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さよならのあと(1)
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さあさあと水音が部屋に聞こえる。
雨ではない。外は大雪だ。それも都内の交通網が軽く麻痺するくらいの記録的な大雪。
それに水音がしているのは外ではなく室内だった。近頃の高級ホテルによくあるガラス張りのところを木製のブラインドを下ろして覆い隠しているバスルーム。
「そういったつもりで取った部屋じゃなかったんだがな」
なんのメリットもないくだらない雑務で終わらせるのも癪で、どうせこの雪では帰りの移動はままならないだろうと、半日優雅な休養でもとるかとしただけで。
紺色のオーダーメイドのスーツの上着は無造作にソファの肘掛けに投げ置いて、広いベッドに横臥に頬杖をつき上津原は軽く息を吐く。
「どうしてこうなるかねぇ……」
木製のブライドを眺めながら若干諦念を滲ませて、上津原は呟いた。
*****
一月某日、朝布大学獣医学部内科学第三研究室――。
「ね~どうするの~? 上津原センセ~?」
背後のソファから聞こえてくる弓月の言葉をデスクの椅子に座って煙草を燻らせながら上津原は聞き流す。
著者近影なんて前の写真の使い回しでいいだろうが、とうに編集部に戻っただろう早坂に内心毒づく。
使うのは他でもない、一昨年の晩秋に出した上津原がカドワカの『野人時代』で書いている連載コラムをまとめた単行本の第二弾。
前回はただ過去原稿を収録しただけだが、今回は書き下ろし原稿も加えての刊行。
おかげで年末は、ただでさえ師も走る師走だというのに軽く冥土を夢に見そうになった。
それはもう過ぎた事として。
毎回毎回どうしてこの男は、仕事が終わって早坂が帰ってもこの部屋に居座るのだか。
「トーコちゃんとの連載仕事、先週終わっちゃったけど~?」
だからなんだってんだよ。
声には出さずにむすりと口の中でひとりごちて、上津原はノートパソコンのディスプレイに映る昨年から手直しを続けている論文と向き合っていた。
「ね~、上津原センセっ」
「あああぁっっ!! うっせえぇええっ!!」
吠えるように声を上げ、年末から伸びっぱなしの頭を掻き回すようにしながら上津原は椅子ごとくるりとソファの背もたれに首を預けてだらりと寛いでいる弓月を振り返った。
「だからっ、どうもしねぇって言ってるだろうがっ」
「えーそれ、すごいつまんない……あ、万城目くんコーヒー頂戴」
「はい。もう見慣れましたがいつも自由ですね、弓月さん」
「そんなことないよぉ、フリーランスなんてしがらみばっかりなんだから」
「あんたが言ってもまったく説得力がねぇな……いたのかよマキ」
丁度、弓月の向かい、甘糟塔子の定位置だった場所でペンを片手に専門書を開いている万城目に上津原がそう声をかければ、早坂さん帰った頃からいましたよと本をソファに伏せて立ち上がりながら万城目は答えた。
「あ、そ」
「早坂さん、わざわざ隣に寄って声かけてくれたので」
こぽこぽとコーヒーメーカーの湯の沸く音とカートリッジ式のコーヒー粉末が蒸される香りが漂う中で万城目はそう言って、丁度、雑務の切りもよいところだったからこっちに移動してきたんですと説明をした。
「ああ、雑務といえば……明後日の金曜日でしたね?」
「あ?」
「テートパレスで、学部長の」
「ああ」
「ん? テートパレスって何? 偉い人の集まりかなにか?」
どうぞと万城目が差し出したコーヒーを受け取り口元へ運びながらの弓月の質問を、適当にあしらうつもりだった上津原より先に万城目が答えた。
「お見合いです。学部長の後輩の娘さんで、うちと共同研究やってる関西にある大学の院を秋に卒業してまあ所属していた研究室にそのまま残っているんですけどね、三十手前ですからそろそろと」
「いちいち馬鹿丁寧に話して聞かせんな、マキ」
苦虫を噛み潰した表情で煙草を灰皿に捻り潰し腕組みした上津原に、「すみません」と応じた万城目の声を打ち消すように弓月が声を上げる。
「はあっ!? センセー、トーコちゃんじゃなく二十代の若妻を選んだってわけ!?」
「選んでねええっ! 見合いすんのは鹿児島での俺の同期だっ。なんかの研究会の場でお嬢さんが奴に一目惚れしたんだと。大体、二十代たってポスドクだ、あの女と大して変わらん」
「センセー仲人でもすんの?」
「バツイチ独り身で出来るかよ」
「だよねえ」
「四十過ぎ未婚の臨床バカなんだよ。学会の上京ついでの見合いで、橋渡しっつーかお嬢様の御付き役つーか、両方の知り合いだから引き合わせた後、適当に場を和ませて取り持つ役。雑務もいいとこだ……面倒くせー」
両方西にいるんだから関西でやれよなどとぼやきながら、がしがしと後頭部をかき回して上津原は白衣のポケットを探ると煙草を取り出して火をつけ咥えた。そんな上津原の様子を眺めていた弓月だったが、不意にあっ、と声を漏らしてコーヒーのカップを口元から離した。
「もしかしてお見合い場所選んだの上津原センセー?」
「だったらなんだよ、こないだの仕事で丁度よさそうだと思ってな」
「あー」
だからか。やけに戸惑ってるっていうか、妙な憂いがあるからなんだろうなあって思ってたんだよねー……などと一人で納得しブツブツ言っては頷いている弓月に、なんだよと上津原は凄んだ。
「それ、トーコちゃんにすっごい中途半端に言ってない?」
「あ? んな話するわけ……ああそういや」
プカプカと天井へと登っていく煙を腕組みしてぼんやり眺めながらぽつりと上津原は呟いた。
そういえば、見合いの場に良さそうだと決めた時にそんな話をちらりとしたような気がする。
「……やっぱり」
「なんだ、別にこっちの雑務なんてあの女に関係ねぇだろうがよ」
「あるんじゃないですかね?」
いつの間にか元の場所に戻って専門書から顔を上げ、上津原を振り仰いで眼鏡を押し上げながらの万城目の言葉に、お前までなんだと上津原は顔を顰めた。
「そういえば先生、『新星』は読んだんですか。先々月から溜めてるでしょ」
「新星? んな暇どこにあったってんだよ」
「ですよね」
「ああ、そういえば。ちょっとトーコちゃんぽい終わりじゃなかったよねぇ」
「弓月さん、それネタバレです。初回からいままでビシッと本誌を捨てずに残して連載追ってた人に言っちゃだめなやつです」
「なにか激しく誤解があるようだな、マキ」
お前のような若干オタク心の入った理由で本誌を捨てずにいたわけじゃないと反論したかったが言ったところで理解される内容ではないから上津原は黙った。
しかし、弓月の言葉には少しばかりひっかかりを覚える。最終回の号はまだ届いた封筒の封すら開けた覚えがない。そんな時間はなかったしそもそも書類や郵便物が山と積まれたデスクのどこへやってしまったのやら。
「『新星』なら、デスクの一番端のそこに先月と先々月の分、他の捨てちゃだめそうな郵便物とまとめて置いてありますよ」
「別に聞いちゃいねぇだろうがよ」
万城目の言葉に上津原がデスクの端にちらりと目だけを向ければたしかにそれらしい封筒の角が見える未開封の郵便物の山があった。
仕事終わったら家に持ってくか。
「それ飲んだら帰れよ、あんたがいると仕事の邪魔だ。俺も明日は発表だから忙しいんだよ」
そう弓月に声をかけてくるりとデスクに上津原が向き直れば、はいはい撤収撤収と弓月の声とコーヒーを飲み干す気配がする。
「あー外に出たくない。ここ二、三日寒いよねぇ、雪もちらついたりして……」
「そういえば週末にかけて寒波がどうとかニュースで言ってましたね」
「だから、さっさと帰れ」
上津原はぼやいて、苛立ちを叩きつけるようにキーボードを叩き始めた。
******
「う……眩しい」
朝日が眩しい。
眠気を引きずる目をこすりながら塔子は突っ伏していたリビングのローテーブルから頭を起こした。テーブルの上には複数枚の文字を印刷した紙が散乱している。
ああ、いつの間にか眠ってしまったんだなとゆめうつつの頭の中で考えて、どこまで進んだのだっけと寝ぼけ眼で散乱しているプリントアウトした原稿の赤入れの文字を追う。
上津原との対談をテープ起こしされた原稿。まだ期限まで余裕はあるものの、他の仕事のスケジュールを考えると記憶が鮮明な内に片づけてしまいたかった。
「うーなんか寒い……」
エアコン効かせてるはずなのにと、窓の上部に設置してあるそれを見上げて、えっと塔子は瞬きして立ち上がった。
「雪……」
近寄った窓のサッシを開ければ冷たい空気が頬を撫で、塔子は首をすくめる。ベランダの枠に数センチほどの高さに積もった雪の氷の粒が朝日を透かしてキラキラと白く光っていた。
「わっ、真っ白」
マンションの八階から見下ろした道路、近所のマンションの敷地などすべて白く染まっている。フリースワンピースにざっくりとした網目のウールのカーディガンを羽織った肩が外気に冷えてきたのに、寒いっ、と両腕をさするようにして塔子は窓を閉めた。
ふっと眩しかった朝日が陰り、空を見上げれば灰色の雲に大半覆われ、風に粉雪が舞っているのが見えた。
「まだ降ってきそう……」
――次は、お天気です。気象庁は東京23区に大雪警報を出し、警戒を呼びかけています。南岸低気圧により昨日夕方から降り始めた雪は明け方にかけて勢いを増し、積雪15 センチを超える地域もみられました。寒気の影響で日中の気温低下が見込まれることから、首都園の積雪はさらに増える見通しで、鉄道など交通の乱れや大規模な車の立ち往生など起きる恐れがあるとして……。
つけっ放しのテレビから流れる気象情報のニュースに、今日は絶対外に出ないでおこうと心に決めて塔子はエアコンの温度を1℃だけ上げる。
それにしても自宅仕事だからいいものの、今日は金曜日の平日だというのに会社勤めの人は大変だ。松苗さんや他の編集者の人たちは大丈夫だろうかなどと思いながら、塔子はキッチンへと移動し、電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。
「えーと、春に出すやつのゲラは一通り終わって、その次の……ああそうだ朝になったら上津原さんに確認いれるんだった」
まだ締め切りまで若干余裕のある原稿について深夜に連絡するのは気が引けた。メールで送ってもいいのだが、タイミングによってはなかなか返答がないことがある。以前、電話しろよそういった時はと怒鳴られたこともあって、上津原に対しては結局電話した方がよく、また口頭で伝えた方がその場で返答できなくても早いといった、電話を受けるのも苦手だが掛けるのはもっと苦手な塔子としては気がすすまないこと甚だしい結論となっていた。
時間を見れば八時を過ぎたところだった。
ほんの二日間とはいえ、上津原の家で彼と過ごし――といっても、ほぼ家にいないか互いに睡眠を取っているかで顔を合わせていたのは多くて数時間といったところなのだが――朝が早いことは知っている。今の時間ならもう大学に出ている頃だろうし、朝一から授業が入っていたとしても始まるには早い時間だ。
朝っぱらからなんだと文句は出そうだが、たぶん、今なら出るだろう。
沸かしたお湯をティーバッグを入れたマグカップに注いで、塔子はリビングに戻るとテーブルの上に置いてあった携帯電話を取り上げる。
ああ、気が重い……とひとりごちながら上津原に電話をかけた塔子だったが、数回コールしても彼は出なかった。
「あれ?」
この時間なら即、例の仏頂面がありありと目に浮かぶ不機嫌そうな声で出てくると思ったのに、珍しい。
「うーん……まあ、そのうちかかってくるか、な?」
ひとまず確認箇所は置いておいて進めよう。大体、そっちのが効率がいいとか言ってどうして上津原さんのところまで私が直すのって話だし。
再びキッチンへ、紅茶の入ったマグカップを手に取ってすすりながら、とりあえず顔を洗いがてらシャワーして着替えて、昨日チェックを入れた分から一通り読み通して続きに取り掛かろうと、塔子はこれからの予定を立てた。
――司会:最終回ということで、別れをテーマで話をしてもらいましたが、そういえば甘糟さんの小説にも通じるものがありますね。
上津原:それ他誌の宣伝(※注1)になるんじゃないのか、カドワカさんも懐の広い……――
小さなフォントで注釈されたカドワカと新星社で塔子が書いた小説のタイトルを確認中に、突然、ローテーブルがカタカタと音を立てたのにびくっと塔子は原稿から我に返って、幾枚もの紙の下で消音にして震えている携帯電話を取り上げた。
「はい、甘糟です」
『塔子~』
「あ、なんだ松苗さん」
『は? なんだってなによ。いま家? 電話大丈夫?』
「あ、はい……どうしたんですか?」
『ごめん、夕方の打ち合わせ行けそうにないわ。雪であちこち遅延とか運休起こしてて、地下鉄にぼちぼち人が流れはじめてるみたいだし』
「えっ。ああ、そうか。雪すごいって朝からニュースでも、大丈夫ですか?」
言われて、そうだ松苗さんくる予定だったと塔子は今日の予定を思い出し、仕事の予定を書き込んだカレンダーを確認しようと電話しながら仕事部屋へと移動する。
室内とはいえ部屋のエアコンをつけていないから、カシミアのニットワンピースを着ていてもひんやりした空気にぶるぶると塔子は肩を震わせた。
『あんた窓の外見てないの?! ちらついたり吹雪いたりだけどずっと降ってるし、もう今日は外出予定は全部キャンセルよ。いまあたしも社内にいるけど、様子見ながら帰宅困難になりそうなら帰っていいって。まーあたしは歩いてでも帰れる距離だからいいけど、早坂とか埼玉だし雑誌だから簡単に仕事切り上げられるもんじゃないし厳しいかもねー』
「はあ……どうするんですか早坂さん」
『さあ。近くのビジネスホテル取るか、最悪会社に泊まるんじゃないの? あんた遭難しそうだから今日は絶対外でちゃダメよ』
「出るつもりないです。寒いし。あ、えっと来週の月曜日、14時に新星社さんに行く用事あるんですけど松苗さん予定合うならその前か後で寄りましょうか?」
カレンダーを見ながら塔子が提案すれば、本当? と松苗女史が嬉しそうな声を上げた。
『それ、すごい助かる。たぶん午前中なら大丈夫よ。今日の調整してまたメールする』
「はい、お願いします。……ええ、じゃあまた」
電話を切って、リビングに戻り窓の外を見れば松苗女史のいう通りにちらちらと粉雪が舞っていてベランダの雪はまったく減っていなかった。
「本当だ、これ午後も続いたら大変なことになりそう」
それにしても。
「上津原さん、折返しないな……」
時間を見ればもう十一時を回っている。
なんとなく、気にかかって研究室の直通番号に掛けてみれば、今度はすぐに繋がった。
『はい、朝布大学獣医学部・内科学第三研究室です』
「あ、あのっ……あ、甘糟です」
生真面目な声はきっと助教の万城目だと塔子は慌てて名乗った。
『甘糟さん!? あ、万城目です。珍しいですね甘糟さんから電話なんて。上津原は生憎いないんですよ』
「あ、そう……ですか。ちょっと原稿の確認で、上津原さんに直接連絡してたんですけど返答がなくて」
『ああ、今日は学部長の用事で終日外出で、なかなか折り返せないかもですねぇ』
「それってもしかして、テートパレス」
『えっ? ああそうか上津原から聞いて……学部長の後輩の娘さんと上津原のど――』
ツーツーツー。
電子音が聞こえる受話器を耳元から離して、あ、どうしよう……と一呼吸置いて塔子は呟いた。
「電話、切っちゃった」
『見合いだよ、俺が場所選べって学部長から…くそくだらない』
あれ、今日だったんだ。どうりで。
いや、別に私の仕事の都合で今日のうちに仕上げてしまいたいだけで、まだ原稿の締め切りには余裕あるし、急ぎじゃないし。
そもそも、本来なら上津原さんが自分で直すようなことだから確認箇所だけ注釈入れてメールで送ってしまっても。
きっと、文句の一つや二つ言ってきそうだけどたぶんきちんと直してくれるだろうし。
それで、最終稿が届いてほとんど確認だけしてそれで……そう無理に連絡なんて取らなくてもこの仕事は終わるけど。
終わる、けど。
『対談にならないなら、俺と恋愛してみるってのはどうよ?』
擬似って言ってたけど、ここから先は擬似じゃないとか。
たぶん愛せるって言ったり、自分は相手じゃないって言ったり。
「ていうか、たぶんてなに!?」
自分はこっちが仕事しててもすぐ折り返さないと怒るくせに、こっちの仕事の連絡には返答もなくくだらない雑務とかいうお見合いに行ってるし。
電話を握りしめたまま、どすどすと足音を立てリビングを一周し塔子は衝動的にコートを羽織り、そのポケットに二つ折りの買い物用財布と家の鍵を突っ込んで、玄関に前の帰宅時のまま置きっ放しになっていたブーツに足を入れる。
『前から知ってた。“俺の人生掠め取ったみたいなもんを書く作家”だって。正直あまりいい気はしないが、まるでなにもかも見通すような目で書いているのがどんな女か、一度見てはみたかった』
「私、上津原さんのこと見てないし書いてもない」
外に出れば、確かに結構積もっていた。
車道は流石に車が通った後に雪が踏み固められてアスファルトの黒い色が見えていたが、昼間なのにブーツのつま先が埋まってしまうくらい道路に雪が残っている。
はあ……と白い息を吐き出して塔子が空を見上げれば、ちらちらと粉雪とはいえない雪が舞い降りてくる。この天候だ、たぶん近所の誰かが利用したのだろうちょうど大通り方向へ走っているタクシーが遠目に見えて塔子は手を挙げた。
「テートパレスまで、お願いします」
雨ではない。外は大雪だ。それも都内の交通網が軽く麻痺するくらいの記録的な大雪。
それに水音がしているのは外ではなく室内だった。近頃の高級ホテルによくあるガラス張りのところを木製のブラインドを下ろして覆い隠しているバスルーム。
「そういったつもりで取った部屋じゃなかったんだがな」
なんのメリットもないくだらない雑務で終わらせるのも癪で、どうせこの雪では帰りの移動はままならないだろうと、半日優雅な休養でもとるかとしただけで。
紺色のオーダーメイドのスーツの上着は無造作にソファの肘掛けに投げ置いて、広いベッドに横臥に頬杖をつき上津原は軽く息を吐く。
「どうしてこうなるかねぇ……」
木製のブライドを眺めながら若干諦念を滲ませて、上津原は呟いた。
*****
一月某日、朝布大学獣医学部内科学第三研究室――。
「ね~どうするの~? 上津原センセ~?」
背後のソファから聞こえてくる弓月の言葉をデスクの椅子に座って煙草を燻らせながら上津原は聞き流す。
著者近影なんて前の写真の使い回しでいいだろうが、とうに編集部に戻っただろう早坂に内心毒づく。
使うのは他でもない、一昨年の晩秋に出した上津原がカドワカの『野人時代』で書いている連載コラムをまとめた単行本の第二弾。
前回はただ過去原稿を収録しただけだが、今回は書き下ろし原稿も加えての刊行。
おかげで年末は、ただでさえ師も走る師走だというのに軽く冥土を夢に見そうになった。
それはもう過ぎた事として。
毎回毎回どうしてこの男は、仕事が終わって早坂が帰ってもこの部屋に居座るのだか。
「トーコちゃんとの連載仕事、先週終わっちゃったけど~?」
だからなんだってんだよ。
声には出さずにむすりと口の中でひとりごちて、上津原はノートパソコンのディスプレイに映る昨年から手直しを続けている論文と向き合っていた。
「ね~、上津原センセっ」
「あああぁっっ!! うっせえぇええっ!!」
吠えるように声を上げ、年末から伸びっぱなしの頭を掻き回すようにしながら上津原は椅子ごとくるりとソファの背もたれに首を預けてだらりと寛いでいる弓月を振り返った。
「だからっ、どうもしねぇって言ってるだろうがっ」
「えーそれ、すごいつまんない……あ、万城目くんコーヒー頂戴」
「はい。もう見慣れましたがいつも自由ですね、弓月さん」
「そんなことないよぉ、フリーランスなんてしがらみばっかりなんだから」
「あんたが言ってもまったく説得力がねぇな……いたのかよマキ」
丁度、弓月の向かい、甘糟塔子の定位置だった場所でペンを片手に専門書を開いている万城目に上津原がそう声をかければ、早坂さん帰った頃からいましたよと本をソファに伏せて立ち上がりながら万城目は答えた。
「あ、そ」
「早坂さん、わざわざ隣に寄って声かけてくれたので」
こぽこぽとコーヒーメーカーの湯の沸く音とカートリッジ式のコーヒー粉末が蒸される香りが漂う中で万城目はそう言って、丁度、雑務の切りもよいところだったからこっちに移動してきたんですと説明をした。
「ああ、雑務といえば……明後日の金曜日でしたね?」
「あ?」
「テートパレスで、学部長の」
「ああ」
「ん? テートパレスって何? 偉い人の集まりかなにか?」
どうぞと万城目が差し出したコーヒーを受け取り口元へ運びながらの弓月の質問を、適当にあしらうつもりだった上津原より先に万城目が答えた。
「お見合いです。学部長の後輩の娘さんで、うちと共同研究やってる関西にある大学の院を秋に卒業してまあ所属していた研究室にそのまま残っているんですけどね、三十手前ですからそろそろと」
「いちいち馬鹿丁寧に話して聞かせんな、マキ」
苦虫を噛み潰した表情で煙草を灰皿に捻り潰し腕組みした上津原に、「すみません」と応じた万城目の声を打ち消すように弓月が声を上げる。
「はあっ!? センセー、トーコちゃんじゃなく二十代の若妻を選んだってわけ!?」
「選んでねええっ! 見合いすんのは鹿児島での俺の同期だっ。なんかの研究会の場でお嬢さんが奴に一目惚れしたんだと。大体、二十代たってポスドクだ、あの女と大して変わらん」
「センセー仲人でもすんの?」
「バツイチ独り身で出来るかよ」
「だよねえ」
「四十過ぎ未婚の臨床バカなんだよ。学会の上京ついでの見合いで、橋渡しっつーかお嬢様の御付き役つーか、両方の知り合いだから引き合わせた後、適当に場を和ませて取り持つ役。雑務もいいとこだ……面倒くせー」
両方西にいるんだから関西でやれよなどとぼやきながら、がしがしと後頭部をかき回して上津原は白衣のポケットを探ると煙草を取り出して火をつけ咥えた。そんな上津原の様子を眺めていた弓月だったが、不意にあっ、と声を漏らしてコーヒーのカップを口元から離した。
「もしかしてお見合い場所選んだの上津原センセー?」
「だったらなんだよ、こないだの仕事で丁度よさそうだと思ってな」
「あー」
だからか。やけに戸惑ってるっていうか、妙な憂いがあるからなんだろうなあって思ってたんだよねー……などと一人で納得しブツブツ言っては頷いている弓月に、なんだよと上津原は凄んだ。
「それ、トーコちゃんにすっごい中途半端に言ってない?」
「あ? んな話するわけ……ああそういや」
プカプカと天井へと登っていく煙を腕組みしてぼんやり眺めながらぽつりと上津原は呟いた。
そういえば、見合いの場に良さそうだと決めた時にそんな話をちらりとしたような気がする。
「……やっぱり」
「なんだ、別にこっちの雑務なんてあの女に関係ねぇだろうがよ」
「あるんじゃないですかね?」
いつの間にか元の場所に戻って専門書から顔を上げ、上津原を振り仰いで眼鏡を押し上げながらの万城目の言葉に、お前までなんだと上津原は顔を顰めた。
「そういえば先生、『新星』は読んだんですか。先々月から溜めてるでしょ」
「新星? んな暇どこにあったってんだよ」
「ですよね」
「ああ、そういえば。ちょっとトーコちゃんぽい終わりじゃなかったよねぇ」
「弓月さん、それネタバレです。初回からいままでビシッと本誌を捨てずに残して連載追ってた人に言っちゃだめなやつです」
「なにか激しく誤解があるようだな、マキ」
お前のような若干オタク心の入った理由で本誌を捨てずにいたわけじゃないと反論したかったが言ったところで理解される内容ではないから上津原は黙った。
しかし、弓月の言葉には少しばかりひっかかりを覚える。最終回の号はまだ届いた封筒の封すら開けた覚えがない。そんな時間はなかったしそもそも書類や郵便物が山と積まれたデスクのどこへやってしまったのやら。
「『新星』なら、デスクの一番端のそこに先月と先々月の分、他の捨てちゃだめそうな郵便物とまとめて置いてありますよ」
「別に聞いちゃいねぇだろうがよ」
万城目の言葉に上津原がデスクの端にちらりと目だけを向ければたしかにそれらしい封筒の角が見える未開封の郵便物の山があった。
仕事終わったら家に持ってくか。
「それ飲んだら帰れよ、あんたがいると仕事の邪魔だ。俺も明日は発表だから忙しいんだよ」
そう弓月に声をかけてくるりとデスクに上津原が向き直れば、はいはい撤収撤収と弓月の声とコーヒーを飲み干す気配がする。
「あー外に出たくない。ここ二、三日寒いよねぇ、雪もちらついたりして……」
「そういえば週末にかけて寒波がどうとかニュースで言ってましたね」
「だから、さっさと帰れ」
上津原はぼやいて、苛立ちを叩きつけるようにキーボードを叩き始めた。
******
「う……眩しい」
朝日が眩しい。
眠気を引きずる目をこすりながら塔子は突っ伏していたリビングのローテーブルから頭を起こした。テーブルの上には複数枚の文字を印刷した紙が散乱している。
ああ、いつの間にか眠ってしまったんだなとゆめうつつの頭の中で考えて、どこまで進んだのだっけと寝ぼけ眼で散乱しているプリントアウトした原稿の赤入れの文字を追う。
上津原との対談をテープ起こしされた原稿。まだ期限まで余裕はあるものの、他の仕事のスケジュールを考えると記憶が鮮明な内に片づけてしまいたかった。
「うーなんか寒い……」
エアコン効かせてるはずなのにと、窓の上部に設置してあるそれを見上げて、えっと塔子は瞬きして立ち上がった。
「雪……」
近寄った窓のサッシを開ければ冷たい空気が頬を撫で、塔子は首をすくめる。ベランダの枠に数センチほどの高さに積もった雪の氷の粒が朝日を透かしてキラキラと白く光っていた。
「わっ、真っ白」
マンションの八階から見下ろした道路、近所のマンションの敷地などすべて白く染まっている。フリースワンピースにざっくりとした網目のウールのカーディガンを羽織った肩が外気に冷えてきたのに、寒いっ、と両腕をさするようにして塔子は窓を閉めた。
ふっと眩しかった朝日が陰り、空を見上げれば灰色の雲に大半覆われ、風に粉雪が舞っているのが見えた。
「まだ降ってきそう……」
――次は、お天気です。気象庁は東京23区に大雪警報を出し、警戒を呼びかけています。南岸低気圧により昨日夕方から降り始めた雪は明け方にかけて勢いを増し、積雪15 センチを超える地域もみられました。寒気の影響で日中の気温低下が見込まれることから、首都園の積雪はさらに増える見通しで、鉄道など交通の乱れや大規模な車の立ち往生など起きる恐れがあるとして……。
つけっ放しのテレビから流れる気象情報のニュースに、今日は絶対外に出ないでおこうと心に決めて塔子はエアコンの温度を1℃だけ上げる。
それにしても自宅仕事だからいいものの、今日は金曜日の平日だというのに会社勤めの人は大変だ。松苗さんや他の編集者の人たちは大丈夫だろうかなどと思いながら、塔子はキッチンへと移動し、電気ケトルに水を入れてスイッチを入れた。
「えーと、春に出すやつのゲラは一通り終わって、その次の……ああそうだ朝になったら上津原さんに確認いれるんだった」
まだ締め切りまで若干余裕のある原稿について深夜に連絡するのは気が引けた。メールで送ってもいいのだが、タイミングによってはなかなか返答がないことがある。以前、電話しろよそういった時はと怒鳴られたこともあって、上津原に対しては結局電話した方がよく、また口頭で伝えた方がその場で返答できなくても早いといった、電話を受けるのも苦手だが掛けるのはもっと苦手な塔子としては気がすすまないこと甚だしい結論となっていた。
時間を見れば八時を過ぎたところだった。
ほんの二日間とはいえ、上津原の家で彼と過ごし――といっても、ほぼ家にいないか互いに睡眠を取っているかで顔を合わせていたのは多くて数時間といったところなのだが――朝が早いことは知っている。今の時間ならもう大学に出ている頃だろうし、朝一から授業が入っていたとしても始まるには早い時間だ。
朝っぱらからなんだと文句は出そうだが、たぶん、今なら出るだろう。
沸かしたお湯をティーバッグを入れたマグカップに注いで、塔子はリビングに戻るとテーブルの上に置いてあった携帯電話を取り上げる。
ああ、気が重い……とひとりごちながら上津原に電話をかけた塔子だったが、数回コールしても彼は出なかった。
「あれ?」
この時間なら即、例の仏頂面がありありと目に浮かぶ不機嫌そうな声で出てくると思ったのに、珍しい。
「うーん……まあ、そのうちかかってくるか、な?」
ひとまず確認箇所は置いておいて進めよう。大体、そっちのが効率がいいとか言ってどうして上津原さんのところまで私が直すのって話だし。
再びキッチンへ、紅茶の入ったマグカップを手に取ってすすりながら、とりあえず顔を洗いがてらシャワーして着替えて、昨日チェックを入れた分から一通り読み通して続きに取り掛かろうと、塔子はこれからの予定を立てた。
――司会:最終回ということで、別れをテーマで話をしてもらいましたが、そういえば甘糟さんの小説にも通じるものがありますね。
上津原:それ他誌の宣伝(※注1)になるんじゃないのか、カドワカさんも懐の広い……――
小さなフォントで注釈されたカドワカと新星社で塔子が書いた小説のタイトルを確認中に、突然、ローテーブルがカタカタと音を立てたのにびくっと塔子は原稿から我に返って、幾枚もの紙の下で消音にして震えている携帯電話を取り上げた。
「はい、甘糟です」
『塔子~』
「あ、なんだ松苗さん」
『は? なんだってなによ。いま家? 電話大丈夫?』
「あ、はい……どうしたんですか?」
『ごめん、夕方の打ち合わせ行けそうにないわ。雪であちこち遅延とか運休起こしてて、地下鉄にぼちぼち人が流れはじめてるみたいだし』
「えっ。ああ、そうか。雪すごいって朝からニュースでも、大丈夫ですか?」
言われて、そうだ松苗さんくる予定だったと塔子は今日の予定を思い出し、仕事の予定を書き込んだカレンダーを確認しようと電話しながら仕事部屋へと移動する。
室内とはいえ部屋のエアコンをつけていないから、カシミアのニットワンピースを着ていてもひんやりした空気にぶるぶると塔子は肩を震わせた。
『あんた窓の外見てないの?! ちらついたり吹雪いたりだけどずっと降ってるし、もう今日は外出予定は全部キャンセルよ。いまあたしも社内にいるけど、様子見ながら帰宅困難になりそうなら帰っていいって。まーあたしは歩いてでも帰れる距離だからいいけど、早坂とか埼玉だし雑誌だから簡単に仕事切り上げられるもんじゃないし厳しいかもねー』
「はあ……どうするんですか早坂さん」
『さあ。近くのビジネスホテル取るか、最悪会社に泊まるんじゃないの? あんた遭難しそうだから今日は絶対外でちゃダメよ』
「出るつもりないです。寒いし。あ、えっと来週の月曜日、14時に新星社さんに行く用事あるんですけど松苗さん予定合うならその前か後で寄りましょうか?」
カレンダーを見ながら塔子が提案すれば、本当? と松苗女史が嬉しそうな声を上げた。
『それ、すごい助かる。たぶん午前中なら大丈夫よ。今日の調整してまたメールする』
「はい、お願いします。……ええ、じゃあまた」
電話を切って、リビングに戻り窓の外を見れば松苗女史のいう通りにちらちらと粉雪が舞っていてベランダの雪はまったく減っていなかった。
「本当だ、これ午後も続いたら大変なことになりそう」
それにしても。
「上津原さん、折返しないな……」
時間を見ればもう十一時を回っている。
なんとなく、気にかかって研究室の直通番号に掛けてみれば、今度はすぐに繋がった。
『はい、朝布大学獣医学部・内科学第三研究室です』
「あ、あのっ……あ、甘糟です」
生真面目な声はきっと助教の万城目だと塔子は慌てて名乗った。
『甘糟さん!? あ、万城目です。珍しいですね甘糟さんから電話なんて。上津原は生憎いないんですよ』
「あ、そう……ですか。ちょっと原稿の確認で、上津原さんに直接連絡してたんですけど返答がなくて」
『ああ、今日は学部長の用事で終日外出で、なかなか折り返せないかもですねぇ』
「それってもしかして、テートパレス」
『えっ? ああそうか上津原から聞いて……学部長の後輩の娘さんと上津原のど――』
ツーツーツー。
電子音が聞こえる受話器を耳元から離して、あ、どうしよう……と一呼吸置いて塔子は呟いた。
「電話、切っちゃった」
『見合いだよ、俺が場所選べって学部長から…くそくだらない』
あれ、今日だったんだ。どうりで。
いや、別に私の仕事の都合で今日のうちに仕上げてしまいたいだけで、まだ原稿の締め切りには余裕あるし、急ぎじゃないし。
そもそも、本来なら上津原さんが自分で直すようなことだから確認箇所だけ注釈入れてメールで送ってしまっても。
きっと、文句の一つや二つ言ってきそうだけどたぶんきちんと直してくれるだろうし。
それで、最終稿が届いてほとんど確認だけしてそれで……そう無理に連絡なんて取らなくてもこの仕事は終わるけど。
終わる、けど。
『対談にならないなら、俺と恋愛してみるってのはどうよ?』
擬似って言ってたけど、ここから先は擬似じゃないとか。
たぶん愛せるって言ったり、自分は相手じゃないって言ったり。
「ていうか、たぶんてなに!?」
自分はこっちが仕事しててもすぐ折り返さないと怒るくせに、こっちの仕事の連絡には返答もなくくだらない雑務とかいうお見合いに行ってるし。
電話を握りしめたまま、どすどすと足音を立てリビングを一周し塔子は衝動的にコートを羽織り、そのポケットに二つ折りの買い物用財布と家の鍵を突っ込んで、玄関に前の帰宅時のまま置きっ放しになっていたブーツに足を入れる。
『前から知ってた。“俺の人生掠め取ったみたいなもんを書く作家”だって。正直あまりいい気はしないが、まるでなにもかも見通すような目で書いているのがどんな女か、一度見てはみたかった』
「私、上津原さんのこと見てないし書いてもない」
外に出れば、確かに結構積もっていた。
車道は流石に車が通った後に雪が踏み固められてアスファルトの黒い色が見えていたが、昼間なのにブーツのつま先が埋まってしまうくらい道路に雪が残っている。
はあ……と白い息を吐き出して塔子が空を見上げれば、ちらちらと粉雪とはいえない雪が舞い降りてくる。この天候だ、たぶん近所の誰かが利用したのだろうちょうど大通り方向へ走っているタクシーが遠目に見えて塔子は手を挙げた。
「テートパレスまで、お願いします」
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