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第一部 旅立ち

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 ピッポはあの嵐の日と全く同じ恐怖が、骨の髄まで染み渡るのを感じながら走った。恐怖の中の恐怖……ピッポは足がすくむのを感じたが、それでも足を止めず、走り続けた。

 間もなく彼の前に十字路が現れた。暗闇の中にぼんやりと案内板が見えている。このまま東にまっすぐパタフル大通りを進めばエレンの家、右に曲がればパタフル川がある。一方左の道は危険とされ、案内板には

「この先『さざ波が丘』 危険 立ち入り禁止」

と赤いペンキで書かれている。ピッポはそのまままっすぐ進もうとした。しかしその足が止まった。ピッポは再び、あの歌を聞いた。

ノーゴルとその三つの子 それらが君らの救いの手

ここから逃げてみたければ 直ちに仕えよ我らが王に

ここから逃げるというならば、消えて居るのは君だけだ……


歌は、左の道から聞こえてきていた。ピッポは歌の誘惑と戦った。しかし彼の足はのろのろと、本来行くべきでない、左の道へと動き始めていた。

 きれいな調べだなあ。エレンの忠告なんて、馬鹿馬鹿しいじゃないか。この歌の方向へ行こう。きっとこの歌が僕を助けてくれる。

 ピッポは歌の誘惑に惑わされ、左の道をずるずると歩き始めた。

 この道がどこに行き着くのか、知る者はあまりいない。森があること、そしてそこにさざ波が丘という場所が存在することだけは知られていた。しかし樽村の北、パタフル山脈の麓に位置するこの森は不吉な場所とされ、人が立ち入ることはほぼなかった。一説によれば、そこは遥か昔の時代、奇妙な種族が棲んでおり、今でもその生き残りが人を襲うのだとされていた。そしてさざ波が丘は、その種族の拠点なのだと。森に入った者は、口を揃えて二度と行きたくないと語ったという。
 ピッポは引きずられるかのように道を進んだ。はじめは草むらが道の左右に広がっていたが、段々木が増えてきて、やがて鬱蒼とした森を形成しはじめた。歌はやがて消えてきて、今度はもっとはっきりした声になった。か細く、冷たい声だった。

『おいで、こちらに来なさい。おいで、おいで、おいで……』

ピッポは震えた。しかし足は勝手に動き続けた。こうしてピッポは、さざ波が丘に向かってゆくのだった。
 やがて舗装されていない土道があらわれた。周囲には木が生い茂り、枝が彼を手招きしていた。そよ風が吹きピッポを押す。おいでおいでと呼ぶ声は耳ではなく、ピッポの心の奥に響いていた。ピッポは気の遠くなるような長い間、この恐怖の道を歩み続けた。

「抵抗しなくては……エレンさんに危機を知らせないと……」

ピッポは必死で呟いた。しかしその声は風に揉み消され、消え去った。そしてピッポは『おいで、おいで』と呼ぶ声に従って、歩き続けた。

霧が立ちこめてきた。どのくらい歩いたのだろう。あたりが何も見えなくなり、道もわからなくなってきた。だがピッポの足は止まらない。しかし次の瞬間、視界が開け、そして……ピッポはさざ波が丘に到着したのだった。

 ピッポは霧の海の中に、小高い丘を見た。丘の上には奇妙な形をした二本の棒がたてられており、朧な月明かりに照らされて不気味な存在感を放っていた。しかしピッポの目をひいたのは、その隣にいたものだった。マントを羽織り、漆黒の鎧を身につけた姿が、月明かりの中に浮かんでいた。顔はほとんど見えない。しかしその手は夜に差し出され、ピッポに手招きしていた。

「来たな、ポップス・・・・よ……我が名はゲルシュニッヅ。前も会ったな」

ピッポは答えなかった。撃退されたはずのゲルシュニッヅが、またパタフルにいる。

「この前は貴殿とお友達を乱雑に扱ってしまった……申し訳ない。だが今日は何もせぬ、君が私の話を聞いてくれるのならば。さあ、ここに来てくれ」

ピッポは「嫌だ」と言おうとした。だが声は出なかった。一方で彼の足は勝手に上がり、ピッポはのろのろと丘を登り始めた。段々と、ゲルシュニッヅの姿が近づいてくる。霧の中、ピッポは氷のように冷たい恐怖を味わっていた。

 「ここに来なさい」

ピッポが丘の最上部までやってくると、ゲルシュニッヅは優しげな声で言った。ピッポは言われるがまま、影の隣に並んだ。

「さあ、見下ろすがよい」

そして彼は指示に従い、さざ波が丘の頂上から、眼下を見下ろした。ゲルシュニッヅが手を上げると、丘の頂上にある二本の棒が紅く光り始めた。そのぼんやりとした光が闇の中に広がる。霧が晴れ、何かが見えてくる。

 それはピッポのパタフル畑だった。踏み潰されている……段々と見えてきたのは、パタフル大通りを行進する大軍勢だった。大きいのも小さいのも、太っているのも痩せているのもいたが、皆どす黒い甲冑を身にまとっている点において共通していた。手には松明が握られ、パタフルの至るところに火をつけていた。ベルズ書店や、《樽々亭》が炎上している。そしてピッポの家にも炎が……

「そんな、駄目だ!」

ピッポは叫んだが、声にはならなかった。

 軍勢は遂に樽村の中心にある役所に到着した。そして火をつけた。男が走り出てきて……パンクだ……棒を振り回して抵抗したが、あっけなく突き飛ばされた。軍勢は遂にパタフル全体を燃やし尽くした。パタフルの住民達(ピッポの友人や、お世話になった方々すべてを含んでいた)が連行されてくる。血だらけになったパンクもいるし、パタフル村に住む親友・ポットーもいた。皆恐怖に怯えている。軍勢は彼らを取り囲み、それぞれ紅い弓矢を構えた。矢の鋭い切先が村人達の方をまっすぐ向いている。軍勢の隊長と思われる動物の毛皮を身に纏った男が進み出、合図すると、軍勢は一斉に矢を放った。そして人々の痛々しい悲鳴と鮮血が、パタフルを貫いた……

ピッポは目を背け、ゲルシュニッヅを見た。ピッポの目には涙が浮かんでいた。ゲルシュニッヅが静かに言った。

「安心したまえ。これは未来だ。そう遠くない未来、このまま行けば現実となる未来。私が、この丘が、未来を見せたのだ」

 ピッポははっとした。まだ皆は生きている!安堵の感情が広がると共に、この男への強い憎悪が湧いてきた。ピッポははっきりと、こう言った。

「なぜこのようなものを見せるんだ、早くパタフルから去れ!」

 ゲルシュニッヅは内心驚いた。というのも、ここまで魔王の子に抵抗できる者など、そうそういなかったからだ。しかしゲルシュニッヅは言った。

「貴殿は何故、パタフルが狙われるか、解っておるつもりなのだろう。エレン・ベナードがいるからだと。我らの狙いは彼の殺害にある、と……しかし、それだけではない」

ゲルシュニッヅはここで少し間をおき、剣を抜いた。刻まれた紋様が、闇夜のなかで鈍く光る。ゲルシュニッヅはその切先をピッポの首筋に当てた。ピッポは鉄の冷たさを感じて震えた。

「……君がいるからだ。ペレン・アセンプト・ペルプ・ポン・ポル=ポップスの子孫を見つけ、連れてこい。それを邪魔する者は殺せ。これこそが、我が父からの第二の密命。私には解っているよ……君こそがペレンの曾孫なのだろう?」

 ピッポは答えなかった、答えられなかった。彼は骨の髄まで凍る思いだった。ピッポが震えた為にゲルシュニッヅの刃が首に触れ、血が一滴、滴り落ちた。奴らに僕の出自がばれている……そして奴らに狙われている。

「君が抵抗し、パタフルで隠れ住もうというのなら、魔王は暗黒軍をパタフルに送るだろう。結果は君が今、見た通り」

 ピッポは漸く気づいた。パタフルの人々が平和に暮らすためには、自分は居ては行けない存在なのだ……

「しかし、だ。魔王は何の悪事もしていないパタフルの者達に、ひとまずの慈悲を与えられた……君が今すぐ私と共にゼズノゴールへ行けば、パタフルには何の危害も加えないことを約束する。」

ゲルシュニッヅは剣をおろしてそう言った。ピッポは思った。

「僕がゼズノゴールに行くということは、すなわち僕が死ぬということなのだろう。でも僕の命一つと、パタフルの皆じゃどっちが大切なんだ?勿論、皆だ。ペップやパンク、ポットーが苦しんで死んでいくのを見ているわけにはいかない!」

そしてピッポはごくりと唾をのみこみ、ゲルシュニッヅを見据えてこう言った。

「わかりました。僕の命と引き換えにパタフルが救われるのならば、僕は喜んでゼズノゴールへ行きましょう」

 ゲルシュニッヅはそれを聞くと、何も言わずに手を差し出してきた。ピッポは恐る恐るだが、それに応じようとした。しかしその瞬間、ピッポはエレンを思い出した。彼ならどうしたのだろうか?みすみす自分の命を差し出したのか?まさにそれこそ、魔王の思うつぼなのではないのか?ピッポはその思った瞬間、自分の血が滾るのを感じた。そして彼は、たった一つの正解を導き出した。

『パタフルを出て、二度とここに戻らない。ペレンの子孫として、最期まで戦い抜く。』

ピッポはゲルシュニッヅの手を押し退けた。そして彼自身には思いもよらぬ強い意思で、こう言った。

「前言撤回!僕もパタフルを出ます、だがゼズノゴールには行かない……僕も旅に出る、そう僕の曾祖父のように!」

そしてピッポはものすごい速度で丘を駆け降り、一目散に森へと向かっていった。

 ピッポは強い意思と、勇気を示したのだった。それは紛れもなく、英雄ペレン・アセンプト・ペルプ・ポン・ポル=ポップスの曾孫の行動だった。

 その姿は忽ちのうちに、闇夜に消えた。あとに残されたのは、魔王の子、ゲルシュニッヅだった。















 
 


    
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