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七十八、太田論理絶唱

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その日の授業後、文芸部室。冷たい雨が依然として降り続いている。部室の中には、文香、俺、そして川本先輩。
「よく降るわね…。それに寒いし」
先輩が窓の外を眺めながらつぶやく。
「文芸部も、寂しくなったわね。何人辞めたんだっけ…。村上くん、古本さん、佐伯さん、坂口くん、本島くん、それに恵美さんも数に入るかな」
気の強い川本先輩も、さすがに寂しそうだ。
「川本先輩、残った俺とふーちゃんで、後はなんとかします」
声に力を込めて、俺は言った。そんな俺に先輩が静かに微笑みかける。
「お願いね太田くん、池田さん。この春に私たち三年生が引退したら、後に残るのは鳥居くんと、広沢さんと、あなたたち二人の、四人だけになるわ。来年の新歓は必死にやってね。部が存続するか、同好会に格下げになるかの瀬戸際よ」
「はい。がんばります」
緊張した声で文香が答える。そうだ…。来年度はもう四人だ。会計局とか渉外局とか総務局とか機関誌局とか言っていられないな。できることから何でもこなしていかないと。
「それじゃ、私はこれで。今日は合評会も何もないから、あなたたちも帰っていいわよ」
「わかりました。失礼します」
頭を下げる俺の前を通って、川本先輩は部室の外に出て行った。それを見送る俺とふーちゃん。
「ライン!」
そのとき俺のポケットの中で、ライン着信を知らせる音が鳴った。もしかして!急いでスマホを見る俺。通知をタップする。果たしてそこにはーちゃんのライン。
『論理。連絡しなくてごめん。いきなりで悪いけど、論理の携帯番、西澤さんに教えていいか』
「え…」
はーちゃん急に何だろう。ふーちゃんと顔を見合わせる。
『いいけど、どうして?』
『西澤さんから論理に直で話したいことがあるんだよ』
どういうことだ、それ…?西澤さんが何を俺に話すんだ。不安がわきあがる。ふーちゃんが俺の紫セーラーの袖を、そっと取ってくれた。
『いったい西澤さんが、俺に何を話すの?』
俺の黄緑の吹き出しが流れ出ていく。そしてそのままラインの画面は、しばらく動かなかった。
『今夜電話がある。西澤さんに直接聞いてくれ。論理──』
『何、はーちゃん』
『論理、あたしとカレカノで、幸せだったか』
だった?なぜ過去形?
『もちろん幸せだよ。はーちゃんもだろ?』
また動かない画面。
『ありがとう論理。じゃこれで。元気でな』
『はーちゃん?』
しかしもうリプはなかった。スマホを握りしめて立ち尽くす俺。
「はーちゃん…」
はっと気づく。もう外は暮れかけている。俺は机の上の鞄を手に取った。
「論理くん!」
ふーちゃんが声を出す。面持ちが緊迫していた。
「帰る?」
「うん。下宿で連絡を待ちたい」
「じゃあ私も一緒に行くよ。いいでしょぉ?」
文香がそばにいてくれるのか。ありがたい。一人じゃ不安でしかたないところだった。
「ありがとうふーちゃん。じゃあ行こうか」
「うん」
俺たちは部室を出る。学生会館の外は、相変わらず氷雨が降り続く。寒さが厳しい。わざと相合傘をして、その下で身を寄せ合って暖を取る俺とふーちゃん。紫セーラーの俺に、ふーちゃんはお気に入りの黄土色花柄セーラーワンピだ。今夜、どんな話を俺は聞かされるんだろう。俺とはーちゃんは、どうなるんだろう。心臓が気持ち悪く高鳴る。寒いのに、頬が赤く火照ってきた──。

下宿に着く。雨風に吹き乱された耳の穴おかっぱにブラシを入れてかっちり綺麗に整え、ふーちゃんのセミロングも丁寧にブラッシングしてあげる。そうするうち、少しだけ落ち着いてきた。
「じゃあ、ふーちゃん、座って」
「ありがとぉ」
テーブルの前に座る俺たち。お互い言葉もなく時間が過ぎた。寒いのに、身体がじっとりと汗ばんでくる。そして時計が六時を指した。その時、スマホが着信を知らせる!非通知だ。
「ふーちゃん!」
「論理くんっ!」
ぎゅっと手を握りあう俺たち。そして俺は、画面の応答ボタンを押す。スピーカーホンにしておく。
「…はい」
『太田論理くんかね?』
年恰好があまりわからない、男の声が響いた。冷たい色を帯びている。
「はい、太田です」
『僕はエイティツー・エモーショナルの西澤貴正(にしざわたかまさ)と言う者です。僕が今日君に電話することは聞いているよね?』
「はい。はーちゃんから聞いてます」
『はーちゃん?ふっ』
西澤さんが鼻で笑う。
『君は佐伯のことをそう呼んでいるのか。はーちゃん?幼いな』
いきなりなんだ、こいつ。何を言おうとしているんだ。俺は隣のふーちゃんを見た。「しっかりね」とささやいてくれるふーちゃん。
「幼いでしょうか」
『まあいい。好きに呼んでいろ。それもどのみち今日限りのことだ』
西澤は、傲然とそう言った。なんだ今日限りって。何のつもりだ。
「意味が、わかりませんけど」
『単刀直入に言おう。君、佐伯とは今日限りで別れるんだ。すでに佐伯にもその旨話してある』
「え、何言ってんのぉこの人ぉ」
ふーちゃんが脇で小声を漏らす。西澤…。はーちゃんと別れろだと?何でそんなことを西澤から言われなきゃいけないんだ。当のはーちゃんから何も聞かされていないというのに。
「おっしゃることがよくわかりませんね。少なくとも、はーちゃんは俺と別れたいだなんて、一言も言ってませんけど」
『チッ、説明しなきゃならんのか。いちいち面倒だな』
いやらしく舌打ちする西澤。
『いいか。佐伯は今、赤一準所属の仕事に全霊をかけている。それ以外のことはすべて邪魔だ。当然、君の存在もな』
「でも俺は、東京から千キロも離れたところから、はーちゃんを応援しているだけです。はーちゃんに何の邪魔をしているわけじゃありません」
『いやそれが邪魔なんだよ』
西澤が声色を硬くした。
『佐伯はアイドルになるんだ。アイドルの恋人はファンだ。それ以外、アイドルは何の恋もしてはならない。だからどんなアイドルグループも恋愛禁止にしているだろう』
俺は言葉に詰まった。確かにそうだ。アイドル声優のはーちゃんに、恋愛はご法度だろう。でも俺…。
「論理くん!」
文香がそんな俺にささやきかけてくれる。日本人形の瞳に力をこめつつ、「がんばって!」と、しっかりうなずくふーちゃん。俺もうなずき返して、口を大きく開き、「はああああっ」と紫セーラーの肩を上げる。
「西澤さん。事情は事情なんでしょうけど、俺だって後には引けません。はーちゃんは俺の大切な人ですし、はーちゃんだって俺を大事に思ってくれています。そうやって俺たちは交際してるんです。第三者の西澤さんに別れさせられるなんてありえません」
『わからないやつだなあお前も!』
西澤は声を荒らげた。
『何度も言わせるな。佐伯はアイドルになるんだ。一般人の、しかも学生でしかないお前なんかと付き合えるほどアイドルは暇じゃない。アイドルはメリットのある人間としか付き合わない』
「え?でも西澤さん、さっきアイドルは恋愛禁止って──」
『お前があまりに物わかりが悪いから、突っ込んだ話をしてやるまでだ。佐伯はな、今、在京の某プロデューサーと交際中だ』
「えっ…‼︎」
一瞬、落雷を受けたように視界が真っ白になる。何だ…何の話だ…。
「そんな…。ありえない…」
『ありえるも何も、それが事実だ。今夜も明日の夜もその後も、佐伯は二人で関係を温める』
今夜?明日の夜?その後?はーちゃんが…はーちゃんが、俺以外の男と夜を…?ありえない。夜を過ごせるのは俺とだけだって言ってたのに。
「嘘だっ‼︎」
たまらなくなって俺は叫んだ。
「見てきたような嘘をつくなっ。はーちゃんがすべてを許すのは俺だけだ!他の男と交際するなんてあるもんかっ」
『くっくっく…。何も知らない若造が吠えているな』
西澤の含み笑い。どうにも…できないのか…。
『いいかお前。声優界は実力勝負の世界だ。だが、実力があればそれでいいというほど甘い世界じゃない』
「……………」
『実力を裏打ちし、真に有名になるために必要な要素がある。それは『縁故』だ。どれだけ実力や才能に恵まれていても、業界で縁故を結べなければ無名に埋もれる。佐伯の才能はピカ一だが、彼女には縁故がない。だから僕は佐伯に、『何を支払ってでも縁故を手に入れろ、そして役を取れ』と指示した。その指示を守って佐伯は行動した。それだけのことだ』
高圧的にとうとうと語る西澤。はーちゃん…。売れるために、そんなことまでするのか。男は怖い、嫌だと言っていたはーちゃん。俺だけに心身を許してくれたはーちゃん。それなのに…、それなのにっ!
「…信じられない。俺の、はーちゃんがっ」
『馬鹿者め。まだそんなことを言うか』
西澤が、厳然と俺とはーちゃんの間に立ちはだかる。
『いいだろう。佐伯には今後もう二度と君に連絡をしてはならないと言っておいたが、特別に君のもとに一度だけ電話することを許す。追って連絡があるはずだ。そこで彼女の口から真実を聞くがいい』
「何が真実だ。はーちゃんがお前の言う通りになるはずがない!」
『多忙な僕の貴重な時間をお前、さんざん奪い取ったぞ。その罰だ。いちばん過酷な形で別れを迎えろ。ふん、おとなしく僕の言うことをすんなり聞いていればよかったものを。それじゃ、くだらない話はここまでだ。切るぞ』
電話は切れた。呆然と言葉もない俺。脇でふーちゃんも言葉を失っている。かなりの時間が過ぎた。でもふーちゃんがはっと気づき、俺の肩を揺する。
「論理くん!論理くん!」
「ふー…ちゃん」
「しっかりして論理くん。はーちゃんの話を聞くまでは、何もわからないもん」
そうだ。ふーちゃんの言う通りだ。西澤の言うことなんて、ただの出まかせだ。はーちゃん、きっと「ごめん、何でもないよ」と言ってくれる。だよね、はーちゃん。着信を待つ。一分、二分…。長い時間。でも、とうとうスマホが鳴った。画面には「はーちゃん」の文字。
「論理くんっ」
「うんっ」
震える指先で、応答ボタンを押した。
「もしもしはーちゃんっ!」
『……論理か』
押し殺したはーちゃんの低い声。聞き慣れた、かわいいロリボイス。
『西澤さんから、電話、あったか』
「あったよ。いろいろ、聞かされた」
俺がそう言うと、電話口ではーちゃんは少し沈黙する。
『…別れろって、言われただろ』
「…うん」
膝の上で俺は、ぎゅっと拳を握りしめた。
「でも俺、そんな話、聞けないから!」
また沈黙。
『他には…何か、聞いたか』
「ぜんぜん信じられないけど…、はーちゃんが、在京のプロデューサーと交際中だって…」
三たび、長い沈黙。でもやがてはーちゃんが「はあああっ」と息を吸い込む。かわいいそのブレス音で。
『そうだ。あたし、男と寝ている』
「なんでっ‼︎」
叫ぶ俺。はーちゃん…、はーちゃん、どうして否定してくれないの。
「嘘だっ。はーちゃん、『他の男とじゃ怖くてもう寝れない、あたしが夜をともにできるのは、論理だけ』だって、言ってたじゃないかっ」
『論理、しかたねぇんだよ』
はーちゃんの声色が苛立ちを帯びる。
『西澤さんから聞いてねぇか。実力だけでどうにかなる社会じゃねぇんだ』
「聞いた。『縁故』が要るって」
『その通りだ。駆け出しのあたしが役をもらうためには、たくさんの偉い人にあたしのことを知ってもらって、そういう人たちとつながりを持たなきゃいけねぇ。そのためには…そういうことも、しなきゃいけねぇんだ!いくら怖くても、いくら嫌でもな!西澤さんにもそう教えられてる』
重さ百キロの巨石を乗せられた一筋の糸のように、はーちゃんの声は差し迫っていた。その緊迫感に押され、俺は言葉を失う。するとふーちゃんが声を出した。
「はーちゃん」
『う…。ふーちゃんも、いるのか』
「いるよ。西澤さんの話も、全部聞いたもん」
口を大きく開き、「すはあああっ」と文香のいつものブレス。セーラーワンピの襟がぐっと上がる。その呼吸に怒りが満ちていた。
「聞いてればはーちゃん、それ、枕営業じゃん。論理くんという人がいながら…。はーちゃん、女の子としてのプライドがないの⁉︎そこまでして有名になりたい?そこまでして役が欲しい?そんなことして有名になったって、何の価値もないと思うもん」
『何とでも言ってくれ』
低く、意志を込めた声ではーちゃんが応える。
『役者は役を取れてなんぼだ。役を取れねぇ役者なんて、カスほどの価値もねぇ。だからあたしは役を取りにいく。何の犠牲を払ってもな。西澤さんにもそうしろって言われてる』
「何だよさっきから西澤さん西澤さんって。西澤さんがそんなに大事?はーちゃんには論理くんっていう大切な人がいるでしょぉ⁉︎」
ふーちゃんの少年声が、一層厳しい色を帯びる。でもはーちゃんはひるまなかった。
『確かに論理は大切な人だ。でも、西澤さんはあたしを拾ってくれた『拾う神』だ。人と神と、どっちが重い?』
「はーちゃん…、そこまで、言うんだね」
文香が怒りで小刻みに身体を震わせる。その脇で俺は、もう何も言えない。はーちゃん…、はーちゃん…。命がけで坂口の手から救った。深手を負った俺を抱き、涙をこぼして「好きだ」と言ってくれた。かわいい星坂ワンピで、おそろの耳たぶおかっぱにしてくれた。切り立ての、限りなくきれいな襟足を見せてくれた。そんなはーちゃん。思い出が、津波のように押し寄せる。
「うっ…くっ…」
涙が溢れ出た。悔しい。憤ろしい。そして…悲しかった。
「はーちゃん。論理くん、泣いてるよ。何か言いなさいよ!大切な人傷つけて、何も言うことないのぉっ!」
文香の鋭い声。その声に、長い沈黙で応えるはーちゃん。
「はーちゃん!何か言いなさいったらぁ!」
『…何もねぇ』
はーちゃんのロリボイス。言葉の向こうに、何千文字も押し隠したような声。何度も聞いたな。
「何もないぃ?」
『ああ。今さら論理にあたしが、何を言える?いくらでも憎んでくれていい。いくらでも恨んでくれていい』
あまりに淡々としたはーちゃんの口調。
「はー…ちゃんっ」
やっと声を出す俺。止まらない涙を、紫セーラーの袖で、ごしごしとこする。
「はーちゃん…、もう、戻れないの?俺たちまだ始まったばかりじゃない。寿美さんに画像撮ってもらって、『あたしたちの、始まりの写真だよね』って、はーちゃん言ってくれたじゃない!あれからまだ…一ヶ月しか経ってないんだよ!」
そうだ。はーちゃんが俺の彼女になったのは、ついこの前のことなんだ。これから積み重ねて行くんだって、思ってた…のに…。でもそんな俺に浴びせられる、はーちゃんのこんな言葉。
『あの写真か。消してくれ。あたしも消した』
「えっ…、消し…た…?」
『ああ。持ってても、何の役にも立たねぇだけだかんな』
最後の衝撃が、俺を貫いた。はーちゃんが、あの画像を、消した。何の役にも立たないと言って。声優の夢を追うはーちゃんに、俺はもう、いらないんだ…。なんでだ…。なんでこんなことになるんだよっ!涙がまた、わき出して止まらない。
「はーちゃん。つくづく、ひどいね。有名になるために何でもするんだ。身体も、心も、論理くんさえも売って…。見下げ果てるにも程があるよっ!私、そんなひどい子と今まで友だちしてたんだ。情けないよ自分が」
ふーちゃんが冷然と言い放つ。でもはーちゃんは、口調を変えずに応じた。
『好きなだけ見下げてくれ。いつかどこかであたしの声聴いたら、そんな見下げたやつでも少しは出世できたのかと思ってくれれば嬉しい』
「はー…ちゃんっ!」
突き上がる嗚咽をこらえて、思いの丈をすべてこめて、俺ははーちゃんを呼んだ。でも、はーちゃんの答えは冷たかった。
『話、これくらいでいいか。次の仕事に行かなきゃなんねぇ。じゃあな』
「はーちゃんっ!」
でも俺がそう叫んだとき、電話はもう切れていた。
「はーちゃん…」
呆然と言葉もない俺たち。しとしとと降る氷雨の雨音だけが、下宿に響いてくる。
「論理くん…」
ふーちゃんが俺の腕に頬を寄せた。
「ふーちゃん…。何が…起きたんだ…」
おそろの耳たぶおかっぱにして「始まりの写真」を撮った、幸せの絶頂から、何もかも奪われた、失意のどん底の今まで、わずか一ヶ月。あまりにも短すぎる。なんでこんな短い間に。すべてを失わなきゃいけない?
「論理くん…」
ふーちゃんが、俺の紫セーラーの肩を、優しくさすってくれる。
「一つだけ言えるのは、ひどすぎる子が、勝手に好きなことして、勝手にいなくなったってことだね」
はーちゃん…。思うままに夢を追って、思うままに俺のもとから消えた…。
「うっ…くっ、ひっく…うううっ」
身を斬るような悲しみ。嗚咽がわき起こり、俺は肩を震わせる。スラックスに涙がぽたぽたと落ちていく。
「論理くん」
そんな俺の背後から、ふーちゃんの花柄黄土色の二本の袖がすーっと伸びてくる。ふーちゃんが俺を、固く後ろ抱っこしてくれた。
「論理くん、泣きなさい」
底深い泉から柔らかく溢れ出てくるような、ふーちゃんの優しい声。
「ふー…ちゃんっ」
俺は、胸元のふーちゃんの手をぎゅっと握る。そこにも涙が落ちた。
「うっ、ぐうっ…ひっく、う、うううっ…」
「何も辛抱しなくていいもん。私の腕の中で、思いきり泣いて。論理くん、泣くのに十分過ぎる理由があるんだもん」
泣くのに十分過ぎる理由がある。だよね、ふーちゃん。俺、泣いていいよね。
「さあ論理くん、泣くんだもん。口大きく開けて、胸と肩いっぱいに息吸い込んで。声を限りに、ね」
「ううっ…ひっく…うん…」
ふーちゃん…!こんな時に、その優しさは反則だよ。涙がとめどもなく流れ、嗚咽が突き上がる。胸が破れそうだ。泣くぞ、俺。ふーちゃんの言う通り、俺は口を思いきり開ける。そして──、
「はあああああああっ‼︎」
紫セーラーの肩と胸が極限まで上がる。切り立て耳の穴おかっぱの中身が号泣で満ちる。
「あああああああ…あああ…あっ‼︎…あ…あああ…、はっ、はあああああああっ‼︎ああああああああああ…ああっ‼︎」
泣き出す俺。身体全部を呼吸にして、心全部を泣き声にして、俺は泣く。寿美さんに美しく揃えてもらったカットラインと、きれいに剃ってもらった襟足の剃り跡が悲しい。
「はああああああっ‼︎あああああああああ…ああああ…ああ…あ…ああ…あ…」
泣き過ぎで息が吸い込めない。声が出ない。全身から酸素が急速に抜ける。苦しい!苦しいよふーちゃん!ふーちゃんの手に俺はしがみつく。
「はあああああああっ‼︎」
苦しみ抜いて、やっと息を吸う。ふーちゃんの腕の中で、紫セーラーの俺の肩と胸と背中金属ジッパーが、爆発するくらいふくらんだ。
「あああああああああっ‼︎ああ…ああ…あ…」
また吸えない。ふーちゃん、ふーちゃん苦しいよっ。そんな俺を抱く腕に、ふーちゃんがぎゅっと力を込めてくれる。
「吸えないね論理くん。苦しいよね。苦しくってたまんないよね。論理くん、それくらい今苦しいんだもん」
そうなんだ…。俺、はーちゃんに捨てられて、ここまで苦しいんだ。吐けない息を吐ききる。この耳の穴おかっぱの中の悲しみを、苦しみを、すべて吐ききる。
「はああああああっ‼︎ああああああああああああっ‼︎ああ…ああ…あ…、はっ、はあっ、はああああああっ‼︎あああああああああああああっ‼︎」
「泣いて。泣いて論理くん。いつまで泣いててもいいもん」
ふーちゃんの緩やかな少年声が、俺に温かくささやきかけてくれる。泣き干された俺の心に注がれる、ぬくもりの水。
「論理くんの泣き声と、涙と、胸式呼吸と、ブレス音、全部全部、私が受け止めてあげるもん。それができるのは、私だけだからね」
「ふー、ちゃああん…っ‼︎はああああああっ‼︎ああああああああ…あああ…ああっ‼︎」
ふーちゃん…。温かいな…。寛いな…。それが俺をたまらなくさせる。涙がいくらあっても、息がどれだけあっても足りない。もうこのまま、ふーちゃんに抱かれて死んでしまいたい!
「はあああああああっ‼︎あああああ…ああああ…ああああ…っ‼︎」
「論理くん、論理くん…」
ふーちゃんの優しさに包まれて、俺はいつまでも泣く。俺の一生分の涙、一生分の泣き声、一生分の呼吸。ふーちゃん、受け止めてくれるよね…。
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