上 下
57 / 93
第二章 失って得たもの

2-33

しおりを挟む
 クリストフが結婚する。
 なんとめでたいことだろう。クリストフのことだから、たとえ家同士の政治的な婚姻だとしても、花嫁を大切にして幸せな家庭を築くことだろう。次にクリストフに会った時には、目一杯お祝いをしよう。
 そう思うのに、僕の心の有り様は晴れやかなものとは全く対極にあった。冷え切った心の奥底に、自分でも分からないもやもやとした黒い淀みが沈んでいく。

「相手はどこぞの高貴な御令嬢なんだろ?」
「いやそれがな、なんでも平民らしいぞ」
「なんだって? 名門のシュヴァリエ家が認める訳ねぇだろう」
「当然反対されたそうだが、クリストフは頑として曲げなかったらしくてな。とうとう実家が根負けしたんだとよ。相当惚れ込んでんだろうな」
「へぇ、相手の娘は当代随一の色男と名門家の妻の座を一度に手に入れて、まさに玉の輿だな。まるで御伽噺じゃねぇか。クリストフってのは顔だけじゃなくて人生まで王子様ってか」
「いかにも女達が好きそうな話だろ? 今巷じゃクリストフはすっかり女子どもの人気者さ」
「なるほどねぇ。あいつが城下町を警邏してっと娘共が色めき立ちやがって鬱陶しかったが、またうるさくなりそうだな。だから俺はあいつが嫌いなんだ。騎士のくせに悪目立ちしてよ」
「……モテねぇ男の僻みはダセェなぁ」
「あ? なんつったコラ?」

 次第に口喧嘩が激しくなって胸倉を掴み合う二人の間に、別の客が入って宥めていた。僕はその様子を、止めもせずただぼんやりと眺めていた。

 クリストフがそれほど激しい恋をしていたなんて、ちっとも知らなかった。確かにクリストフは頑固なところがあるが、自分の立場をよく弁えている人だ。誰よりもシュヴァリエという家名の重みを理解し、それに適う振る舞いを心がけている。そのクリストフが、家門の使命よりも己の恋情を通すなんて。
 これほどの愛情を注がれる相手とは、一体どんな人なのだろう。クリストフからどんな言葉を囁かれ、どんな風に愛されているのだろう。

 いいなぁ、羨ましいな。

 僕の心にぽつりと浮かんだその感情はとても醜くて、自分のことながら信じられなかった。
 僕は黒の忌人だ。本来なら、クリストフのような高貴な人と同じ場所にいることすら許されない穢れた人間だ。友人という立場を得られただけでも奇跡のようなものなのに、クリストフの想い人を羨み妬むなんて、僕は心根まで穢れてしまった。
 こんな気持ちを抱いてはいけない。僕には人に誇れるような優れた部分は何もないけれど、少なくとも人の幸せを妬むような人間ではなかったはずだ。クリストフが恥と思うような友人にはなりたくない。
 でも。
 クリストフが次に僕の前に現れた時に、僕は心からの笑顔で祝福できるだろうか。人知れず想い続けた激しく一途な恋を成就させたクリストフに、「おめでとう、お幸せに」と言えるだろうか。簡単なはずのその言葉が、今の僕にはとても難しく思えた。

 いっそのこと、幸せに浮かれたクリストフがこのままこの店と僕の存在を忘れてしまえばいいのに。そうすれば、幸福に微笑む彼の口から真実を告げられることもない。それに対して喉を引き絞って言祝ぎを紡ぐ必要も、貼り付けた偽物の笑顔を看破される恐怖に怯えることもしなくて済む。僕は、手は掛かるが善良な友人だったと、年を経てからふと思い出して貰える人間になるだろう。

 けれど、そんなことは絶対にあり得ないのだ。
 責任感が強く、騎士道に忠実なクリストフが、一度は任務として関わったこの店の存在を忘れ、そのままにしてしまうなどあるはずがない。そして僕のことも、過保護なくらいに心配して、全てが解決するまで微に入り細に入り気に掛けてくれるのだろう。クリストフとはそういう人だ。だからこそ彼を尊敬しているし、友人となれたことが僕は嬉しかったのだ。

 さもしい嫉妬に身を灼かれ、臆病な心に支配され、起こり得ない想像でクリストフの人格を貶めてはそれに希望を見出すだなんて、僕はなんて卑劣で醜い人間なのだろう。自分の中に、こんな悪魔のような感情があるだなんて知らなかった。僕が忌人だからだろうか。いや、違う。全ては自分で培ってしまったものなのだ。
 クリストフの愛する人を思い描くだけで、こんなにも卑しい思考に囚われてしまう自分が、僕は怖くなった。

 息苦しさを感じて、自分の胸の辺りをぎゅっと掴むと、カウンターにもたれて息を吐いた。

「どうしたアンリ。また具合が悪いんじゃねぇのか?」

 青い顔で俯く僕に、常連客がそう声を掛ける。首を横に振って、大丈夫、と答えようと息を吸い込んだ拍子に咳き込んだ。胸が熱い。息苦しい。身体の末端からは悪寒が立ち上る。
 治ったと思ったあの加護溜まりの症状が、突然ぶり返したのだ。いや、思い返してみれば、昨日あたりから火照りを感じていたような気もする。気弱になった心に、体が引き摺られてしまったのだろうか。
 僕は胸を摩りながら、今度こそ「大丈夫」と返事をした。
 必死に繕ったその笑顔の裏で、僕の心は黒く塗り潰されていくようだった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

推しの完璧超人お兄様になっちゃった

紫 もくれん
BL
『君の心臓にたどりつけたら』というゲーム。体が弱くて一生の大半をベットの上で過ごした僕が命を賭けてやり込んだゲーム。 そのクラウス・フォン・シルヴェスターという推しの大好きな完璧超人兄貴に成り代わってしまった。 ずっと好きで好きでたまらなかった推し。その推しに好かれるためならなんだってできるよ。 そんなBLゲーム世界で生きる僕のお話。

主人公の兄になったなんて知らない

さつき
BL
レインは知らない弟があるゲームの主人公だったという事を レインは知らないゲームでは自分が登場しなかった事を レインは知らない自分が神に愛されている事を 表紙イラストは マサキさんの「キミの世界メーカー」で作成してお借りしています⬇ https://picrew.me/image_maker/54346

悪役令嬢の双子の兄

みるきぃ
BL
『魅惑のプリンセス』というタイトルの乙女ゲームに転生した俺。転生したのはいいけど、悪役令嬢の双子の兄だった。

管理委員長なんてさっさと辞めたい

白鳩 唯斗
BL
王道転校生のせいでストレス爆発寸前の主人公のお話

俺が総受けって何かの間違いですよね?

彩ノ華
BL
生まれた時から体が弱く病院生活を送っていた俺。 17歳で死んだ俺だが女神様のおかげで男同志が恋愛をするのが普通だという世界に転生した。 ここで俺は青春と愛情を感じてみたい! ひっそりと平和な日常を送ります。 待って!俺ってモブだよね…?? 女神様が言ってた話では… このゲームってヒロインが総受けにされるんでしょっ!? 俺ヒロインじゃないから!ヒロインあっちだよ!俺モブだから…!! 平和に日常を過ごさせて〜〜〜!!!(泣) 女神様…俺が総受けって何かの間違いですよね? モブ(無自覚ヒロイン)がみんなから総愛されるお話です。

不良高校に転校したら溺愛されて思ってたのと違う

らる
BL
幸せな家庭ですくすくと育ち普通の高校に通い楽しく毎日を過ごしている七瀬透。 唯一普通じゃない所は人たらしなふわふわ天然男子である。 そんな透は本で見た不良に憧れ、勢いで日本一と言われる不良学園に転校。 いったいどうなる!? [強くて怖い生徒会長]×[天然ふわふわボーイ]固定です。 ※更新頻度遅め。一日一話を目標にしてます。 ※誤字脱字は見つけ次第時間のある時修正します。それまではご了承ください。

ワクワクドキドキ王道学園!〜なんで皆して俺んとこくんだよ…!鬱陶しいわ!〜

面倒くさがり自宅警備員
BL
気だるげ無自覚美人受け主人公(受け)×主要メンバーのハチャメチャ学園ラブコメディ(攻め) さてさて、俺ことチアキは世間でいうところの王道学園に入学しました〜。初日から寝坊しちゃって教師陣から目をつけられかけたけど、楽しい毎日を送っています!(イエイ★)だけど〜、なんでかしらねけど、生徒会のイケメンどもに認知されているが、まあそんなことどうだっていいっか?(本人は自分の美貌に気づいていない) 卒業まで自由に楽しく過ごしていくんだ〜!お〜!...ってなんでこんなことになってんだよーーーーー!!(汗) ------------------ 〇本作は全てフィクションです。 〇処女作だからあんまり強く当たんないでねーー!汗

愛されなかった俺の転生先は激重執着ヤンデレ兄達のもと

糖 溺病
BL
目が覚めると、そこは異世界。 前世で何度も夢に見た異世界生活、今度こそエンジョイしてみせる!ってあれ?なんか俺、転生早々監禁されてね!? 「俺は異世界でエンジョイライフを送るんだぁー!」 激重執着ヤンデレ兄達にトロトロのベタベタに溺愛されるファンタジー物語。 注※微エロ、エロエロ ・初めはそんなエロくないです。 ・初心者注意 ・ちょいちょい細かな訂正入ります。

処理中です...