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第二章 失って得たもの

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「大丈夫かい? さっき廊下にいただろう。具合が悪いのかな。何か欲しい物があるなら私が取って来よう」

 有り余るほどの心配の色を乗せた声で問い掛けられれば、知らん振りなどできるはずもない。僕は毛布から顔を覗かせた。黙って首を振る僕に、クリストフは穏やかに微笑んだ。あぁ、こんな時だというのに、僕はクリストフが微笑むとどうしようもなく胸が温かくなってしまうんだ。

 ゆっくりと身を起こすと、クリストフが僕の背に手を添えた。

「あの後体調が回復したと聞いていたから安心して、つい家の用事を優先してしまった。具合はどうだろうか。無沙汰をしてすまなかった。実は――」

 クリストフがこの後何を言うのか容易に想像がつく。実は結婚することになって忙しかったのだ、とそう続くのだ。僕は黒い感情が叫び出しそうな胸を押さえて、視線を俯けると先に口を開いた。クリストフの口からその事実を聞かされることが耐えられなかったのだ。

「大丈夫。噂で聞いたよ、クリストフが結婚するって」

 感情を抑えたあまり、酷く無愛想な声色になってしまった。そのせいだろうか、僕の背に当たるクリストフの右手が強張った気がした。クリストフは何も応えず、右手の強張りも解けない。ちらと視線を上げてクリストフの表情を窺った。その軽率な行動を、僕は激しく後悔した。
 クリストフは仄かに頬を染め、照れたように視線を彷徨わせていたのだ。幸せを絵に描いたような花婿の姿だった。
 僕はまだどこかで、実は結婚の話はでたらめな噂で、どこから湧いた話だろうとクリストフが笑い飛ばすかもしれないという微かな可能性を捨てきれずにいた。けれどそれは、誰の目にも明らかな幸福色の笑顔で打ち砕かれたのだ。

「知っていたのか。なんだか面映ゆいな」

 はにかんでそう呟いたクリストフの言葉に、いよいよ僕の心は悲鳴を上げた。
 今すぐここから逃げ出したい。もう何も聞きたくない。
 僕は勢いよく顔を俯けて、毛布をぎゅっと握り込んだ。

「だが随分誇張されているようだ。すぐに結婚という訳ではないんだが……」

 そう続けるも最後は言い淀んだクリストフに、僕は床を見つめながらいつになくぺらぺらと語りかけた。黙っていると良くない感情に支配されてしまいそうだったし、クリストフにこれ以上喋ってほしくなかった。

「相手は平民の人なんだってね。クリストフにそんな想い人がいたなんて全然知らなかったよ。酒場のお客さんにもクリストフの結婚を喜んでいる人が大勢いるよ。一途で男気があるってさ。あと相手は誰なんだろうって皆が噂してたな。あはは、クリストフにとっては迷惑な噂かもね。でも僕もお客さん達の気持ちが分かるな。だってクリストフのような人に選んでもらえて花嫁さんは本当に……」

 焦って言葉を紡ぐあまり口を滑らせたと気付いて、僕は言葉に詰まってしまった。この続きを話したら、僕の妬ましい思いを自ら暴露することになる。
 僕の心に浮かぶ闇を見咎めたように、背にあったクリストフの手が僕の肩を掴んだ。僕はびくりと身を固くして、肩を揺らした。
 どうしよう。何と言って誤魔化そう。
 頭の中で反響するように、大きな心臓の音がする。僕が呼吸を止めていると

「アンリ。どうしてそんな悲しい顔をしているんだい」

 ベッドに腰掛けたクリストフが優しい声でそう言って、僕の頬を撫でた。驚いて視線を上げると、クリストフが困ったように微かに笑っていた。

「私の噂が、君を困らせてしまったんだね。すまない」

 そう眉を寄せて謝罪されて、僕は堪らなくなった。汚れた所の一つもない、清く美しいクリストフに謝らせてしまった汚れた自分が許せなかった。

「違うよ!」

 僕は叫んで、クリストフの胸元にしがみついていた。もう止まらない。僕の汚い感情が心から口から溢れて止まらない。
 
「謝るのは僕の方だ。僕は汚い人間なんだ。クリストフが結婚すると知って、恋を叶えたと知って、祝福よりも先に嫉妬してしまった。相手のことを妬んで、嫌だと思ってしまった。身の程も弁えずに、僕が誰よりもクリストフの一番でいたいと不相応に思ってしまったんだ。だって僕はクリストフのことを――」

 最後の言葉を必死に飲み込んだ。感情に任せて喚き散らす中で、僕は自分の本当の気持ちに気付いてしまった。

 いつからだろう、僕はクリストフに恋をしていたのだ。
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