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「な、名乗るほどの者では……」
「そうおっしゃらず。レディ、どうか教えてください。あなたに命令はしたくないのです」
 瞬殺だった。それも恐ろしい脅し付きで。
 ここで命令など出されては答えないわけにはいかない。この衆人環視の中、本名を。
 命令に対して答えないのも極刑、偽るのも極刑だ。月の魔力だの王子の婚約者だの伯爵令息だの、そんなものは全く関係なしに、問答無用で極刑だ。
 とはいえ、やはり混乱した頭では偽名など思い付くはずもなく、姉に助けを求める視線を送らぬよう全力で顔を固定するしかできない。本名を名乗るのも拙いが、姉と関係があると知られても問題だ。すぐに素性など知られてしまう。
 幸いに今日乗ってきた馬車は家紋など入っておらずごくごく普通のものだ。見ただけではどこの誰かなどわからないだろう。つまり何とかして馬車に乗り込み出発さえしてしまえば、素性も女装も知られることなく隠し通せる。姉には申し訳ないが、馬車が戻るまでこの店に居てもらおう。大丈夫、屋敷は遠くなく、むしろ近いので、そう長く姉を待たせることもない。
(よし、逃げられる)
 あとはこの手をやんわりと掴んでいる王子の前からどうやって逃げるかだ。
「レディ?」
 黙り込んでしまったゼノンを王子がのぞき込む。その顔の近さと焦りで、ゼノンは思わず唇を開いた。
「こ……」
 こ? と王子は首を傾げながらもゼノンの言葉を待つ。そんな王子の顔を見ていられなくて、ゼノンはギュッと瞼を閉じながら叫んだ。
「この世の者ではございませんッッ」
 ピシッ――と空気が凍ったのがわかった。しかしゼノンはあまりの焦りで自分が何を口走ったのかも理解せぬまま、王子の力が抜けたことを幸いに腕を引き、全力で踵を返す。しかし途中で大切な商品を持っていないことに気づき、ゼノンの買った商品の入った紙袋を持ったまま呆然としている店員に足早に近づいて「ありがとうございますッ」と叫ぶように言って紙袋を受け取ると、今度こそ全速力で店を出て馬車に乗り込んだ。
「早く出して!」
 叫べば御者もすぐに馬車を走らせる。その姿を店の中にいた者たちは呆然と見送り、唯一事情を知るアナスタシアは必死に笑いを嚙み殺していた。
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