインが終わってからも、何度かラインも入れたし、電話も一回かけた。だが相変わらず未読だし、通話もつながらない」
「ブロックされてるのよ、やっぱり」
智世にそう言われた先生が、両手を広げる。
「される理由がわからない」
真美が先生に応じないのは、きっとパパとプレイ中だからなんだろうけど、それでも既読ぐらいつければいいと思う。
「今日…、古文、ありますね…。二限目…」
「論理、真美に何か声かける?」
先生はうなずいた。
「かけるつもりだ。どうして未読のままなのか、通話もつながらないのか知りたい」
論理先生はそう言って、唇を固く引き結んだ。先生の不安な気持ちが伝わってくる。真美、どういうつもりなの…。

職員室から戻って教室に入ると、片隅に人だかりができている。見慣れない男の子が、たくさんの子に囲まれていた。え、こんな男子いたっけ?
「おいお前、エレンっていうのか。なら『駆逐』してみろよぉ」
一学期の始めの古文の授業でいきなり論理先生の画像を撮った、お調子者の吉田渉くんが、男の子におどけて声をかける。けど男の子はキョトンとしている。
「クチク…?何、それ」
日本語が片言っぽい。そんな男の子に吉田くんがさらに言う。
「エレンといえば駆逐だろ。知らないのか『進撃の巨人』。エレンのくせに」
「あ、シンゲキ。シンゲキね。わかるよ」
「お前、エレンだからいじられるだろ」
と、吉田くん。たぶんエレンって名前の男の子が首をすくめる。
「うん。エレン、エレンって、いじられたネ」
この人、転入生だな。北海国際は、親の都合で途中編入してくる生徒が数多い。こうして、ある日突然、新しい人が教室に現れたりすることもよくある。なんかこの人、カッコいいな。背中まである亜麻色のロン毛を首の後ろでくくっている。顔立ちも目鼻立ちがくっきりしてアイドルっぽい。太くて吊った眉が印象的だ。茶色くて大きい瞳もきれいだった。どこから来た人だろうと思ううち、教室の扉が開き、横山先生が入ってくる。
「えー、みんな静かに。席につけ。今日はまず転入生を紹介する。前に出て」
男の子が教室の前に出て、黒板を背にして立った。背が高い。百八十センチはある。しなやかそうな身体は細くて、適度に筋肉がついてる感じだ。
「古手(ふるで)エレンくんだ。お父さんが日本人、お母さんがカナダ人のハーフで、この秋バンクーバーから日本にやってきた。じゃあ自己紹介してくれ」
古手くんは横山先生からそう言われて、ちょっと緊張気味に教室を見渡した。そして言う。
「古手エレンです。日本、初めてだから、いろいろ、わかんない。よろしく、お願いします」
やっぱり片言だ。発音もなまってる。どんな人なのかちょっと気になる。でも私の意識は今日の二限目だった。

その二限目になった。始業のチャイムが鳴る前から論理先生が教室にやってきた。先生…。私は思わず真美を見た。美雨さんとか言ったっけ、不良な友だちと夢中になって話をしている。先生が教壇に立った。
「真美」
先生が、そのよく通る大きな声で、真美を呼んだ。でも真美は美雨さんたちとの会話にかかりきりなのか、先生のほうを見もしない。
「真美」
もう一度先生が真美を呼ぶ。それでも真美は振り向かない。美雨さんが先生に気づいて、「呼ばれてるよ」というような素振りをする。でも真美はそれに、乱暴に横に手を振るだけで、相変わらず先生のほうを見ない。何その横に手を振るの…。まるで「いいんだよそんなの」って感じ…。私は先生を見た。街中に取り残された子どものような表情をしている。先生は教壇を降りた。真美の席に歩み寄る。
「真美」
真美のすぐ近くで、三たび声をかける先生。すると真美は急に立ち上がった。
「ごめん美雨、真美さぁ、ちょっとトイレ行ってくるんだよ」
そしてそのまますたすたと教室の外に出て行ってしまう。何よ真美、それ…。先生がどんな顔をしているか、もう見たくなくて、私は目をそらした。すると智世と目があう。「一体どういうことかしら」と言うように首を傾げている智世だった。ここでチャイムが鳴る。先生は再び教壇に立つ。真美も戻ってきた。
「よーし、じゃあ始めるぞ」
心なしか、論理先生の声にいつもの勢いがないような気がする。
「では出席を取る。一番、池田文香!」
こんな日だけど、それでも先生に名前を呼んでもらえるのは嬉しい。私は姿勢を正した。
「はい」
「昨日はありがとう」
「え…?い、いえ、そんな…」
いきなり昨日の話を出されて、ちょっとドギマギしたけど、なんとか返事をする。
「十二番、徳永智世!」
「はい」
顎を引いた智世の、ピンと伸ばした小麦色のうなじが答える。襟足の、わずかに上に湾曲したきれいなカットラインが相変わらずかわいい。
「元気か?」
「イマイチ。論理は?」
「俺か?俺は元気だぞ」
嘘だ。真美に露骨に無視されたくせに。
「二十三番、屋代真美!」
真美はまだ隣の美雨さんと話に夢中。先生に呼ばれても、右手を上げるだけで返事もしない。
「どうだ、その後具合は?」
でも真美は気づかない。ううん、気づかないフリだよね。美雨さんが論理先生のほうをちらりと見て真美に何か言う。するとまた手を横に振る真美。
「……………」
返事をもらえない先生が教壇の上でまごまごしている。何それ真美!その手を横に振るしぐさ。論理先生なんてどうでもいいって感じじゃない。あまりに失礼でしょう⁉︎先生はしかたなく、出席取りに戻った。声に明らかに張りがない。先生、戸惑ってるよね。真美、どうして論理先生を無視するの?「好きだよ論理」じゃなかったの?それともやっぱり、元から好きでも嫌いでもないのに、適当なことを言ったの?わけがわからないよ。

それから二日、表面上は何事もなく過ぎる。でも私は、毎晩論理先生とラインして知ってる。先生、この二日間も、一生懸命真美と連絡を取ろうとしていた。でも真美は一切未読無視。電話にも出ない。廊下で先生とすれ違って、先生から声をかけられても返事もしない。そんなある夜の、論理先生とのライン。
『文香。もう俺、いても立ってもいられない』
白い吹き出しの文字に、先生のいら立ちがにじみ出ている。
『そうですよね。真美の態度、ちょっとひどいです』
『明日俺、学校の電話から、真美のスマホにかけてみる』
『あ、そうか。それなら真美、論理先生からの電話だって気づかずに、出るかもしれませんね』
しばらく間があいた後、先生の小さな吹き出し。
『文香。切ないよ』
『そうですね…』
先生、つらいだろうな。切ないだろうな。真美と先生との関係が切れてしまえばいいと望んでいる私だけど、先生のつらそうな顔は見たくない。
『恋とは楽しいものだと思いたかった。告白にOKされたら、その後は天国だと信じていた。なのに今、告白する前よりつらい』
『先生、』
と、一旦投稿して、しばし考える。でもやっぱ書く。
『もし先生のこと好きな女の子が、今先生に告白してきたら、どうしますか?』
ちょっと間があく。先生、考えてる。
『俺に告白するような子なんて、いないだろう』
『もしいたら、の話です』
『それなら…、残念だが、断るな。真美への想いを断ち切れない』
がっくり。やっぱり…、そう…だよね…。
『でも』
先生の吹き出しが、不意に続く。
『打ちひしがれた俺に、じっと寄り添ってくれる人なら、俺も気持ちを新たにして、その人を愛せるかもしれない』
え?そ、そうなの?じゃあ先生、私にもまだ望みはあるってこと?私、先生がどうなったって、先生に寄り添うよ。
『先生いい人だから、そうやって寄り添う人もいると思います』
『だといいが』
私はスマホを握りしめた。先生への想いが吹き出してくる。でもまだ、先生には言えない。内に秘めた恋心を、今夜もツイッターに綴る。
『無視をきめこむM美に必死に連絡を取ろうとする先生。その胸の内が痛ましい。ひどいよM美。先生、先生の傷心、私の恋心できっと癒してあげるよ。だからM美なんてやめて、早く私を見て』
そして先生と撮った画像を今夜も眺める。「俺と文香の仲」なんだよね論理先生。そんな仲だから、ツーショットも撮れるんだよね。その言葉、私信じてるから…。
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