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休んで良いんだよ

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 早くに授業が終わった周は友人たちとルームシェアをしている家のリビングで取り込んだ洗濯物を畳んでいた。今日の夕飯は何にしようかと考えていれば、カチャ……、ととても小さな音がして扉の方へ視線を向ける。そこには朝早くに大学へ行っていた雪也が立っていた。
「おかえり」
「……ぅん、ただいま」
 柔らかく微笑んでいるものの雪也の声はどことなく震えていて、目もわずかに赤く染まっていた。どう見ても様子がおかしい。それは雪也も自覚しているのかそそくさと二階の自室へ向かおうとするが、その腕を周は優しく掴んで引き留めた。
「何でもないよ。大丈夫だから」
 周の顔を見ずに早口でそう言う雪也であったが、周はそっと雪也の手から鞄を取って床におろし、ソファーへと誘った。
 わかっている。雪也は穏やかであるが、見せないだけでプライドが人一倍高い。弱っている姿など見せたくはないだろうし、心配させたくないとも思っているだろう。けれどこのまま行かせてしまっては、雪也は誰にも頼らず独り悲しみに耐え、声さえも殺して泣くのだろう。次に顔を見せる時には普段通り振舞えるようにすべてを自分の中に隠して。周は雪也にそんな悲しいことをさせたくはなかった。
 ソファーには座らず、それを背もたれにして床に直接座った周はただただ俯き黙って立っている雪也の腕を優しく引いて膝を立てた足の間に座らせ、彼の背中からそっと抱きしめた。その心が少しでも温もりに包まれるように。
「……何か、あった?」
 そんな周の問いに雪也は無言で首を横に振る。そう、特別何か大きなことがあったわけではないのだ。こんなことで落ち込む方が間違っているほどに。自己嫌悪に陥って、雪也はますます俯いた。
「じゃぁ……、疲れちゃった?」
 その問いには、何も返すことができなかった。
 疲れた――。そうだ、この異常な脱力感と胸に巣くう気持ちの悪さは言葉で表すのならば、疲れた、なのだろう。けれどそれを認められない雪也に、周はわかっていると言うかのように微笑んだ。
「そっか。疲れちゃったんだね」
 何も答えず俯くばかりの雪也に、頑張ったんだね、と周は優しく囁いて目の前にある長く美しい髪をそっと撫でる。
 雪也は真面目で頑張り屋だから、大学の友人たちや教授たちが自然と頼ってしまうのだ。雪也はあまり断らないから、彼らにとっては何かを頼めば〝はい〟と引き受けてくれるのが当然で、雪也が差し出したすべては非の打ち所がないほど完璧であって当たり前なのだ。雪也が嫌な顔をしないから、いつも成績トップだから、その為に彼がどれだけ努力し、時間を削り、頑張ったかなど見向きもしない。ほんの僅かでもミスがあったり、思っていたものと違えばため息をつき、あるいは厳しく注意するのだ。他の生徒であれば笑って許されたり、優しく教えてもらえるものも、成績優秀で真面目な雪也には許されない。そして雪也は完璧主義者だから理不尽な扱いに怒ることもせず、ただただ求められたものを出せなかった自分を責め、沢山のことで頼られて疲れている自分を許さない。それを知っているのは、周を含めこの家でルームシェアしている友人たちとこの家の東側に住む先輩たちだけだろう。
「疲れても、良いんだよ。皆、雪也は大丈夫だって思って何でもかんでも頼むんだろうけど、雪也だって皆と同じように疲れるし、調子が悪い時だってあるんだから。俺が雪也と同じことしたら、絶対疲れちゃうよ。俺だけじゃない、皆疲れちゃうし、そもそもできないよ。雪也は頑張り屋さんだから皆つい頼っちゃうけど、でも、疲れちゃうよ」
 とん、とん、と抱きしめた手で優しく肩を叩けば、雪也の眦からどんどんと流れ落ちて頬を濡らす。それでも彼は唇を噛んで嗚咽ひとつ漏らさなかった。
「ちょっと休もう。ね? たまには休まないと、ずっと疲れちゃう。だから、少し休んだら良いんだ。それは皆に許されていることなんだよ。雪也だけが許されないなんてことないから。少し休んで、また頑張れる時になったら、その時はまた一生懸命やったら良いんだ。だから今は、ちょっと休もう」
 雪也の髪を一つに結んでいたヘアゴムをスルリと取ってやれば、長い髪はクセもつかずに彼の背に流れた。引き寄せれば、腕の中の身体は逆らうことなく周の胸にもたれかかってくる。静かに、しかしとめどなく涙を流すその瞳を片手で覆ってやる。
「大丈夫だよ。雪也はいっぱい、いっぱい頑張ったんだから」
 優しく甘やかしてくれる声音に、雪也は胸に巣くっていた気持ち悪さが少し晴れたような気がした。思い出したかのように大きく深呼吸する。気づけばクッタリと力を抜いて周に身を預けてしまっていたが、その温もりが心地よかった。早く離れないと周に迷惑がかかる。雪也は大柄ではないとはいえ大学生の男を支えるのは力を使ってしんどいだろう。そう思うのに周はまるで許しを与えるかのように雪也の身体を強く抱き寄せて、幼子をあやすようにとん、とん、と優しく肩を叩いてくれる。熱を孕んだかのような瞼はどんどんと重くなって、もう開けていられない。
(ごめん……、もう少しだけ……)
 胸の内で周に謝って、雪也は引き寄せられるがままに深く意識を沈めた。



「ただい――……」
 蒼がリビングの扉を開けながら途中で言葉を途切らせ、目を見開いてしばし思考停止する。蒼の視線の先、ソファーのある場所で周と雪也が穏やかに瞼を閉じてグッスリと眠っていたのだ。それも、周の腕は雪也をしっかりと抱きしめており、雪也もそんな周に甘えるように全身を預けている。
(え、ついに告白したの? いや、でも……)
 もしも周が積もり積もった恋心を雪也に告白したとしても、相手は超がつくほどのド天然。告白だけで上手くいくのならば、そもそもここまで周が悩むことも周りがヤキモキすることも無いはず。
 蒼は首を傾げながらも、そっと物音を立てずに自室へ戻り大判のひざ掛けを手にリビングへ戻ってくる。二人を包むようにひざ掛けをかけて、蒼も周の横に座った。
 詳細はよくわからないが、雪也の頬に泣いた跡があるということは何か辛いことでもあったのだろう。告白云々の恋愛絡みであるなら蒼がここにいるのはお邪魔かもしれないが、そうでないのならむしろここに居た方が良いような気がした。しかし無音の中で二人の寝息を耳にしていると蒼もどんどんと眠くなってしまう。耐え切れぬとばかりに欠伸をこぼして、蒼も瞼を閉ざした。

 由弦が帰ってきて蒼とは反対側の周の隣に座り、最後に帰って来た湊は蒼の肩に頬を寄せるようにして。そして五人は夕飯前まで気持ちよさそうに無垢な眠りを貪った。
 夕飯は急遽出前になってしまったが、たまにはこんな日も良いだろう。夕飯よりも何よりも大切なものがある。そしてこの家の住民は決して、それを間違えることはないのだから。

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