上 下
42 / 49
番外編

東京は午後の二時

しおりを挟む
 ――すまん、今晩無理だ。
 日中に上津原さんから電話が入ったからなんとなくそうかなと思った予想通りに、今晩一緒に夕食を食べに行く予定キャンセルの連絡だった。

「なんとなくそうかなって気がしました」
『ああ? なんだそりゃ』
「え、だってこの間ちょっと難しそうな治療してるって言ってたし」
『あーまーそれとほか諸々だ。たぶんそっちにも寄れねぇ……たまには早く寝ろ』
 はい、と答えながら色々重なったんだなと思った。
 朝布大学獣医学部内科学第三研究室、教授・上津原聡かみつはらさとし
 大学附属の動物病院で週一回診察も担当している、研究者で獣医。
 普段は無精ひげで強面の怖い四十過ぎのおじさんだけれど、きちんとすれば渋いイケメン獣医なんて呼ばれるくらいで、TVの教養番組なんかにも出て、大学の広告塔的な存在でもあるらしく……。
 とにかく、一体、いつ休んでるんだろと思えるほどずっと仕事をしている人だから、こうして予定変更になる事は珍しいことじゃない。
 むしろ仕事じゃないのに、出来る限り時間を作ってくれたりするから、うれしい反面ちょっと申し訳ないような気もする。
 こちらだって人の事はあまり言えなくて、原稿が進まなかったり急な仕事が重なったり、彼と同じようにごめんなさいとなる時があるので。
『……張合いねぇな』
「え?」
『結構残念なんだが? 俺は』
 塔子、と少しだけ熱ぽいような調子で電話越しに囁かれてどきりとする。
 上津原さんに、名前を呼ばれるのに実はまだちょっと慣れていない。
 彼もそれをわかっていて、時々からかってくる時がある。
「なっ……またそうやって、こっちの反応楽しむのやめてください」
『はあ? ったく、明後日あたり時間出来そうだから、また連絡する。ちゃんと寝て食えよ』
「いつも疎かになってるわけじゃないですから」
『どうだか……じゃあな』
 なんとなく慌ただしい気配で電話は切れた。
 たぶん仕事の合間で、いま連絡しなければ約束の時間より先に電話は無理な状況なんだろう。
 メールでも大丈夫なのに、この手の連絡は必ず電話でくる。
「ふーん、結構残念ねー。ドタキャンしておいてねー」
 後ろからした声に慌てて振り返ると、打合せに家に来ていた松苗さんがにやにやして立っていた。
「声でかいから漏れ聞こえてるっての、メールで済むことわざわざ電話で言ってくるなんて愛されてるじゃないの」
「ちょっ、松苗さんっ!! なに聞いてんですかっ」
「だって気になるじゃない。塔子の話聞いてるとなんかでれっでれぽいし。てか、なにあの男は。バツイチの癖に恋人になったら甘々になるタイプ?」
「それ、バツイチは関係ないんじゃ……あとでれっでれなわけでも」
 愛想がなくて怖いのは、カドワカの雑誌で対談していた頃と変わらない。

 上津原さんと出会ったのは、この目の前にいる、私が作家デビューした時からの担当編集者、出版大手カドワカ・書籍部の松苗さんがきっかけだ。
 恋愛経験ほぼゼロな恋愛小説家で引き篭もり人間だった私に疑似恋愛を経験させるためだけに、松苗さんは、雑誌部にいる後輩の若手編集者早坂さんを経由して、彼が雑誌で担当している『動物と人の距離感』のコラムをまとめた本がベストセラーになっていた人気イケメン獣医な上津原さんとの恋愛対談連載企画をかなり強引に通した。
 連載自体はそこそこ好評だったようで、それをまとめた本も出ている。
 対談ページを撮影していたカメラマンの|弓月(ゆづき)さんの写真の良さもあって、ほとんど上津原聡写真集のような扱いで、女性客を中心に本は売れているそうな。
 それはともかく、紆余曲折あったものの、つまりは、松苗さんの掌の上で踊らされた上で、本当に上津原さんとお付き合いすることになってしまっているわけで、だから松苗さんに上津原さんの事をからかわれると恥ずかしさは倍増してしまう。
 松苗さんもそれをわかっててからかってくるんだから、人が悪い。
「あの仕事最優先、年間休日実質一桁男が隙あらば会いたいって連絡してくるんでしょう? それをでれっでれと言わずしてなんと言うのよ」
 背後から抱きついてきて、耳打ちしてきた松苗さんに思わず顔が熱くなる。
 ふわりと松苗さんのつけている香水が鼻先をくすぐったのに小さくくしゃみが出た。
「松苗さんっ」
「ねーねー上津原氏とのデートなくなったんなら、あたしとデートしない? 神楽坂に日本酒美味しいお店があるの。最近、行ってなくて」
「いいですけど、早坂さんは?」
「なんで早坂が出てくんのよ」
「え、だって……」
 たぶん早坂さん、松苗さんを好きなんじゃないかなあと。
 この間も、松苗さんの好きなお菓子屋さん聞いてきたし。
 本人は「最近忙しそうで気が立ってて松苗先輩……ここらでご進物でも入れとかないとまた連れ回されますから」、なんて言ってたけれど。
 でもって松苗さん、確かに社交的だけど仕事付き合い以外であまり自分から人誘ったりしないの、たぶん早坂さん知らないよね?
「なによ。あっ、そういえば、来月からの野人時代の新連載、担当早坂なんだって? あいつある事ないこと塔子に吹き込んでないでしょうね?」
「ないですないですっ、ま、松苗さんっ肩がくがくしないで~」
「ならいいけど」
 解放されて、はあっと息を吐いて松苗さんを盗み見れば、まったくなんで早坂なのよ……いやでも他の奴はちょっとやだけどなんてぶつぶつ言っている。
 普段、仕事では厳しい編集者で、友人としては年上の頼れるお姉さんみたいな松苗さんだけれど時々私よりよっぽどかわいらしく思えるところがある。
 どんな反応返ってくるか怖いから、絶対に本人には言えないけれど。
「や、でもほら松苗さん早坂さんにすごく目をかけてるみたいだから」
「そりゃ舎弟だもの」
「舎弟……。春先にテートパレスでランチデートしたんですよね?」
「元はといえばあんたが失踪なんかするからっ、早坂に色々付き合わせてちゃってそれでよ。お詫びよ。あとデートじゃないから、麻雀で早坂から巻き上げたお金であたしが奢らされただけだから」
「平日夜にご飯ならともかく、休みの日は一人で過ごしたいタイプな松苗さんが休日のお昼になんて珍し過ぎて……」
「あいつが昼がいいって言ったのよ。仕方ないでしょ、あたしたちは勤め人なんだから……って、もう梅雨も明けたのにいつの話してんのよ」
 セミロングの髪をかきあげながら、「最近、塔子がタチ悪くて嫌んなっちゃう」とダイニングテーブルの椅子に座り直し、松苗さんはティーカップのお茶を飲んだ。
 午後一の打合せを終えて、松苗さんの手土産のシフォンケーキをお供にちょっとお茶していた最中だった。
「まああんた、元々結構タチ悪いんだけど……上津原氏と付き合ってからなんか磨きがかかってない?」
「うっ、最近それ上津原さんにも言われます。お前ちょっとタチ悪いって」
「でしょうねー。あんた根は結構ふてぶてしいもの。それはそうとあんた達、目と鼻の先に住んでんだからいっそどっちかの家に移った方が早くない?」
「まだ付き合って半年で、月一位しかまともに会ってないのに、それはちょっと早計では?」
「まともにでしょ、隔週で夜に互い通ってんでしょ。そっちのがやらしーわよ。純粋箱入娘な塔子さんがすっかりオトナになっちゃってお母さんかなしいったら」
「松苗さん……それにお互い資料とか荷物が、いまの家では無理です」
「あーそれはそうか、特にあんたは……」
 松苗さんの言葉にうんうんと頷いてしまった。とても無理だ、整理するにも手をつけたくもない。
 かといって寝室も資料庫その二になりつつあるから、上津原さんがこちらに移るのも無理がある。本当にそうするならもっと広い家を探すしかないだろうし、お互いそんな暇も当面はない。
「まーそれはもっと先の話か」
「ですね、続いていればですけど」
「あんたそういうとこ本当冷静よね」
「うーん、恋愛仕様じゃないみたいだから仕方ないです」
「そうかもだけど、その割には……ね、そんなにいいの? 上津原氏」
 突然の、あまりな質問に飲んだ紅茶が気管に入って盛大にむせてしまった。
 なんて事を真昼間からっ。
「ま、松苗さん……それ、いま聞きますっ?」
「だってあんた酔うまで飲ませると気分悪くなったり寝ちゃうし、酔ってない内に聞くなら昼でも夜でも一緒でしょ」
「そ、そういった質問は……ノーコメントで……」
「えー、だってあの男、塔子の前は取っ替え引っ替えだった訳でしょう」
「いまもその取っ替えの最中かもですよ」
「半年でその付き合いなら違うでしょ。性欲だけ満たすには効率悪過ぎるもの」
「ですか……」
 まあ自分がそんなに肉体的に魅力があるとも思えないから、そうかなとは思ってはいるけれど。でも。
 ちょっと溺れてしまいそうで、怖い。
 たぶん、会うと触れたくなってしまっているのはこちらの方だ、そのあたり向こうはどう思ってるんだろ。
 学生じゃあるまいし……などとぼやきながら、少し熱を帯びた低い声で名前を囁き、性急さを抑えているような手つきで服を脱がして口付けるけど……って、私なに思い出してるの。
「あー、なんかちょっと羨ましくて腹立ってくるわねー」
「松苗さんっ」
 ああ……絶対、さっきなに考えたか読まれてる。
 この調子だと夜にごはんの場でどんな追及されるやら、わかったものじゃない。
「も、そろそろお互い仕事に戻りましょ」
「そうね、楽しみはまた夜に。あとでお店の場所送るから現地集合で」
「はい……」
 時計を見れば14時はとうに回って、半を過ぎている。
 これから他誌のゲラを直したものをもう一度見直して17時には切り上げられそうかな。
「わっ、次のアポ急がなきゃ。ここでいいから、じゃまたね、塔子」
「気をつけて」
 慌ただしく立ち上がって、玄関へ向かって行く松苗さんに手を振って、ああ……夜、松苗さんの追及をどうかわそう。やっぱり早坂さんの話題かなと考えながら、うにゃ~とテーブルの上に突っ伏してしまった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

鬼上司の執着愛にとろけそうです

六楓(Clarice)
恋愛
旧題:純情ラブパニック 失恋した結衣が一晩過ごした相手は、怖い怖い直属の上司――そこから始まる、らぶえっちな4人のストーリー。 ◆◇◆◇◆ 営業部所属、三谷結衣(みたに ゆい)。 このたび25歳になりました。 入社時からずっと片思いしてた先輩の 今澤瑞樹(いまさわ みずき)27歳と 同期の秋本沙梨(あきもと さり)が 付き合い始めたことを知って、失恋…。 元気のない結衣を飲みにつれてってくれたのは、 見た目だけは素晴らしく素敵な、鬼のように怖い直属の上司。 湊蒼佑(みなと そうすけ)マネージャー、32歳。 目が覚めると、私も、上司も、ハダカ。 「マジかよ。記憶ねぇの?」 「私も、ここまで記憶を失ったのは初めてで……」 「ちょ、寒い。布団入れて」 「あ、ハイ……――――あっ、いやっ……」 布団を開けて迎えると、湊さんは私の胸に唇を近づけた――。 ※予告なしのR18表現があります。ご了承下さい。

【R18・完結】蜜溺愛婚 ~冷徹御曹司は努力家妻を溺愛せずにはいられない〜

花室 芽苳
恋愛
契約結婚しませんか?貴方は確かにそう言ったのに。気付けば貴方の冷たい瞳に炎が宿ってー?ねえ、これは大人の恋なんですか? どこにいても誰といても冷静沈着。 二階堂 柚瑠木《にかいどう ゆるぎ》は二階堂財閥の御曹司 そんな彼が契約結婚の相手として選んだのは 十条コーポレーションのお嬢様 十条 月菜《じゅうじょう つきな》 真面目で努力家の月菜は、そんな柚瑠木の申し出を受ける。 「契約結婚でも、私は柚瑠木さんの妻として頑張ります!」 「余計な事はしなくていい、貴女はお飾りの妻に過ぎないんですから」 しかし、挫けず頑張る月菜の姿に柚瑠木は徐々に心を動かされて――――? 冷徹御曹司 二階堂 柚瑠木 185㎝ 33歳 努力家妻  十条 月菜   150㎝ 24歳

二人の甘い夜は終わらない

藤谷藍
恋愛
*この作品の書籍化がアルファポリス社で現在進んでおります。正式に決定しますと6月13日にこの作品をウェブから引き下げとなりますので、よろしくご了承下さい* 年齢=恋人いない歴28年。多忙な花乃は、昔キッパリ振られているのに、初恋の彼がずっと忘れられない。いまだに彼を想い続けているそんな誕生日の夜、彼に面影がそっくりな男性と出会い、夢心地のまま酔った勢いで幸せな一夜を共に––––、なのに、初めての朝チュンでパニックになり、逃げ出してしまった。甘酸っぱい思い出のファーストラブ。幻の夢のようなセカンドラブ。優しい彼には逢うたびに心を持っていかれる。今も昔も、過剰なほど甘やかされるけど、この歳になって相変わらずな子供扱いも! そして極甘で強引な彼のペースに、花乃はみるみる絡め取られて……⁈ ちょっぴり個性派、花乃の初恋胸キュンラブです。

【R18】幼馴染な陛下と、甘々な毎日になりました💕

月極まろん
恋愛
 幼なじみの陛下に、気持ちだけでも伝えたくて。いい思い出にしたくて告白したのに、執務室のソファに座らせられて、なぜかこんなえっちな日々になりました。

冷徹御曹司と極上の一夜に溺れたら愛を孕みました

せいとも
恋愛
旧題:運命の一夜と愛の結晶〜裏切られた絶望がもたらす奇跡〜 神楽坂グループ傘下『田崎ホールディングス』の創業50周年パーティーが開催された。 舞台で挨拶するのは、専務の田崎悠太だ。 専務の秘書で彼女の月島さくらは、会場で挨拶を聞いていた。 そこで、今の瞬間まで彼氏だと思っていた悠太の口から、別の女性との婚約が発表された。 さくらは、訳が分からずショックを受け会場を後にする。 その様子を見ていたのが、神楽坂グループの御曹司で、社長の怜だった。 海外出張から一時帰国して、パーティーに出席していたのだ。 会場から出たさくらを追いかけ、忘れさせてやると一夜の関係をもつ。 一生をさくらと共にしようと考えていた怜と、怜とは一夜の関係だと割り切り前に進むさくらとの、長い長いすれ違いが始まる。 再会の日は……。

極上の一夜で懐妊したらエリートパイロットの溺愛新婚生活がはじまりました

白妙スイ@書籍&電子書籍発刊!
恋愛
早瀬 果歩はごく普通のOL。 あるとき、元カレに酷く振られて、1人でハワイへ傷心旅行をすることに。 そこで逢見 翔というパイロットと知り合った。 翔は果歩に素敵な時間をくれて、やがて2人は一夜を過ごす。 しかし翌朝、翔は果歩の前から消えてしまって……。 ********** ●早瀬 果歩(はやせ かほ) 25歳、OL 元カレに酷く振られた傷心旅行先のハワイで、翔と運命的に出会う。 ●逢見 翔(おうみ しょう) 28歳、パイロット 世界を飛び回るエリートパイロット。 ハワイへのフライト後、果歩と出会い、一夜を過ごすがその後、消えてしまう。 翌朝いなくなってしまったことには、なにか理由があるようで……? ●航(わたる) 1歳半 果歩と翔の息子。飛行機が好き。 ※表記年齢は初登場です ********** webコンテンツ大賞【恋愛小説大賞】にエントリー中です! 完結しました!

誤算だらけのケイカク結婚 非情な上司はスパダリ!?

奏井れゆな
恋愛
夜ごと熱く誠実に愛されて…… 出産も昇進も諦めたくない営業課の期待の新人、碓井深津紀は、非情と噂されている上司、城藤隆州が「結婚は面倒だが子供は欲しい」と同僚と話している場面に偶然出くわし、契約結婚を持ちかける。 すると、夫となった隆州は、辛辣な口調こそ変わらないものの、深津紀が何気なく口にした願いを叶えてくれたり、無意識の悩みに 誰より先に気づいて相談の時間を作ってくれたり、まるで恋愛結婚かのように誠実に愛してくれる。その上、「深津紀は抱き甲斐がある」とほぼ毎晩熱烈に求めてきて、隆州の豹変に戸惑うばかり。 そんな予想外の愛され生活の中で子作りに不安のある深津紀だったけど…

【完結】溺愛予告~御曹司の告白躱します~

蓮美ちま
恋愛
モテる彼氏はいらない。 嫉妬に身を焦がす恋愛はこりごり。 だから、仲の良い同期のままでいたい。 そう思っているのに。 今までと違う甘い視線で見つめられて、 “女”扱いしてるって私に気付かせようとしてる気がする。 全部ぜんぶ、勘違いだったらいいのに。 「勘違いじゃないから」 告白したい御曹司と 告白されたくない小ボケ女子 ラブバトル開始

処理中です...