上 下
67 / 85

六十七、ここから始める俺たち

しおりを挟む
恵美ちゃんを送り届けて、下宿に帰ってきた。駐車場から、派手にびっこを引きながら南大文字荘に入る。腰から足にかけてが、特に痛みが強かった。部屋に入り、鏡台で顔を見る。わあ、ひどい…。頬は腫れ上がり、左目は青あざになっている。はーちゃんの言う通り、月曜、診てもらおうかな。鏡台の前で困り果てる俺。そのとき、手元のスマホがライン着信を知らせた。はーちゃんだった。彼女からのライン…なんだよな。俺は痛みも忘れて、画面をタップする。
『はろはろ論理ぃ。もう家着いた?』
『うん。今しがた着いたとこだよ』
『身体さあ…、どう?痛む?』
『痛いなあ。びっこも引くし、さっき鏡で自分の顔見たんだけど、思ったよりずっとひどくて困ってる』
『そっかあ…』
『それよりさ』
と、俺は、画面を走らせる指に力を込めた。
『はーちゃんは?中出しされたじゃん。中出しされた後ピル飲むといいって聞いたよ。飲んだ?』
少し間があいた後、はーちゃんの大きな吹き出し。
『飲んでない。アフターピルって病院行かないともらえないから。でもあたし普段からピル飲んでるから大丈夫だとは思う。あとは…、次の生理が来ることを祈るだけだよ』
『はーちゃん…』
俺は拳を握りしめた。情けないことに、その拳さえも痛い。
『ごめん…。俺が非力なばかりに』
『謝らないで論理!論理は、死に物狂いで戦ってくれたよ。あたし、それが嬉しかった。身を捨てて来てくれた論理が、嬉しかったんだよ!』
赤いハートの絵文字をつけてくれるはーちゃんが愛しい。
『はーちゃん…』
『論理。論理の死力、受け止めさせてもらったからね。あたし、あの人とは金輪際縁を切る。五ヶ月間いたぶられるだけいたぶられて、声優の夢も潰されて、そして輪姦(まわ)されて…。もう心底嫌になったよ』
拳の絵文字を三つも重ねるはーちゃん。その意志がうかがい知れた。
『はーちゃん、悪夢から覚めたんだね。よかった…』
『うん。明日、髪もばっさり切るよ。このロングヘア、あの人の好きな髪型だったから』
え…。はーちゃん髪切るの?それじゃあ、ひょっとして、ひょっとする?俺は指を震わせて、はーちゃんにこう聞いてみる。
『はーちゃん…、髪型変えるって、どんなのにするの?』
その俺の問いに…はーちゃんが、こう答えてくれる!
『耳たぶおかっぱだよ。あたし、論理とおそろの髪にしたい』
やった‼︎俺は思わず両手を天に向かって振り上げ、そして痛みに襲われた。はーちゃんが…、はーちゃんが、耳たぶおかっぱにしてくれる!明日から俺、あのはーちゃんとおそろだ。嬉しい…。こんな嬉しいことってあるか!
『はーちゃん、ほんとう?ほんとに耳たぶおかっぱにしてくれるの⁉︎』
『うん。論理、いつもかわいいし。髪型変えるなら、耳たぶおかっぱにしようって思ってたんだ』
すげえ…。すげえよ。博美とおそろになったときなんかより、何万倍も何億倍も嬉しい!よし、そう言うことなら。
『はーちゃん、はーちゃんってさ、髪切る店いつも決めてる?』
『ううん、特に決めてないよ』
『じゃあさあ』
俺は一気にラインを書きまくる。
『俺の行ってる美容室で切らない?俺、明日はーちゃんと一緒におかっぱ揃えるよ』
『え?でも論理ケガしてるのに。痛くてヘアカットどころじゃないことない?』
『構うもんか。はーちゃん、明日だけじゃなくてさ、これからずっと、おかっぱ揃えるときは、俺と一緒に切ろうよ。俺、いつもはーちゃんと一緒の髪でいたいんだ!』
『うふふ、論理ったらすっかりその気だね。いいよ、じゃあそうしよ。明日、何時にどこで待ち合わせる?』
スマホの向こうでにっこり笑うはーちゃんが思い浮かんだ。
『美容室、駅前なんだ。だから、玉都駅の大時計の下でどう?時刻は、そうだなあ…、一時で』
『うん。いいよ。明日はあたし、星坂高校着てくね。生まれ変わるんだもの。あの人に告白したとき、星坂だったから、あの人を終えるときも星坂にする』
そうだよな…。始まりも終わりも、はーちゃん、その服で行きたいよな。それにしても耳たぶおかっぱに、あのセーラーワンピか。それ、いい。実によく似合いそうだ。俺の紫セーラーもそうだけど、おかっぱとセーラーって相性がいい。
『よし。俺も紫セーラー着ていく。明日はお互いセーラーどうしで、めちゃかわいい耳たぶおかっぱになろう』
嫌だよ今からどきどきしてきた。でも、こんなケガだらけでヘアカットってヘンかな。だけどいいよな。はーちゃんと同じ店で、同じときに、同じ耳たぶおかっぱにする。それが、最高だ。

翌日日曜日、午後一時。痛む身体に耐えつつ、待ち合わせ場所の大時計下に来た。はーちゃんの姿はまだない。胸をどきどきさせながら、はーちゃんを待つ。なんか、お腹の底がかーっと熱い。恋人を待つのって、こんな熱いものだったんだ。十九年と六ヶ月半生きてきて、俺にもとうとう、そんな恋人ができたんだ!そう思うと頬が緩む。緩んだ頬がまた痛むけど。
「論理いーっ、ごめーん、遅れたー」
背後からはーちゃんの声。甘くて、幼げで、よく響く、あのロリボイス。ほんと、一度聴いたら忘れられない声だ。
「はーちゃん!」
振り向いて、はーちゃんに微笑みかける俺。そんな俺のもとに、はーちゃんが駆け寄ってきた。くっきりとした二重瞼、美しい輝きをたたえた大きな瞳、真っ直ぐ通った鼻筋、いつも大きく開いて「はああああっ」と息を吸い込み、そのかわいい声を聞かせる口──。はーちゃん、魅力いっぱいだ。
「はあ…はあ…。遅刻しちゃったね。ごめんね」
「いいよいいよ。俺も今来たとこだから」
「そか。ならよかった」
星坂高校のセーラーワンピを清楚に着こなすはーちゃん。胸元と背中に四角く垂れた白いセーラー襟。左肩の前後にあしらわれた、ト音記号のエンブレムもかわいい。紺地のお腹に付いた、飾りボタンが縦に三つ。はーちゃんが腹式呼吸すると、そのボタンも息づく。はーちゃん…。見惚れてしまう。
「ん?どうしたの論理」
「あ、いやいや何でもない。それじゃ、行こうか」
「うん」
歩き出す俺たち。でも、足を踏み出すと強い痛み。思わず大きくびっこを引いてしまう。
「論理!大丈夫?」
俺の肩を支えてくれるはーちゃん。
「ああ、ごめん…。まだちょっと痛い」
「歩ける?」
「何とか」
痛みをこらえながら、俺ははーちゃんと二人で歩く。
「論理、こんなときなのに、髪もセーラーも、ばっちりだね」
「もちろんだよ。はーちゃんの前に出るんだから」
今朝、全身の痛みに耐えつつ、それでもヘアブローは手を抜かなかった。こんな腫れた顔に不似合いだと思ったけれど、はーちゃんと一緒に耳たぶおかっぱを揃えるんだと思ったら、服は紫セーラー一択だった。
「論理…。あたしといる時間をそんなに大切にしてくれて、ありがとう」
そう言って。はーちゃんは俺の腕に縋った。背中に流れたロングヘア(もう見納めと思うと、それなりに寂しいけど)からほのかに漂うシャンプーの香りに、はーちゃんらしい清潔感がある。
「ねえはーちゃん、ひとつ聞いていい?」
「うん?何かな」
「言葉使い、なんで変えたの?」
「え…。変えたって」
はーちゃんの白い頬に、さっと赤みが差す。
「そんなに…変わったかな」
「うん。かなり。なんか、前と比べて、すごくかわいくなった。そのロリボイスにも、よく似合ってる」
「え…、そ、そう、なんだ」
恥ずかしげにうつむいて、もじもじするはーちゃん。
「論理のこと、えと…、大好きって思ったらね、こんな言葉使いになった。自然と」
はーちゃん…!こんな嬉しいことを言ってくれるはーちゃんが、たまらなくかわいい。
「ありがと、はーちゃん」
ケガをした腕を動かし、はーちゃんの頭をポンポンと撫でる。痛みはこの際、気にならなかった。

びっこを引きつつ、「ブラックハウス美容室」までやってくる。入り口の自動扉をくぐり、中に入った。
「いらっしゃいませ…えっ⁉︎」
カウンターの店員さんが、俺の顔を見て露骨に驚く。
「どうされたんですか太田さん」
「いやあ、ちょっとこれで負けちゃいまして」
俺は両腕でケンカの真似をした。
「ははは、そうですか。それはご災難でしたね」
店員さんが明るく笑う。
「それで、今日もいつも通りのカットでよろしいですか?」
「はい。二人で、お揃いの髪型にしてもらいたくて」
俺がそういうと、店員さんは少し驚いた顔をして、はーちゃんを見た。
「太田さんとお揃いになさるんですか?かなり切ることになりますが」
「はい、大丈夫です」
はーちゃんが微笑んで、こっくりとうなずいた。
「生まれ変わって、論理の彼女になりたいんです」
はーちゃん!そんな、店員さんの前でそんなこと…。痛む頬が真っ赤になって、また痛む。
「うふふ、わかりました。ではお客さま、シャンプー台にどうぞ。えっと、お名前は?」
「佐伯です」
「はい、佐伯さん。こちらへ」
店員さんに導かれて足を踏み出すはーちゃん。でも、ふと立ち止まって俺に振り返る。
「論理、あたしが変身するとこ、後ろで見てて」
「え?う、うん、いいけど」
そんなことしていいのかな。俺は店員さんを見る。いいですよ、と言うように店員さんはうなずいた。よかった、いいみたい。じゃあ俺、はーちゃんが生まれ変わるところ、後ろで見届けよう。
シャンプーを終えたはーちゃんが、施術席に着いた。その後ろに立つ。鏡越しにはーちゃんが俺に微笑みかけてくれる。
「論理、あたし、耳たぶおかっぱになるよ」
「なんか、まだ信じられない。ほんとにいいの?」
「いい。あたし、論理とおそろになりたい」
はーちゃんがそう言って、鏡の中でその大きな瞳をきらめかせる。そんなはーちゃんの気持ちが、熱く俺を包んだ。そして美容師さんがやってくる。
「お待たせしました佐伯さん。それじゃあ、太田さんと同じスタイルということで、よろしいですか。五十センチは切ることになりますが」
「はい、いいです。お願いします」
はっきりと歯切れよく答えるはーちゃん。
「わかりました。では切っていきますね」
美容師さんはそう言うと、はーちゃんの右頬に鋏を持っていった。次の瞬間、ジョキーンっと、はーちゃんのサイドの髪が切り落とされる。嫌だよ俺のほうがどきどきしてきた。でもはーちゃんは表情を動かすことなく、じっと鏡を見つめている。そうこうするうちにも鋏は容赦なく進み、あっという間にはーちゃんの耳たぶと襟足が現れる。その真っ白なうなじ。博美とは違って、頚椎がぐっと浮き出ているのがかわいい。今まで髪に隠れていたはーちゃんの襟足、こんなになっていたんだ…。胸を高鳴らせながら、はーちゃんの変身を見守る俺。
「ねえ論理」
はーちゃんが鏡越しに俺を見て言う。
「これで、あの人にいたぶられていたときに生えてた髪、みんな落ちるね」
「そうだな。坂口の偽りの愛は、今ここに切り落とされる」
「偽りの愛、か…」
はらはらと落ちていく髪を見やりながら、はーちゃんは小さく息をついた。
「あの人ね、虐待されて育ったんだよ。前にあたしにそう話したことがある」
「虐待?坂口がか」
「うん。父親の暴力がひどくてね。幼い頃から殴られ蹴られしていたらしい」
そこで素早く息を吸うはーちゃん。ガウンの下のお腹がすっとふくらむ。
「長い間そうされるうちに、あの人、暴力を振るうことこそが真の愛情表現だって思うようになったんだって。だからあの人は、恋人という恋人を暴力に晒した」
そうか。坂口の異常さにも、それなりの理由があったんだな。でも、はーちゃんをこんな目に遭わせたことは絶対許せない。
「やつは、自分に思いを寄せる子をみんな奴隷にして、自分の思うままに使い、卑しい連中の性の食い物にさせていた。許してはならない所業だ」
「あたしも、あの人のことはもう許せない。いくら虐待のせいだと言っても、あたし、踏みにじられた感が十万も百万もあるよ」
「そうだよな…」
語り合ううちに、サイドと後ろのカットが終わった。はーちゃん、髪がずうっと短くなって、もう見違えるくらいになってる。そして美容師さんが、シャボンを入れた白磁の容器を持ってきた。
「それじゃあ、襟足きれいにしていきますね。ちょっとうつむいてください」
「はい」
はーちゃんがぐっとうつむく。カットされたサイドの髪の先から、白い頬と顎が見えた。こんな形ではーちゃんの頬や顎が見えるのが、すごく真新しくて、胸が一層高鳴ってくる。そして美容師さんは、はーちゃんの襟足にシャボンを塗ると、剃刀を当てた。さっと下に剃刀が引かれると、はーちゃんの剃りたての、雪のような肌が現れる。思わず「うっ」と声を漏らす俺。
「何声漏らしてるの論理、うふふ」
うつむいたままはーちゃんが笑う。
「ごめん、なんかどきどきしちゃって」
手際よく襟足を剃る美容師さん。はーちゃんのうなじは頚椎が目立つから剃りにくそうだけど、それでもものの一、二分もかからないうちに、襟足が剃り上がった。博美のようなほくろもない、白一色の、透き通った襟足だ。
「ねえはーちゃん、襟足触っていい?」
美容師さんがドライヤーを取りに行っている間に、俺はすかさずはーちゃんにそう聞く。
「うん、いいよ」
震える指を伸ばし、剃りたての襟足に触れる。頚椎の硬い、でこぼこした感触。でも、剃ったばかりの皮膚はすべすべで愛らしい。これが…、これがはーちゃんの襟足!俺と、おそろになってくれるはーちゃんの襟足なんだ!
「はーい、ではブローしていきますねー」
美容師さんの声で我に返り、あわてて手を戻す俺。ブローされていくはーちゃんの髪。前髪はまだ長いけれど、サイドはもう耳たぶが八ミリ現れ、後ろ上がりのカットラインもでき始めている。はーちゃん、耳たぶおかっぱになってきているよ!
ブローが終わると、ギザついたカットラインが精確に切り整えられていく。美容師さんが一鋏、一鋏、慎重にはーちゃんの毛先を整える。それに従って現れる、まったく乱れがないカットライン。これぞおかっぱだ。はーちゃんの耳たぶおかっぱだ。とうとう…、とうとう耳たぶおかっぱのはーちゃんに会える!心中で、そう喜びを叫ぶうち、ついにカットが終わる。
「どう論理?」
「うん!めちゃきれいに揃ってる。かわいい!」
「あとは前髪だね。ちょっとどきどきするよ」
鏡の中のはーちゃんは、サイドと後ろは短くなったものの、前髪はまだ目に入るくらいにまで伸びている。
「では佐伯さん、前髪ですけど、太田さんと一緒なら眉上三センチになりますが、いいですか」
「はい、それでお願いします」
「わかりました」
美容師さんの鋏が入り始める。目をつぶるはーちゃん。怖いのかな。かれこれ十センチ近く切ることになるから。鋏が進んでいく。一鋏み進むたび、眉上三センチではーちゃんの前髪が整えられて、その印象的な、大ぶりな目鼻立ちが、一層くっきりと浮かび上がっていく。はーちゃん、変身するんだね!鋏が最後まで入り、カットが終わった。はーちゃんの前髪が、これもまた寸分のギザつきもなく揃っている。はーちゃん、めちゃかわいい!
「はい、できましたよ」
「……………」
おそるおそる目を開けるはーちゃん。
「わあ…」
はーちゃん、嘆息して、しばし言葉もない。
「…論理。あたし、変わったよ」
「うん。大変身だねはーちゃん」
「これであたし…、論理の、彼女だよ」
はーちゃんの瞳が少し潤んでいる。坂口の垢を落とし、新しい自分になりたくてしかたがなかったのだろう。そんな新しい自分を「論理の彼女」と呼んでくれるはーちゃんが、限りなく愛おしかった。

続いて俺のヘアカットに移る。はーちゃん、「論理もあたしのカット見たんだから、あたしも論理のカット見る」と言って、俺の後ろに陣取っている。なんか、恥ずかしいような、気持ちいいような、複雑な感じだ。
「太田さん、それにしてもやられちゃってますね。大丈夫ですか」
右サイドの髪を切りながら、美容師さんが俺に声をかける。
「お恥ずかしい。全身打ち身だらけです。まともに歩けません」
「そのお顔の様子じゃあ、強烈なのを何発ももらいましたね」
「そうですねぇー」
俺はふうっと息を吐く。
「三対一で、顔から胸から腹から腰から足から、やられるだけやられました」
「太田さん、ケンカのご経験はおありですか」
「いえまったく」
「それじゃあいけませんよ」
俺の襟足を切り整えながら、美容師さんは苦笑い混じりにそう言う。
「ケンカと言うのも、一種の技術ですからね。技術というものは、美容のお仕事でもそうですが、毎日のように鍛錬しないとダメです。いかに場数を踏むかですね」
「なんかお詳しそうですね」
ちなみに美容師さんは二十代半ばくらいの女の人だ。俺にそう言われると、美容師さんは鋏を止めずに「うふふ」と含み笑いする。
「ちょっと前に、菜津宮でやんちゃしてた時期があって。自慢じゃないですけど、『光が丘(ひかりがおか)の寿美(ひさみ)』って言ったら、大抵の人はわかるって感じでした」
「えっ!」
背後から小さな叫び声。はーちゃんが大きな目を一層大きくしている。
「光が丘の寿美って…。あたし菜津宮で聞いたことがあります。めちゃ強い、伝説の人だって…」
「それは大袈裟ですよ、あはは」
左サイドの髪を切りながら、美容師さん──寿美さんが笑う。なんか、ごく普通の美容師さんに見えるけど。
「でも、おかげさまで、ケンカは無敗でした。男相手だって負けてなかったです」
「すごい…。あたしたち、そんなすごい人にヘアカットしてもらえるなんて、思ってもいませんでした」
はーちゃんの目がきらきらしている。俺も胸が高鳴る。寿美さんはカットを終え、シャボンの容器を持ってきた。
「まあ、ちょっとばかりブイブイ言わせてただけです。でも太田さん、ケンカ初心者でいきなり三対一は厳しいですよ。──はい、ちょっとうつむいてください。襟足きれいにしますね」
「はい」
俺はいつものようにぎゅっとうつむき、襟足を剃ってもらう。寿美さんの剃刀が当たる。ジョリッと剃られる。この瞬間、何度経験しても気持ちいい。剃りたてのうなじ、はーちゃん見てくれてるかな。
「もう全然歯が立たなかったって感じでしたか」
俺の襟足に剃刀を走らせながら、寿美さんが言う。
「ダメでしたね。最初にパンチを当てたやつがまったくびくともしなくて、『蚊でも止まったのか』なんて抜かしましたから」
「蚊ですか。あはは」
寿美さんが明るく笑う。なんか、どう見ても、そんな過去を持った人には見えないんだけど。
「蚊ではダメですね。太田さん、そういうときは逃げないと」
「でも…。絶対戦わなきゃいけないときでした」
鏡の中で、背後のはーちゃんが目を伏せる。襟足剃りが終わり、寿美さんはドライヤーを取り出した。
「どうしても、ですか」
「はい。はーちゃんを、守るために」
「はーちゃん?佐伯さんですか」
「はい」
「彼女さんですよね」
「そうです。はーちゃんの急場でした。俺が行かなきゃ誰が行くって感じでした」
うんうん、とうなずいて、寿美さんは俺のおかっぱにドライヤーを当てていく。
「でも太田さんがそんなになってしまって、佐伯さんは無事だったんですか」
「なんとか助けが入って、敵は全員倒されました」
「それは何よりでした」
ヘアブローが終わり、寿美さんの鋏が、俺のカットラインをかっちり整え始める。はーちゃんがそんな俺を、後ろからじっと見つめてくれていた。
「論理、きれいになってるよ。そんな感じで、整ってくんだね」
「うん。これでカットラインがきれいになる。はーちゃんの耳たぶおかっぱも、こうやってしあがったんだよ」
寿美さんの鋏が、俺の耳たぶから後ろ上がりに歩んでいき、襟足の真後ろに届く。
「太田さん、佐伯さん髪を切られて、より一層かわいらしくなられたと思います」
慎重に鋏を進めながら、寿美さんが言う。
「そんなかわいらしい彼女さんを、太田さんがどう守っていかれるか、太田さんにできることは何か、答えが見つかるといいですね」
「はい…」
光が丘の寿美と恐れられた、伝説の戦士の言葉が、俺に重く響いた。恵美ちゃんが村上を呼んでくれなかったら、あの場はどうなったかと思うとゾッとする。俺は何もできなかった。
「それじゃあ、前髪切っていきますね。いつも通り眉上三センチでいいですか」
「はい、それでお願いします」
寿美さんの鋏が、俺の前髪を美しく揃えていく。寿美さんのように強い人にはなれない。なら、俺ははーちゃんに何ができるんだろう──。はらはらと落ちていく髪を鼻先で受けながら、俺はそう考えていた。

二人のヘアカットが終わり、寿美さんに画像を撮ってもらった。はーちゃんと並んで、前姿を一枚、後ろ姿を一枚、はーちゃんのスマホに収める。そして会計をして、寿美さんにお礼を言って、店を出た。晩秋の日差しの中、星坂高校姿の耳たぶおかっぱはーちゃんが、俺の目の前に現れる。
「はーちゃん!」
身体の痛みも忘れて、俺ははーちゃんに声をかけた。
「論理!お互い、耳たぶおかっぱだね!」
はーちゃんの満面の笑み。かわいいという言葉が人の身体を得て動いている。
「はーちゃん、ちょっと後ろ姿見せて」
「うん、いいよ」
はーちゃんが後ろを向く。今まで髪に隠れていた背中ファスナーや、左右二つに分かれたセーラー襟が、かわいらしく露わになっている。そして…、水の面のようなつやを放つ、後ろ耳たぶおかっぱ。はーちゃん、今その中身を、俺で満たしてくれているはずだ。
「はーちゃん…、襟足、触っていい?」
「うふふ、論理襟足好きだね。いいよ、好きなだけ触って」
はーちゃんはそう言って、ピッとうつむいてくれる。きびきびした動作がすごく愛おしい。俺の視界に、はーちゃんの襟足が満ちる。寿美さん、一本一本長さを測って切ったのかな、と思わせるくらい、正確無比なカットラインができている。頚椎のでこぼこに合わせて、ラインが波打っているのもかわいい。こんなきれいなカットライン、見たことがない。俺よりきれいだ。博美なんか比較対象にもならない。その襟足に、触る…。俺のために髪を切ってくれたはーちゃん。指が震えるのは、身体が痛いせいじゃない。
「はーちゃん…っ」
はーちゃんのうなじに指が触れる。ごつっとした頚椎の感覚。その深い凹みまで残らず丁寧に深剃りされた剃り跡はほとんど見えない。はーちゃんが、俺の指先から染み通って、全身を駆け巡っていく。そして俺はやがて手を、はーちゃんの両肩に置く。セーラー襟に包まれた肩。ちょっと骨っぽいのがはーちゃんらしい。
「はーちゃん、胸で息してみて」
「またあ?じゃあいくよ」
サイドのカットライン越しに、はーちゃんの白い顎が大きく開くのが見えた瞬間、
「はあああああっ!」
はーちゃんが息を吸い込む。あのブレス音が、街の喧騒を押し退けて聞こえる。背中ファスナーが大きくふくらんだ。セーラーの肩もぐうっと上がる。大時計で待ち合わせたときから沸騰状態だった俺の、もはや射精寸前。
「だめだあ、胸式呼吸、不自然だよ」
はーちゃんが苦笑い。
「論理は、胸で息する女の子が好きなの?」
そこで文香の顔が色濃く脳裏に浮かんでしまう俺。こんなときなのに、俺の心の中には、それでもふーちゃんが根を下ろしている。
「う、うん…。息吸って肩の上がる子、萌える」
「そうなんだ。まあ、今みたいに一度すうっと吸い込むだけなら、できるよ。でも胸式呼吸でしゃべったり、歌ったり、泣いたりは無理っぽい。自然と腹式になっちゃう」
「そか。そうだよね。でも、お腹で息吸うはーちゃん、今までずっと見てきて、魅力感じてたから」
「そう?」
はーちゃんが嬉しそうに微笑む。この顔が何ともいえずかわいいんだ。はーちゃんのこういう顔、今まで何度となく見てきたけれど、どうしてその魅力を今まで見過ごしてきたんだろう。
「論理…、身体、痛む?」
「あ、そういえば…、いてて」
思い出したように、強く痛んでくる俺の全身。
「ごめん。無理させちゃったかな」
「ううんそんなことないよ!俺が一緒にカットしたいって言ったんだし」
はーちゃんが、俺の頬を優しくさすってくれる。
「せっかく耳たぶおかっぱ、きれいに揃ったのに、こんな顔じゃね…」
「そうだねぇ…。でもさっき寿美さんに撮ってもらった画像、めちゃ大事な記念写真になった」
「うんうん!」
何度もうなずくはーちゃん。
「あたしたちの、始まりの写真だよね」
「うん。俺たち、ここから始めるんだ。はーちゃんも百パーセント生まれ変わったし」
はーちゃんが俺の身体にそっと両腕を伸ばす。その腕の骨の感触が、俺の脇に走った。俺もまた、はーちゃんの肩を抱き寄せる。
「論理…」
「はーちゃん…」
眉上三センチの前髪の下で、はーちゃんが目を閉じる。唇を軽く突き出す。こんな人通りの多い場所で…。でもいい。俺も目を閉じ、そして唇を近づけていく。やがて…ついにはーちゃんの唇に触れた。ふわりと温かい感触をまず感じる。唇の粘膜の薄い感覚が儚い。そんな唇を俺は、その舌でそっとノックする。それに応えて口を開き、舌を絡めてくれるはーちゃん。俺たちの熱い唾液が交ざりあい、愛が口の中に溶けていく。はーちゃん…、その身体、その耳たぶおかっぱ、もう絶対に離さない!
しおりを挟む

処理中です...