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三十三、び・みょー、な関係

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生まれて初めて、本物の道路で車を運転した。隣に教官がいてくれるから心強かったものの、周りの車がみんなライオンみたいに見えてめちゃ怖い。最高速度五十キロというスピードも冷や汗ものだ。手汗でハンドルがびしょ濡れになった。そんな路上教習にも少しずつ慣れていったある日、またスマホに着信がある。今度はふーちゃんからだ。
「あ、ふーちゃん」
ふーちゃんが俺に電話をくれた!嬉々として応答ボタンを押す。やっぱりふーちゃんも憎めない。
「もしもしふーちゃん?」
『もしもーし、論理くぅん』
ふーちゃんの、あの落ち着いた少年声が、受話部から聞こえてくる。すごく久しぶりに耳にした感じがある。
『元気だったぁ?』
「うん元気。ふーちゃんは?」
『バリバリだもん。昨日ね、尾風に帰ってきたんだぁ』
「そうなんだ。実家久しぶりじゃないの?みんな元気にしてた?」
『うんっ。お父さんもお母さんも弟も元気いっぱいだもん』
文香とは三つ違い、今、高一の弟さんがいると聞いていた。
『ねえねえ論理くん、今ね私、お母さんの会社にいるんだもん。論理くんの実家、船東三丁目でしょぉ。ご近所さんだよ!』
「えー、会社、どこにあるの?」
『一丁目だもん。船東商店街に面してる。論理くん『尾州フリーザー』って大きな看板、見覚えない?』
一丁目の、尾州フリーザー…。あ、心当たりある。きっとあの建物だ。あそこが、ふーちゃん家の会社だったなんて。
「あるよ!あの、印刷工場の向かい側じゃない?」
『そうそう!』
「あそこなら俺ん家から歩いて十分もかからない」
『やったあ』
スマホの向こうで嬉しそうに身体を揺すっているふーちゃんの気配。俺も嬉しい。同じ尾風、同じ東区、そして同じ船東商店街。ふーちゃんとは不思議な縁で繋がってるよな。
『ねえ論理くん、今から遊びにおいでよ。お母さんもいるよぉ』
「いいのか?彼氏と誤解されちゃいそうだけど」
すはあああっと、ふーちゃんの深いブレスが受話部から聞こえる。あの肉感のある肩が上がるのが想像された。そしてこう言うふーちゃん。
『されたっていいもん、論理くんとならぁ』
ふーちゃん!危ない発言だぞそれは。本島先輩、盗聴してないだろうな。
『とにかくさぁ、今から来てよぉ。久しぶりに論理くんと会いたいもんー』
そんな台詞をさらりと言ってくれるふーちゃん。できたらそういうこと、ひーちゃんに言ってほしいんだけど…。通話を終えた後、俺は即座に家を出た。

今日の尾風の予想最高気温は三十六度ある。灼けつく真夏の日差しに目を細め、滴る汗を拭いながら、船東通りの賑やかな雑踏を抜け、西に歩を進める。あちこちから油蝉の鳴き声が降り注いでくる。十分ぐらいで、やはり印刷工場の向かいに「尾州フリーザー」の看板を見た。木造の、年季の入っていそうな建物だった。入り口の前に立つ。ヤバいどきどきしてきた。お、俺、中入ってもいいよな…。勇気を出して、扉に手をかける。そして横に開いた。
「こ、こんにちはぁ」
「あ!論理くーんっ!」
中からふーちゃんが飛び出してくる。出会った時に着ていた、黄土色の花柄セーラーワンピ姿だ。お気に入りなんだよな。…でも、今の時季、その格好暑くないのかな。
「ふーちゃん、久しぶり」
「久しぶりぃっ!」
そう叫んで、ふーちゃんはいきなり俺に抱きついた。あ、あうっ…。ふーちゃんのDカップが俺のみぞ落ちにぎゅっと押しつけられる。
「論理くん、会いたかったよぉ。見つめてもらいたかったよぉー」
やめろよふーちゃん。そういう台詞は本島先輩に言えよ。とはいえ、こんなこと言われると嬉しくて顔が赤くなる俺。ひーちゃん大好きな俺だけど、やっぱふーちゃんも魅力的だ。
「ふーちゃん…。相変わらずだね」
「そーだよぉ、相変わらずの、ずいずいずっころばしぃー」
何わけのわかんないこと言ってんだか。でもふーちゃん、俺と会えて嬉しそうにしててくれる。
「あ、そうだ。お母さんいるよ。お母さぁん!」
文香は俺から身体を離し、事務所の奥に向かって呼びかけた。
「はいはい」
高くて細い声がそれに応える。そして、四十代半ば過ぎくらいの女性が出てきた。お母さんか。茶色い髪の毛先を軽やかに梳いて、肩先にまで垂らした姿が、ふーちゃんとは対照的だった。でも顔立ちは、どことなくふーちゃんに似たお人形風味。
「お母さん、この子がこの前話した、論理くんだよぉ」
「あ、そですか。やぁ、初めまして。文香の母です。いつもお姉ちゃんがお世話になってます」
お母さん、なんか、唇の先っぽのほうで、こにょこにょっと発音する口調が独特でかわいい。それにしてもふーちゃん、家では「お姉ちゃん」って呼ばれてるみたい。弟さんがいるからかな。
「こちらこそお世話になっています。よろしくお願いいたします」
頭を下げ合うお母さんと俺。そしてお母さんは文香に向き直って言う。
「それでお姉ちゃん…、論理さん、彼氏さん?」
ほら、だから誤解されるって言ったのに。
「えへへ」
それに対して、いたずらっぽく笑うふーちゃん。
「び・みょー、な関係」
え⁉︎ふーちゃん何それ。微妙な関係って。六月一日の一晩限りの恋人じゃなかったの?なんか困るような…。俺の好きな人はあくまでひーちゃんだし。
「はあ、はあ…。そうですか。びみょーな関係ということで」
お母さん、複雑な表情だ。
「なんか飲みます?コーヒーとかお茶とか、ありますけど」
言葉だけ見ると無愛想な感じがあるけれど、お母さん、全体的に温かい雰囲気を持っている人で、邪険にされているという感じは全然伝わってこない。よさそうな人だな…。
「あ、じゃあお茶飲むぅ。論理くんはぁ?」
「ならコーヒーお願いします。すみません」
「いえいえ、ちょっと待っててください。あ、掛けててください」
手近なところに腰を掛ける俺たち。お母さんは事務室奥の冷蔵庫から、ペットボトルのお茶とコーヒーに、グラスを三つ持ってきた。そして、そのうちの一つにお茶、二つにコーヒーを注ぎ分ける。
「暑かったんじゃないですか、外」
「ええ、汗をかきました」
「論理さん、ご実家はこのあたりで?」
「はい、三丁目です。歩いて十分くらいですね」
こんな会話をお母さんとしながら、俺はコーヒーを口にする。
「お母さん、他の人たちはぁ?」
文香のその言葉で気づく。事務室内にはお母さんだけだ。他の席は皆空いている。
「営業でみんな出払ってるよ。私一人で事務。請求書やらなきゃだから大変だあ」
「確かソフトクリームの原料を卸すのがご家業と聞いておりますが、暑い盛りはお忙しいんじゃないですか」
俺にそう聞かれたお母さんが、軽く微笑む。
「そうですねえ、夏休みはよく売れますね。あちこちでイベントもありますしねえ」
「じゃあ今日は夕方まで、ここお母さん以外に誰もいないのぉ?」
「そうだね、四時半過ぎまで帰ってこないかな」
時刻は三時を過ぎたところだった。
「やった!じゃああとちょっとここで、論理くんとのんびりできるねっ」
ふーちゃんが俺を見て、にっこり(ニヤーッじゃなかった)笑ってくれる。ふーちゃん、小悪魔っぽいとこがあって困らされるけれど、やっぱりかわいい。
「でも俺、そんな長いことお邪魔しちゃっていいのかな」
「いいよいいよ。何も気にしないでー」
そんなことを話す文香と俺を、お母さんは「仲良さげなことで」とつぶやきながら見つめていたけれど、やがてコーヒーを飲み干して席を立った。
「じゃあ私、請求書の続きやってくる。すみませんね論理さん、お構いもしませんで」
「ああ、そんな…。お気になさらないでください」
お母さんは、こちらに背を向けてパソコンの前に座り、作業を始めた。
「ねえ論理くん、教習所通ってるんだって?調子どうかなぁ」
「順調だよ。もう仮免取って路上教習やってる。運転にも慣れてきた」
「やったね!うまくいってんじゃん」
顔を輝かせて喜んでくれる文香。
「でも免許取っても、ペードラでしょ?」
「それがさぁ、親父、知り合いから中古の軽もらってきてくれるらしくてさ。免許取れたら、俺、それ運転させてもらえる。下宿の大家さんの駐車場、借りられるみたい」
「えーっ、すごいぃー。じゃあ論理くんの助手席童貞も私がもらうもんっ」
文香が花柄セーラーワンピの身体を揺する。えー…、ふーちゃんったらまたそんなこと言って。困るよ…。
「ってなことで、私が今度尾風に帰省するときには、論理くんよろしくだもんねっ」
もう、ふーちゃん…。本島先輩の端整なイケメン顔が浮かんできてちょっとやましい。で、でも…、ふーちゃん助手席でロングドライブか。やってみたいぞ。
「論理くん、車もらえるっていうけど、車種はどんななの?」
「パジェロミニだって聞いてる」
「えーカッコいいじゃんー。ねね、百年先まで論理くんの助手席、私が予約するもんっ」
「何言ってんだかふーちゃん。乗るなら本島先輩の車乗れよ」
俺がそう言うと、明るく花咲いていたふーちゃんの顔が、急に萎む。
「……………」
「ん?どうしたふーちゃん」
「徳郎さんはさぁ…」
切なげに顔を伏せるふーちゃん。サイドのカットラインからのぞく白い顎が、小さく動く。「すはあっ」とかすかなブレス音。セーラー襟の肩が、少しだけ動いた。
「きっとこう言うもん。『僕なんかが運転する車に、ふーさんを乗せるわけにはいかない』ってね。『僕なんか』が口癖なんだもんあの人」
「え…?」
僕なんか、が口癖?先輩のことはよくわからないけれど、けっこう僻んだ感じの人なのかな。
「ねえ論理くん」
急に文香が顔を上げる。にこにこ笑ってくれてる。けど…、どことなく乾いた笑いに見えた。
「論理くん、この後予定あるぅ?」
「え、ないけど」
「じゃあさぁ、私、論理くんと行きたいとこあるんだもん」
今度はニヤーッと笑うふーちゃん。またなんかヤバいこと言うぞ。
「え、どこ?」
ふーちゃん、「むふふぅ」と笑うと、人差し指を唇に当て「シーッ」の真似をする。そして机の脇から、メモ用紙と鉛筆を取り出した。ふーちゃんの白くてふっくらした指が、鉛筆をゆっくり動かす。メモ用紙の上には…なんとこんな文字が現れる。
『ラブホ』
「ちょっ!ふーちゃん、何それ」
「シーッ!声大きいもん論理くん」
再び唇に人差し指を当てるふーちゃん。
「ふーちゃん、何悪い冗談言ってるの!」
「冗談じゃないもん。マジで言ってるよぉ。私、論理くんとここ行きたいもん、ここ」
そう言ってふーちゃんは、メモ用紙をぐいぐいと指差す。
「行けるわけないだろ。ふーちゃんには本島先輩がいるじゃないか」
俺だってひーちゃんがいる。付き合ってるわけじゃないけど…。
「だあってぇ」
口を尖らせるふーちゃん。
「徳郎さん、尾風にいないもん。いるの、論理くんだけだもん。だから、論理くんと、ここで楽しいことするもん」
「そんな…。そんなこと言ったって、俺…」
俺の頬をさーっと血が満たす。ふーちゃんと、ラブホ?楽しいことする?即座に俺の頭に、あの六月一日が思い浮かんでくる。ラブホなんだろ、ああいうこと、またするんだろ。ふーちゃん…。で、でもそんなことしたら俺、本島先輩ともひーちゃんとも、目も合わせられなくなる。どうしよう…。それにふーちゃん、本島先輩に不誠実じゃないか。
「ふーちゃん、そりゃ…俺の勝手言わせてもらえば、ふーちゃんとここ行くの、どきどきするけどさ…。でもそんなことしたらふーちゃん、はっきり言ってそれ、浮気じゃん」
「いいもん」
プイッと横を向く文香。きれいに切り整えられた後ろのカットラインが見えた。天使の輪もかわいい。
「…少しくらい、浮気したって」
「そんなこと言うなよ。大変なことだぞ。ふーちゃん、先輩となんかあったんだろ」
「いいから!論理くん」
ふーちゃんは少し大きな声を出してそう言うと、俺の人差し指をつかんで、無理やり『ラブホ』の文字を指差させた。
「これから論理くんは私と一緒にここ行くの。異議は認めません。わかりましたか」
そんな強引な…。俺、これからふーちゃんとラブホ行くのか。どうなっちゃうんだろう…。
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