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第二章 失って得たもの

2-56 モブ冒険者視点

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 まるで時が止まったようだった。誰も話さない、誰も動かない。
 アンリが去り、近衛騎士団長が店を出てから随分時間が経ったはずだが、酒場の中はいつまでもしんと静まり返っていた。
 どのテーブルにも飲みかけの酒が置いてあったが、口をつけようとする者もいない。
 静寂の中、立ちっぱなしで流石に疲れたのか、誰かが溜息と共にどっかりと椅子に腰掛けた。その疲れ切った低い溜息に触発されたように、別の誰かが言った。

「忌人だったなんてな! 今まで知らずに一緒にいたのが気持ち悪ぃや」

 乾いた笑いと共にそう言い放った男を見た。この店に通うようになってまだ日が浅い、若い冒険者だ。俺はそいつの言葉にカッと頭に血が上って、思わず拳を握りしめた。だが俺より先に怒声が飛ぶ。

「おい、今言った奴は誰だ! 出て来い!」

 名の知れた冒険者である古株の客に凄まれて、先程の男は慌てて言い返す。

「お前らだって気持ち悪いと思ったんだろ!? あいつの手を払ったのも、ジョッキを投げつけたのも、俺じゃない。みんなの思いを代弁しただけだ! 誰だって忌人は嫌いだろ!?」

 言い返された方は、ぐっと声を詰まらせていた。
 同じように俺も顔を俯ける。若い男の言う通りだ。アンリが忌人と知って、嫌悪感を抱いた。忌人がそこにいることに、虫唾が走った。
 でも、それを別の奴に指摘されると、言いようのない衝動が胸に渦巻く。この感情の正体はなんだ。やたらと暴力的で、不完全なこの感情の正体はなんなんだ。
 騙されていたことへの怒り? 違う。正体を見破れなかったことへの後悔? 違う。
 言葉に表せないもやもやが消えず、俺は苛々を募らせていた。

 また誰かが言う。

「そうピリピリすんなって。腹減ってんだろ。とりあえず食って飲んで、今日のことは忘れちまおうぜ」

 きっと皆が俺と同じような不可解な苛立ちを抱えていたのだろう。その提案に、そうだそうだと不自然なほどの陽気さで頷き、客達は一斉に酒を呷った。

 酒が進み、酒場はいつもの賑やかさを取り戻した。俺もこの苛立ちは空腹のせいだと決めつけて、食事をがむしゃらに口に突っ込み、酒で流し込んだ。そんな食べ方をしていたせいか、並々と注いであったはずのジョッキがあっという間に空になっていて、それを高く掲げて喧騒に負けないよう大声で叫ぶ。

「おい、アンリ! おかわりをくれ!」

 すると、あれほど騒がしかった店内がまた一気に静まり返った。
 俺の隣に座っていた奴が薄ら笑いを浮かべながら、俺の肩を叩く。

「おいおい、やめてくれよ。酒なら自分で樽から取ってこい」
「そうだぜ、忌人の名前なんか出すんじゃねぇ。酒が不味くなる」
「まったくだ。そもそも忌人のくせに食いモン扱うなんてなぁ。食べて平気かね? 呪いでも含まれてねぇかな」
「あるかもしれねぇな! なんたって忌人だ。見ただろ、あのおぞましい黒!」
「うぇ。食欲なくなるわ、やめろ」

 賛同するようにそここから声が上がり、酒場内は忌人への罵詈雑言で満たされた。だが誰の辛辣な言葉も、どこか薄っぺらく、辿々しい。途切れがちでぎこちない会話が続く。
 その隙間だらけの会話の中へ、早くも酔い潰れたらしい一人が口を挟んだ。

「俺も忌人は大っ嫌いだ! ……でもさぁ、アンリはいい奴だったよなぁ……」

 言った本人はその言葉を最後にぐぅぐぅといびきをかき始めたが、俺達はそれを聞いてはっと息を呑んだ。もやもやとした苛立ちの正体を言い当てられたと思ったからだ。
 忌人は嫌いだ。目にしたくもない。
 でも、アンリはいい奴だった。俺はアンリが好きだった。今も変わらなくそう思うし、またあの可憐な笑顔を見たいと思う。
 忌人という烙印さえなければ、俺達はアンリを追い出すことはなかった。あんな酷い仕打ちを許容しなかった。

 俺達のしたことは、忌人に対してなら間違ってない。
 でも、相手はアンリだったのだ。
 健気で、お人好しで、少し控え目過ぎる所があるものの、凛とした強さを持ったアンリという一人の人間に対して俺達がしたことは、決して許されることじゃない。あの優しい子をどれだけ理不尽に傷付けたことだろう。一体どうしてそんな罪深いことができたのだろう。
 アンリが最後に繰り返した「ごめんなさい」は、本人に何の非もない、謝る必要などどこにもないものだったのに。むしろ謝るべきは俺達の方だ。だというのに、アンリは恨み言の一つもなく、感謝の言葉だけを残して去って行ったのだ。
 重く暗い後味の悪さが、胸の中をいっぱいにする。

「アンリは、“忌人”じゃなくて“アンリ”だったのにな……」

 思わず口から零れ落ちた俺の呟きに、皆が振り返り、肯定するようにゆっくり頷いた。誰もが皆、己の行動を後悔し、己の愚かさに憤っていた。

 もうアンリは戻ってこない。俺達がどれだけ尊いものを失ったのかを思い知った夜だった。
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