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五十四、仲直りのライン

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翌日は午後からの英会話が最初の授業なので、少し朝寝坊できた。十時半ごろに起き上がる。よし、今日もふーちゃんやはーちゃんや恵美ちゃん(博美もいるが)の前に出るんだ、カンペキな俺でいこう。まず髭剃り、そしてぎゅっとうつむいて襟足も剃る。すべすべになったのを確かめて洗顔歯磨き。次いで台所で髪を濡らし、今朝も精魂こめてヘアブロー。切って半月になる耳たぶおかっぱは、一センチ半くらい伸びて、もう耳たぶが隠れている。俺も博美みたいに三週間に一度は揃えないとな…。そう思いつつ、前髪・サイド・襟足ともども、まったくのギザつきなくしあげる。最後にスラックスをはき、紫セーラーを頭からかぶって背中ジッパーを上げる。鏡に向かい、丁寧にブラッシング。耳たぶおかっぱの俺自身と見つめあう。うん、かわいいぞ俺。そして手鏡を合わせ鏡にし、後ろ姿をチェック。少し上に湾曲した襟足のカットラインと、逆富士山型の剃り跡を確認する。口を大きく開き、「はああああっ」と俺は息を吸い込んだ。目立つ俺のブレス音とともにセーラーの肩がぐうっと上がり、吐くと同時にストンと落ちる。ふーちゃんとお揃いの胸式呼吸。
「うん。俺、カンペキだ!」
うなずく俺。立ち上がり、鞄を手に取る。靴を履き、外へ出た。秋風が俺の襟足を撫でていった。

社会学部地下の学食でお昼にし、コーンアイスを買って食べながら英会話の教室に行く。もうふーちゃんがいた。六月一日の赤白ドレッシーワンピ姿だ。
「ハーイ、ふーちゃん」
「あ!論理くーん」
満面の笑顔で俺に手を振ってくれるふーちゃん。その笑顔が嬉しいんだ!ボルドー赤の蝶ネクタイがついた、白い切り替えの胸元も愛らしい。
「あ、論理くんアイス食べてるんだぁ!ねね、一口ちょうだい」
「うん、いいよ」
一つのアイスを互いに食べあう俺たち。仲良くなったよな、ふーちゃんと俺。もうふーちゃん、そのセミロングの中身、何でも俺に話してくれる。俺だって、耳たぶおかっぱに詰まってること、残らずふーちゃんに話す。
「んでさ、ふーちゃん」
「うん?何」
小さな細い日本人形の瞳で、俺を見つめてくる文香。
「はーちゃんに、声かけれた?」
「うんラインしたもん。これこれ」
ふーちゃんがスマホの画面を見せてくれる。こんなやり取りがなされていた。

『やっほー』
『えっ!ふーちゃん⁉︎ふーちゃんか!』
『はーちゃん元気ぃ?』
『ふーちゃん…。なんで…なんであたしにラインしてくれるんだ⁉︎』
はーちゃん、絵文字を使う余裕もない。
『はーちゃんとねぇ、久しぶりに話、したくなった』
『あたしと話…。本当か⁉︎』
『うん。はーちゃんさえよかったら、また話したいもん』
『ふーちゃん…。ありがとう!ありがとう!涙止まんねぇ…』
はーちゃんの大きすぎる瞳から、涙がぼろぼろ流れ落ちているだろう。
『はーちゃん、いろいろあったけどさぁ、秀馬先輩のことはもういいもん』
『ふーちゃん、ごめんよ、ごめんよ。つらかっただろ…。悔しかっただろ…。ごめんよ…』
『いいよはーちゃん。もう水に流そ』
『ありがとう…。ふーちゃん、ありがとう…。ガチ泣きしてる。悪ぃ、ちょっと泣かせてくれ』
そこから通信時刻が五分あいた。いつもの「はあああっ、ああああああんっ!」が想像された。
『すまねぇ…。落ち着いた』
『大丈夫そう?』
『ああ』
『それでさはーちゃん、あのあとどうなった?論理くんから聞いたもん。はーちゃん、いつも裸にされて首輪つけられて、ひどいことされてるんでしょ』
『その通りだ…。ゆうべもケイン百発やられた。身体中が痛ぇ』
ケイン百発?坂口め。はーちゃんを…、はーちゃんを…。
『先輩ひどい…。部室でさんざんはーちゃんいじめたのに』
それでも遥はこんなことを書く。
『秀馬さんを恨んじゃいけねぇ。あたしがわがまま言ったんだ。でも、おかげで今日のレッスン、出させてもらえることになった』
『それはよかったというか、何というべきかだけど…』
『秀馬さんは、あたしがきちんと務めを果たせば、あたしの養成所は理解してくれる。…悪ぃふーちゃん、そろそろ大学行く身支度しなきゃなんねぇ』
『あ、そろそろそんな時間だね。私も服着て髪整えてメイクもしないと』
『なあふーちゃん、』
そこで遥は一旦言葉を区切る。感情が湧き上がっている様子が思い浮かぶ。
『今日大学でふーちゃん、あたしと、話、してくれるんだな』
『うん、もちろんだよー』
『ありがとう…。あたし、またふーちゃんと友だち、できるんだな…』
『はーちゃん、今までごめんねぇ。これから改めてよろしくだもん』
『ああ、よろしくな!それじゃ大学で』
『うん、バイバイ』

読み終わって画面から顔を上げる。文香がにこにこと微笑っていた。
「ふーちゃん、はーちゃんを許してくれてありがとう」
「そうだね」
文香が穏やかにうなずく。
「メグちゃんに泣き落とされたもん。私もはーちゃんの味方になってあげなきゃなぁって思った」
たった一人で、坂口の暴力に耐え続けているはーちゃん。ふーちゃんの言う通り、今のはーちゃんには一人でも多くの味方が必要だと思う。はーちゃん…。そのかわいい顔が、二度と悲しみで覆われないように。
「みんなではーちゃんを支えてあげよう」
「うん」
そのとき、教室に龍堀先生が入ってくる。前を向いて顎を引き、ドレッシーワンピの赤い背中ファスナーをまっすぐ伸ばす文香。肩につく長さで美しく切り揃えられた、少し脂質感のある深い黒髪のカットライン。さあ今日も練習が始まる。やっぱり耐えきれなくなって、ふーちゃんの熱い後ろ頭と、上がる肩に触ってしまう俺だった。そしてまたふーちゃんにニヤーッと笑われ、龍堀先生に呆れられる。
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