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ままならない関係(3)
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毎年の事ながら、気がつけば新年だった。
年末年始休みだからといって、治療が必要な動物やマウスなど実験用の飼育動物、あるいは培養している細胞などまで休業だからといなくなるわけではない。
それぞれがそれぞれの状態で生きているし、生きている以上は面倒を見る必要がある。
正月気分はせいぜい元旦の午後まで。
世間一般では適齢期という事で、周囲からの結婚はいつ、相手はいるのか攻撃から逃げるように万城目は大学の実験室で試薬を計ったりしているのであった。
初詣などに行く恋人でもと思わないことはなかったが、この頃ではそれもなんだか面倒に思えなくもない。こうして実験したり、論文読んだり、勉強したりしているほうがなんていうかプレッシャーはあってもまだ気が楽に思えるのだった。
まあそう思えるのも、上津原の方針と恩恵もあって比較的好きにやれる研究環境だからというのもあるが。
「危険な兆候ってやつなんでしょうけどね」
民間企業勤めの学部同期などからは、ぼちぼち結婚の知らせが舞い込んで来ている。
万城目とて、この業界では一握りな期限無しの助教職であるから不安定でもないのだが、いまひとつ仕事の手を緩めてまで相手探しに乗り出す気になれない。早坂からの誘いがあり都合が合えばそういった場に出掛ける程度だった。
一通りの事を終えて、上津原の部屋へ移動する。流石に今日は彼も来てはいない。
元旦くらい休んでくれないと万城目としても心配になる。
カドワカの対談以外は、外に出ても必ず大学に戻り、年末に向けて二、三時間ずつしか寝てないような状態だったのではないだろうか。
大掃除も煤払いもなく年を越したので、部屋は酷い状態だった。
元旦早々やることが掃除とはいささか締まらない気がするものの、万城目は散乱した書類や冊子や資料の類いを一纏めに整理していく。
忙しくて仕分けや開封する間もなかったのだろう、デスクの片隅には大量の郵便物が積み上げられて崩れかけていた。
それを明らかに無用のダイレクトメールと取っておくのがよさそうなものと、上津原個人宛のものに仕分ける。
「あれ、『新星』二号分も……まだ開けてなかったのか先生。甘糟さんの連載最終回だったのに」
まあ先月あたりから会議の数が増えてそれどころじゃなさそうでしたけど。
いい最終回なのに。
残す郵便物をデスクの上にまとめ、捨てる物を他の紙ゴミや菓子と栄養ブロックの包み紙などと一緒にゴミ袋へ投げ込みながら万城目はひとりごちた。
さよなら三部作に……ならなかったとは。
甘糟塔子の作品のラストとしてはかなり消化不良感が残る、けれどそれは納得づくの消化不良感でおそらく余韻としては過去作品で一番あるのではないだろうか。
「あれ、対談が影響してるなら『新星』は漁夫の利を得た形だし、早坂さんにまた災難が降りかかりそうな」
あの人も大概苦労人だ。
シルバーフレームの眼鏡を押し上げ、クリスチャンではないがなんとなく気分でアーメンと呟いて万城目は新年大掃除に勤しむのであった。
*****
毎年のことではあるけれど、気がつけば年を越している。
そして、仕事をしている……筈、なのだけど。
暗がりに、正面のスクリーンだけが仄かな光源となって場を照らしていた。
年明けの挨拶やお詣りなどを済ませた後、暇を持て余す人間はそれなりの数でいるのだろう。元旦の午後だというのに、大型複合映画館はそこそこ盛況だった。
とはいえ塔子が見に来たのは、秋口からプロモーションが入っているような作品ではなく、インディーズ出身の一部でカルト的な人気を持つまだ若手の監督作品で、どちらかといえば陰鬱とした内容の映画であるためか、お世辞にも客が入っているとは言えなかった。
塔子としては、映画を観にいくことは半分仕事で半分娯楽の位置付けで、普段は家でソフト化したものか配信しているものを観ているが、仕事を納めてまた始めるまでの年末年始は比較的時間もあるため、劇場へ足を運ぶのがここ近年の過ごし方であった。
その場合、誰もが関心を持つような大作や話題作は後回しで、この手のマイナー作品が優先だった。大作や話題作はすぐにソフト化や配信に乗るが、マイナー作品は劇場を逃すとしばらく見る機会がない。
そういったわけで、元旦早々映画館に一人あまり客もはいらないスクリーンの部屋で過ごすはずだったのだが。
どうして……この人が隣に座っているの――!?
ほんの四十分程前――。
予約済みのチケットを発券機がプリントして吐き出すのを待っている間に、背後から声を掛けられた。
「なんだぁ、元旦から一人で映画かよ。安定の人付き合いの無さだな」
「は!?」
元旦早々、新年の挨拶もなく失礼千万な声を掛けてくる人物など、心当たりは塔子には一人しかいない。
振り返れば案の定上津原で、塔子はひくっと表情を引きつらせた。
たしかに生活圏は被ってはいるけれど……ここで、この日にこの偶然は、想定外過ぎる!
「なぜ、ここに」
「映画観に来たに決まってるだろうがよ。テレビはくだらねえし、元旦から大学行くとマキの奴がうるさいんだよ……自分だって午後から出てるくせによ」
「はあ」
お二人とも寝正月でもいいのでは?
日頃の多忙さを垣間見ていてそう思った塔子だったが、そこに関してはあまり人のことは言えないため口には出さなかった。
それにしても、新年だからといって身をさっぱりさせるなどといった考えはあまりないらしく、上津原は、研究室で見る程ではないものの清潔感があるとはいえなかった。
少し着古しているセーターに革のジャケットにジーンズ、ただ洗って乾かしただけのような髪が襟足まで届く程伸びた頭で、ロビーは禁煙だから咥え煙草こそしていないものの、その強面とあいまって胡散臭く若干だらしない中年男でしかなく、あの世間一般に認知されている渋いイケメン獣医と同一人物にはとても見えない。
「それはそうと人付き合いのなさって、上津原さんだってそうじゃないですかっ」
「年中引き込もり女と一緒にすんな。正月くらい一人でのんびり過ごしたってバチ当たらんだろうが……ええっと、スクリーン7のG-12と」
「ちょっ、人のチケット勝手にっ」
「あぁ?! 発券したならさっさとどけよ、後ろの人間に迷惑だろうがっ」
「迷惑って」
なに取り上げた人のチケット見ながら、発券機操作してんですかっ!!
「あんま正月映画って感じじゃねぇなあ、がら空きじゃねぇか……なに酸欠の金魚みたいにパクパク口開けてつっ立ってんだよ、行くぞ」
「は? え?! ちょっ……なにっ」
コートの腕を掴まれ、なぜかコーヒー二つを購入するのに付き合わされ、なぜか目当てのスクリーンまで引っ張られ、なぜか右隣りに座っていて……現在に至る。
仄かなスクリーンの光でかろうじて見える横顔へと塔子はちらりと視線を向ける。
荒く削ったような締まった輪郭を見せる顎には無精髭の影が見えた。
思いの外、集中してスクリーンを見ているようで顎を掴んでなにか考えるように目を細めたりしている。
たしかにお正月映画にはそぐわない。
どうしてこの時期に、こんな大型複合映画館のスクリーンに入っているのかも不思議なくらいだ。
まともに人の愛情を受けることなく育ち繁華街に生きる孤独な女と、平坦にただ流されて生きてきた役所勤めの男の歪な恋愛を描いた映画。
打算と猜疑心に満ちた女が、ほとんど盲目的とも言える男の愛情に感化され、また男の側も女の疑ぐり深さに無意識に影響を受けて、それぞれはそれぞれの日常から逸脱していく――元旦に見たいと選ぶような映画ではないし、ましてや異性と連れ立って観る映画でもないだろう。たとえ同好の士であっても正月にわざわざ好んで見に行くようなタイプの映画でもない。
一応、席についた際に、たぶん正月に観て気分のいい映画ではないと思う旨は伝えたが、すでにチケット買った後で言うなと、勝手に人についてきたのはそっちであるのにその事は忘れたように一蹴された。
これで文句を言われたらかなり理不尽だと思いながら、塔子はコーヒーのカップを手にとり中身を静かにすする。数ヶ月前ではこんな落ち着いてはいられなかっただろう。毎回毎回、突如現れては人を振り回してくる上津原に順応しつつある自分が怖い。
それにしても時間を持て余して来た映画館で出くわしたからといって、どうしてわざわざ自分と同じ映画で、隣の席を選ぶのだろうか、それともこれも例の仕事の一環なんだろうか。
だとしたらこれは所謂デートのようなことになるけれど……。
いやでももう今更、来週控えている対談のテーマももうそういったものでもなくなってきているし必要性に欠ける。
上津原と対談の場以外で会うのはなにをどう考えても偶然だ、ただその偶然の機会を上手く企画意図に上津原が乗せて振舞ってきただけである。
この人のことだから、単に見かけたから暇つぶし半分に面白がってというのは大いにあり得るけれど……。
けれど。
このいまの気分は、一体なんなのだろうと塔子は胸の内でひとりごちる。
迷惑というわけではない。むしろ映画の感想なら聞いてみたいような気すらする。けれど歓迎もしていない。なんだか落ち着かないし、居心地も悪くて集中できない。こういった曖昧模糊とした気分に陥るようなことは極力避けてきたはずだった。
いつか、いまのこの気分や出来事も自分自身の中で昇華し、やがて文字に綴るのだろうか、こうして横顔を眺めている事も含めて、いつかのどこかの誰かの人生のエピソードの一つとして。
この人と私は恋愛ですらないのに?
塔子はスクリーンへと視線を戻した。
映画は坂を転がり落ちていくように、やり切れない展開へと進んでいく。
男女は結ばれるが、まったくお互いの愛情は互いに通じないまま、各々の別々の思い込みで想い合っているといった認識の中で殺人とも心中ともつかない歪んだラストであった。
「お互い勝手な思い込みの内に死ぬとか、まあ本人はハッピーエンドっちゃハッピーエンドかもだけどよ、側からみれば愚かで滑稽な人間よってところだな」
スクリーン番号を示す看板が並ぶ廊下を歩きながら、首の後ろに手を当てて首や肩の凝りをほぐすように頭を動かしながらの上津原の言葉だった。
「ったく、元旦に観るような映画じゃねーな」
「なっ……か、上津原さんが勝手にチケット買ったんですからねっ」
「なに言ってんだ、日頃引きこもって映画ファンでもないくせに尋常じゃなくあれこれ見まくってる奴がわざわざスクリーンで見に来るってどんなだよって思うだろうがよ」
「た、大作とか話題作はすぐ配信乗るからっ」
「うるせーな、そうかって途中で気がついたし、映画としちゃそこそこいいんじゃねーの? デートで選んだら気まず過ぎてまとまるもんもまとまらなくなる類のやつではあるけどなっ」
かっかっ、と品のない笑いを立ててエレベーターに乗り込む上津原の後について、そうですか……と塔子は呟いた。
「で? 作家先生の感想は?」
「え?」
「えじゃねぇよ。わざわざ元旦に選んで見にきてんだろうが」
いやまあそうではあるけれど、なぜ感想報告しなければならないの。
そう思ったものの、結果的に付き合わせてしまったようなものだし、人の感想聞いておいてそのままというのもなんだかフェアではないかと考え直して塔子は軽く口元に曲げた指を当てて、映画の内容を反芻するように目を伏せた。
「えーと……ハッピーエンドはそうかもですけど、幸せではないなと。というより、恋愛にもなっていないかも、ただそれらしいことをなぞっただけで相手を見ていないし」
「ろくに恋愛経験もねぇ処女のくせに手厳しいな、おい」
「ろくにないから」
「あ?」
「それが恋だとわからないまま踏み外してしまうかも……そういった危うさってあるなって」
「そんなもんかねぇ」
エレベーターが地下に降りた合図に、しまったと塔子はドアが開いて見えた地下駐車場の風景を見て思った。つい、上津原について来てしまった。
仕方ない、感想だけ言い終えて、また上に戻ろうとひとまずエレベーターを降りる。
「映画自体に話を戻せば……たぶん、なにが歪みの始まりかと多くの人は考えさせられるし、そこに自分を見る人もいるかもしれない。そういった怖さと面白さを一緒くたにぶつけるように表現するの、この監督は上手いなと」
「あんた、映画紹介記事でもやればいいんじゃないのか?」
「む、無理です、そんなの……キャパオーバーっ!」
ぶんぶんと音が鳴りそうに首を横に振って、塔子は声を上げた。
加筆修正と書き下ろし、二冊の単行本が控えている。そんな観た作品を紹介していくようなものをやっている時間も体力もないし、それにそういったものは自分よりも上手い人がいくらでもいる。
「ああ、そ。乗ってくか?」
カチリと音がして煙の匂いが塔子の鼻腔をくすぐり、見上げればこちらを振り返った上津原が咥え煙草の先で彼の車を示したのに、塔子は再び緩く頭を振った。
「どこへ連れていかれるかわかったものじゃないし」
「お、ちょっとは学習したか」
「いや、なんか単純に心臓に悪いので」
また来週よろしくお願いしますと言って、塔子はエレベーターに戻りドアが閉まりかけて慌てて開くのボタンを押し直した。
ガコンと音を立てて開いたエレベーターに、すでに車へと足を向けていて振り返った上津原と目が合う。
「なんだ?」
「あ、えっと、あけましておめでとうございますっ」
「あー、そういや……あんま新年とかいった概念ねぇけど、おめでとうさん」
くるりと背を向け、上津原が後ろ手に手を振ったのを合図にしたようにエレベータのドアは再び閉じる。
翌週、朝布大の上津原の研究室で再び顔を合わせ、早坂の新年の挨拶もそこそこに始まった対談は滞りなく進み、あとは原稿の直しだけとなって連載分は終了した。
年末年始休みだからといって、治療が必要な動物やマウスなど実験用の飼育動物、あるいは培養している細胞などまで休業だからといなくなるわけではない。
それぞれがそれぞれの状態で生きているし、生きている以上は面倒を見る必要がある。
正月気分はせいぜい元旦の午後まで。
世間一般では適齢期という事で、周囲からの結婚はいつ、相手はいるのか攻撃から逃げるように万城目は大学の実験室で試薬を計ったりしているのであった。
初詣などに行く恋人でもと思わないことはなかったが、この頃ではそれもなんだか面倒に思えなくもない。こうして実験したり、論文読んだり、勉強したりしているほうがなんていうかプレッシャーはあってもまだ気が楽に思えるのだった。
まあそう思えるのも、上津原の方針と恩恵もあって比較的好きにやれる研究環境だからというのもあるが。
「危険な兆候ってやつなんでしょうけどね」
民間企業勤めの学部同期などからは、ぼちぼち結婚の知らせが舞い込んで来ている。
万城目とて、この業界では一握りな期限無しの助教職であるから不安定でもないのだが、いまひとつ仕事の手を緩めてまで相手探しに乗り出す気になれない。早坂からの誘いがあり都合が合えばそういった場に出掛ける程度だった。
一通りの事を終えて、上津原の部屋へ移動する。流石に今日は彼も来てはいない。
元旦くらい休んでくれないと万城目としても心配になる。
カドワカの対談以外は、外に出ても必ず大学に戻り、年末に向けて二、三時間ずつしか寝てないような状態だったのではないだろうか。
大掃除も煤払いもなく年を越したので、部屋は酷い状態だった。
元旦早々やることが掃除とはいささか締まらない気がするものの、万城目は散乱した書類や冊子や資料の類いを一纏めに整理していく。
忙しくて仕分けや開封する間もなかったのだろう、デスクの片隅には大量の郵便物が積み上げられて崩れかけていた。
それを明らかに無用のダイレクトメールと取っておくのがよさそうなものと、上津原個人宛のものに仕分ける。
「あれ、『新星』二号分も……まだ開けてなかったのか先生。甘糟さんの連載最終回だったのに」
まあ先月あたりから会議の数が増えてそれどころじゃなさそうでしたけど。
いい最終回なのに。
残す郵便物をデスクの上にまとめ、捨てる物を他の紙ゴミや菓子と栄養ブロックの包み紙などと一緒にゴミ袋へ投げ込みながら万城目はひとりごちた。
さよなら三部作に……ならなかったとは。
甘糟塔子の作品のラストとしてはかなり消化不良感が残る、けれどそれは納得づくの消化不良感でおそらく余韻としては過去作品で一番あるのではないだろうか。
「あれ、対談が影響してるなら『新星』は漁夫の利を得た形だし、早坂さんにまた災難が降りかかりそうな」
あの人も大概苦労人だ。
シルバーフレームの眼鏡を押し上げ、クリスチャンではないがなんとなく気分でアーメンと呟いて万城目は新年大掃除に勤しむのであった。
*****
毎年のことではあるけれど、気がつけば年を越している。
そして、仕事をしている……筈、なのだけど。
暗がりに、正面のスクリーンだけが仄かな光源となって場を照らしていた。
年明けの挨拶やお詣りなどを済ませた後、暇を持て余す人間はそれなりの数でいるのだろう。元旦の午後だというのに、大型複合映画館はそこそこ盛況だった。
とはいえ塔子が見に来たのは、秋口からプロモーションが入っているような作品ではなく、インディーズ出身の一部でカルト的な人気を持つまだ若手の監督作品で、どちらかといえば陰鬱とした内容の映画であるためか、お世辞にも客が入っているとは言えなかった。
塔子としては、映画を観にいくことは半分仕事で半分娯楽の位置付けで、普段は家でソフト化したものか配信しているものを観ているが、仕事を納めてまた始めるまでの年末年始は比較的時間もあるため、劇場へ足を運ぶのがここ近年の過ごし方であった。
その場合、誰もが関心を持つような大作や話題作は後回しで、この手のマイナー作品が優先だった。大作や話題作はすぐにソフト化や配信に乗るが、マイナー作品は劇場を逃すとしばらく見る機会がない。
そういったわけで、元旦早々映画館に一人あまり客もはいらないスクリーンの部屋で過ごすはずだったのだが。
どうして……この人が隣に座っているの――!?
ほんの四十分程前――。
予約済みのチケットを発券機がプリントして吐き出すのを待っている間に、背後から声を掛けられた。
「なんだぁ、元旦から一人で映画かよ。安定の人付き合いの無さだな」
「は!?」
元旦早々、新年の挨拶もなく失礼千万な声を掛けてくる人物など、心当たりは塔子には一人しかいない。
振り返れば案の定上津原で、塔子はひくっと表情を引きつらせた。
たしかに生活圏は被ってはいるけれど……ここで、この日にこの偶然は、想定外過ぎる!
「なぜ、ここに」
「映画観に来たに決まってるだろうがよ。テレビはくだらねえし、元旦から大学行くとマキの奴がうるさいんだよ……自分だって午後から出てるくせによ」
「はあ」
お二人とも寝正月でもいいのでは?
日頃の多忙さを垣間見ていてそう思った塔子だったが、そこに関してはあまり人のことは言えないため口には出さなかった。
それにしても、新年だからといって身をさっぱりさせるなどといった考えはあまりないらしく、上津原は、研究室で見る程ではないものの清潔感があるとはいえなかった。
少し着古しているセーターに革のジャケットにジーンズ、ただ洗って乾かしただけのような髪が襟足まで届く程伸びた頭で、ロビーは禁煙だから咥え煙草こそしていないものの、その強面とあいまって胡散臭く若干だらしない中年男でしかなく、あの世間一般に認知されている渋いイケメン獣医と同一人物にはとても見えない。
「それはそうと人付き合いのなさって、上津原さんだってそうじゃないですかっ」
「年中引き込もり女と一緒にすんな。正月くらい一人でのんびり過ごしたってバチ当たらんだろうが……ええっと、スクリーン7のG-12と」
「ちょっ、人のチケット勝手にっ」
「あぁ?! 発券したならさっさとどけよ、後ろの人間に迷惑だろうがっ」
「迷惑って」
なに取り上げた人のチケット見ながら、発券機操作してんですかっ!!
「あんま正月映画って感じじゃねぇなあ、がら空きじゃねぇか……なに酸欠の金魚みたいにパクパク口開けてつっ立ってんだよ、行くぞ」
「は? え?! ちょっ……なにっ」
コートの腕を掴まれ、なぜかコーヒー二つを購入するのに付き合わされ、なぜか目当てのスクリーンまで引っ張られ、なぜか右隣りに座っていて……現在に至る。
仄かなスクリーンの光でかろうじて見える横顔へと塔子はちらりと視線を向ける。
荒く削ったような締まった輪郭を見せる顎には無精髭の影が見えた。
思いの外、集中してスクリーンを見ているようで顎を掴んでなにか考えるように目を細めたりしている。
たしかにお正月映画にはそぐわない。
どうしてこの時期に、こんな大型複合映画館のスクリーンに入っているのかも不思議なくらいだ。
まともに人の愛情を受けることなく育ち繁華街に生きる孤独な女と、平坦にただ流されて生きてきた役所勤めの男の歪な恋愛を描いた映画。
打算と猜疑心に満ちた女が、ほとんど盲目的とも言える男の愛情に感化され、また男の側も女の疑ぐり深さに無意識に影響を受けて、それぞれはそれぞれの日常から逸脱していく――元旦に見たいと選ぶような映画ではないし、ましてや異性と連れ立って観る映画でもないだろう。たとえ同好の士であっても正月にわざわざ好んで見に行くようなタイプの映画でもない。
一応、席についた際に、たぶん正月に観て気分のいい映画ではないと思う旨は伝えたが、すでにチケット買った後で言うなと、勝手に人についてきたのはそっちであるのにその事は忘れたように一蹴された。
これで文句を言われたらかなり理不尽だと思いながら、塔子はコーヒーのカップを手にとり中身を静かにすする。数ヶ月前ではこんな落ち着いてはいられなかっただろう。毎回毎回、突如現れては人を振り回してくる上津原に順応しつつある自分が怖い。
それにしても時間を持て余して来た映画館で出くわしたからといって、どうしてわざわざ自分と同じ映画で、隣の席を選ぶのだろうか、それともこれも例の仕事の一環なんだろうか。
だとしたらこれは所謂デートのようなことになるけれど……。
いやでももう今更、来週控えている対談のテーマももうそういったものでもなくなってきているし必要性に欠ける。
上津原と対談の場以外で会うのはなにをどう考えても偶然だ、ただその偶然の機会を上手く企画意図に上津原が乗せて振舞ってきただけである。
この人のことだから、単に見かけたから暇つぶし半分に面白がってというのは大いにあり得るけれど……。
けれど。
このいまの気分は、一体なんなのだろうと塔子は胸の内でひとりごちる。
迷惑というわけではない。むしろ映画の感想なら聞いてみたいような気すらする。けれど歓迎もしていない。なんだか落ち着かないし、居心地も悪くて集中できない。こういった曖昧模糊とした気分に陥るようなことは極力避けてきたはずだった。
いつか、いまのこの気分や出来事も自分自身の中で昇華し、やがて文字に綴るのだろうか、こうして横顔を眺めている事も含めて、いつかのどこかの誰かの人生のエピソードの一つとして。
この人と私は恋愛ですらないのに?
塔子はスクリーンへと視線を戻した。
映画は坂を転がり落ちていくように、やり切れない展開へと進んでいく。
男女は結ばれるが、まったくお互いの愛情は互いに通じないまま、各々の別々の思い込みで想い合っているといった認識の中で殺人とも心中ともつかない歪んだラストであった。
「お互い勝手な思い込みの内に死ぬとか、まあ本人はハッピーエンドっちゃハッピーエンドかもだけどよ、側からみれば愚かで滑稽な人間よってところだな」
スクリーン番号を示す看板が並ぶ廊下を歩きながら、首の後ろに手を当てて首や肩の凝りをほぐすように頭を動かしながらの上津原の言葉だった。
「ったく、元旦に観るような映画じゃねーな」
「なっ……か、上津原さんが勝手にチケット買ったんですからねっ」
「なに言ってんだ、日頃引きこもって映画ファンでもないくせに尋常じゃなくあれこれ見まくってる奴がわざわざスクリーンで見に来るってどんなだよって思うだろうがよ」
「た、大作とか話題作はすぐ配信乗るからっ」
「うるせーな、そうかって途中で気がついたし、映画としちゃそこそこいいんじゃねーの? デートで選んだら気まず過ぎてまとまるもんもまとまらなくなる類のやつではあるけどなっ」
かっかっ、と品のない笑いを立ててエレベーターに乗り込む上津原の後について、そうですか……と塔子は呟いた。
「で? 作家先生の感想は?」
「え?」
「えじゃねぇよ。わざわざ元旦に選んで見にきてんだろうが」
いやまあそうではあるけれど、なぜ感想報告しなければならないの。
そう思ったものの、結果的に付き合わせてしまったようなものだし、人の感想聞いておいてそのままというのもなんだかフェアではないかと考え直して塔子は軽く口元に曲げた指を当てて、映画の内容を反芻するように目を伏せた。
「えーと……ハッピーエンドはそうかもですけど、幸せではないなと。というより、恋愛にもなっていないかも、ただそれらしいことをなぞっただけで相手を見ていないし」
「ろくに恋愛経験もねぇ処女のくせに手厳しいな、おい」
「ろくにないから」
「あ?」
「それが恋だとわからないまま踏み外してしまうかも……そういった危うさってあるなって」
「そんなもんかねぇ」
エレベーターが地下に降りた合図に、しまったと塔子はドアが開いて見えた地下駐車場の風景を見て思った。つい、上津原について来てしまった。
仕方ない、感想だけ言い終えて、また上に戻ろうとひとまずエレベーターを降りる。
「映画自体に話を戻せば……たぶん、なにが歪みの始まりかと多くの人は考えさせられるし、そこに自分を見る人もいるかもしれない。そういった怖さと面白さを一緒くたにぶつけるように表現するの、この監督は上手いなと」
「あんた、映画紹介記事でもやればいいんじゃないのか?」
「む、無理です、そんなの……キャパオーバーっ!」
ぶんぶんと音が鳴りそうに首を横に振って、塔子は声を上げた。
加筆修正と書き下ろし、二冊の単行本が控えている。そんな観た作品を紹介していくようなものをやっている時間も体力もないし、それにそういったものは自分よりも上手い人がいくらでもいる。
「ああ、そ。乗ってくか?」
カチリと音がして煙の匂いが塔子の鼻腔をくすぐり、見上げればこちらを振り返った上津原が咥え煙草の先で彼の車を示したのに、塔子は再び緩く頭を振った。
「どこへ連れていかれるかわかったものじゃないし」
「お、ちょっとは学習したか」
「いや、なんか単純に心臓に悪いので」
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ガコンと音を立てて開いたエレベーターに、すでに車へと足を向けていて振り返った上津原と目が合う。
「なんだ?」
「あ、えっと、あけましておめでとうございますっ」
「あー、そういや……あんま新年とかいった概念ねぇけど、おめでとうさん」
くるりと背を向け、上津原が後ろ手に手を振ったのを合図にしたようにエレベータのドアは再び閉じる。
翌週、朝布大の上津原の研究室で再び顔を合わせ、早坂の新年の挨拶もそこそこに始まった対談は滞りなく進み、あとは原稿の直しだけとなって連載分は終了した。
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夜遅く、何も持たず、靴も履かず・・・一人で泣きながら歩いてるとこを保護してくれた一人の人。
「何があった?送ってく。」
それはいつも仕事場のカフェに来てくれる常連さんだった。
「俺と・・・結婚してほしい。」
「!?」
突然の結婚の申し込み。彼のことは何も知らなかったけど・・・惹かれるのに時間はかからない。
かっこよくて・・優しくて・・・紳士な彼は私を心から愛してくれる。
そんな彼に、私は想いを返したい。
「俺に・・・全てを見せて。」
苦手意識の強かった『営み』。
彼の手によって私の感じ方が変わっていく・・・。
「いあぁぁぁっ・・!!」
「感じやすいんだな・・・。」
※お話は全て想像の世界のものです。現実世界とはなんら関係ありません。
※お話の中に出てくる病気、治療法などは想像のものとしてご覧ください。
※誤字脱字、表現不足は重々承知しております。日々精進してまいりますので温かく見ていただけると嬉しいです。
※コメントや感想は受け付けることができません。メンタルが薄氷なもので・・すみません。
それではお楽しみください。すずなり。
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