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第一章 孤児院時代

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「……アンリ、起きて」

 囁く声と共に優しく肩を揺らされてゆっくりと目を開く。泣いたせいか瞼がヒリヒリと痛かった。毛布からそっと顔を出すと、皆寝静まり部屋の中も外も真っ暗だった。枕元に誰かが立っている。

「マルク……?」

 聞き慣れた声だったからすぐに誰と分かったけれど、そんなはずはないと浮かれた心を否定した。体を起こしながらまじまじとよく見れば、そこに立って僕を覗き込んでいたのは確かにマルクだった。

「夢?」
「なんだ、寝ぼけてるのか」

 呟いた僕に、マルクがおかしそうに笑った。少年らしい晴れやかな笑みは間違いなくマルクのそれで、優しく前髪を梳かれる慣れた感覚がこれが夢ではないと伝えてくる。

「泣いてたのか。腫れてる」

 マルクの親指が、僕の目元に触れた。頬に当たるマルクの温かな手のひらに思わず顔を擦り寄せた。

「……ッ。ごめん、俺のせいだよな」

 一瞬たじろいだように見えたマルクは、すぐに眉尻を下げた。僕はマルクがまたこうして話しかけて触れてくれることが嬉しくて、意味も分からずただ首を振った。

「話があるんだ。ついて来て」

 マルクが僕の手を引いた。みんなを起こさないようにそっとベッドから下りる。
 どこに行くのだろうと思っている内にマルクは部屋を出て、廊下を抜け、孤児院の玄関を出た。仕事さえしていればどこを出歩いてもあまりうるさくは言われない孤児院だが、流石に夜中に抜け出したとあっては見つかれば大目玉を喰らうだろう。僕は冷や冷やとしながら何度もマルクの顔を盗み見たのだけれど、マルクはまるで冒険を楽しむかのように笑っていた。それを見ている内に僕も段々と気分が高揚してきて、マルクが真っ暗な農道を駆け出した時は笑いが溢れてしまった。マルクに手を繋がれたまま走ると、すごい速さで景色が流れて行く。足がもつれそうになるけれど、必死で足を動かしてマルクについて行った。もちろんマルクは本気で走ってはいなくて、僕を振り返って楽しそうに笑っていた。星の瞬く夜空を背景に笑うマルクは、世界全部をキラキラと輝かせているようだった。
 やっぱりマルクはすごい。マルクは特別なんだ。僕は見違えるように美しくなった世界とマルクに見惚れていた。

 孤児院近くの辺鄙な場所から繁華街に近づいてくると、ぼんやりと空も薄明るくなって夜中でも酒場の喧騒が聞こえてくる。それを横目に、マルクは足音を忍ばせて路地裏を右へ左へと慣れたように歩いた。マルクがどうしてこんな場所に詳しいのだろうと不思議に思ったが、段々とマルクの歩く速度が速くなっていたのでついて行くのに必死だった。
 その内にまた繁華街から少し離れ、ひっそりと静かな住宅地になった。街で働く雇われ人達の住まいなのだろう、小さく簡素な家がいくつも立ち並ぶ中の一つの前で足を止めた。一際小さなその家は、ともすれば廃屋にも見えるような荒れた家だった。玄関の木戸は下の方が朽ちていたし、外壁の漆喰も所々剥がれていた。敷地内の地面は背丈の高い雑草で埋め尽くされており、ここが空き家だと一目で分かった。
 マルクは戸惑う僕の眼前に、鈍く光る金属を掲げて見せた。どうやら古びた鍵のようだった。

「これは……?」
「この家の鍵」
「どうしてマルクが持ってるの?」
「いいから、中入ってみて」

 急かすように促され、僕はいいのだろうかと思いながら渡された鍵を玄関戸の鍵穴に差し込んだ。回すと鈍い手応えと共に錆びついた金属が擦れる音がした。そして、傾いでいるせいか戸が軋んだ音を立てて勝手に開く。恐る恐る足を踏み入れると、外観に比べて中は綺麗に掃除され片付いていた。一つしかない部屋の中には一台のベッドのみ置かれ、それでも僕達二人が入れば自由に動けるスペースはほとんどないほどの狭さだった。

「この家、俺が借りたんだ。今日やっと、鍵を貰えた」

 キョロキョロと部屋の隅々まで見回していると、照れ臭そうに小さな窓を見つめながらマルクが言った。

「えっ、借りた!?」

 驚きのあまり思わず大きな声が出てしまった。これだけ家が密集した場所で深夜に大声を出しては迷惑だろうと、慌てて声を潜める。

「だって僕達孤児にはお金もないし、知り合いもいないし、いくらマルクだって家を借りるなんて……」
「孤児院の仕事で遣いに出された時に、短い日雇いの仕事をしてたんだ。俺の加護の力が案外重宝されてさ。毎日外に出される度に少しずつ人脈広げて色んな仕事もらって金を稼いで。ここの大家もそうやって知り合った。俺、昔から大人に気に入られるの得意だからさ」

 これまでもマルクのおつかいの帰りが随分遅いことは多々あって、そういう日は決まって疲れた顔をしていた。僕は呑気におつかいも大変なんだなぁと思っていたが、それは別の仕事を請け負っていたからだったのだ。毎日のように僕に持ってきてくれたお土産のお菓子も、きっとマルクがそうして稼いだお金で買ってくれていたのかもしれない。
 ぽかんと口を開けたままの僕を見て、マルクは悪戯が成功したように、にっと口の端を持ち上げて笑った。不敵な笑みもマルクには良く似合う。

「泣かせてごめん。とにかく早くこの家を手に入れたくて。そうじゃないと俺は嫉妬でまたやらかす気がしたし。不安にさせてごめんな」

 心配そうに眉を寄せて、マルクが腫れたままの僕の瞼に触れた。マルクの綺麗だった指先はいつからこんなにかさついていたのだろう。働き者の温かな手だ。

「俺は十五になったら孤児院を出てここに住む」

 マルクが力強い口調でそう言った。
 家を借りるということはそういうことなのだろう。予想通りの言葉に、僕は頷いた。
 マルクは昔から口にしたことは必ず成し遂げてきた。それは綿密な計画と堅実な実行力によって実現されてきた。自立する為の足場固めも、ずっと以前から始めていたのだろう。
 しかし、いくら要領のいいマルクでも、無一文で家を借りるには相当苦労したはずだ。一体いつからお金を貯めていたのだろう。その為の人脈作りをどのくらい前からしていたのだろう。そもそも、家を借りる計画は何歳から考えていたのだろうか。もしかしたら、初めて僕に自立したいと夢を語ったその時には既に考えていたのかもしれない。マルクとはそういう人だ。

「そうなんだ……。すごいね、マルクは。心から尊敬するよ。マルクならきっとここから成功していけると思う」

 最高の称賛の言葉を贈ったつもりだったけれど、マルクはにこりともせず、むしろ緊張に顔を強張らせた。何か失礼な発言だったろうかと首を傾げると、マルクが僕の肩を掴んだ。

「アンリもだ。アンリもここで一緒に住もう」
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