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失恋(3)

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 こいつ、酒乱か――と、上津原が気がついた時には遅かった。
 いや、酒乱といったわけではないのかもしれない。建物裏で顔を合わせた時の様子でおおよその状況は察せられたし、その後の支離滅裂な言葉を並べ組み立てた出来事はほぼ上津原の予想通りで、精神状態に寄るものと判断してやった方が親切だろう。
 立原の研究室がある棟の方向からやって来た甘糟塔子は虚ろで覇気がなく、やや薄暗い夕暮れ時の裏庭に現れた姿は幽霊かと一瞬ぎょっとさせられた程だ。
 なまじ色が白くて細身でそこそこ美人であるから、真っ直ぐに長く伸びた黒髪を垂らして暗い表情で俯かれるとよろしくない。
 その姿は一時流行った和製ホラー映画を髣髴ほうふつとさせる。
 生きてるうちから化けて出てくるなと言いたくもなるが、予測していたことが起きたかと屈んだ体勢で学内に棲んでいる野良猫が上津原がやったばかりの餌をかじるのを眺めつつとりあえず声を掛けた。
「あー……なんだよ失恋女」
 対談でそんな話をしたばかりだ、掛ける言葉として不自然ではない。
 だが言われて甘糟塔子は気がついたはずだ。無いものとして扱っていた自らの心のありように。
 にぃにぃと上津原の手元で懐く子猫の鳴き声にゆっくりと甘糟塔子が視線を下ろす、屈んだまま彼女が視線を下ろすより先に振り返って見上げていたからすぐに目は合った。
「こいつら同様、飯食いに行くか?」
 どん底に落ち込んでいるらしい女をなぶって面白がるような趣味は上津原にはない。
 空腹というのは案外に空虚さを助長するものだ。仕事に打ち込むにしろ考えに耽るにしろ呆けるにしろ限界まで飲まず食わずで過ごすタイプなのに違いないと、いつだったか塔子の買物の荷物を家まで運んでやった時の事を上津原は思い出していた。
 まともな暮らしをする独身女は、あんな大きさのキャリーが壊れるような無茶な食料品の買い方はしない。

 *****

 大学近くのスペイン料理屋で小皿料理タパスをテーブル一杯に並べ、締めのパエリアが出てくるのを待ちながら、彼女も飲むと言うのでボトルで頼んだワインを彼女が一杯飲む間に上津原が三杯飲むペースでやりながら過ごした。
 甘糟塔子は相変わらず黙々とものを食う女で、上津原も特にこれと話すこともないので随分と静かな食事であった。
 これまで二度程夕食を共にしたが一滴も酒を口にしなかったので飲めないのかと思っていたら、案外いける口であるらしくゆっくりとしたペースではあるものの顔色一つ変えずに、パエリアを食べ終えた頃には上津原と共同でボトルが二本空いていた。
 店を出て、まだ飲み足りないようなことを言う甘糟塔子にまあそういった気分もあるだろうと、仕方なく付き合うことにし近場にあるバーへと流れる。
 甘糟塔子とは春に知り合い、早いものでもう季節は秋になっている。
 上津原としてはなんの思惑もなく、落ち込でいる友人の憂さ晴らしに付き合っているようなものであった。
 ただ上津原にとって災難だったのは、相手にしている女性が甘糟塔子といった、世間のイメージとはかけ離れた実態を持つ三十路女であったことだけである。
「ゼンタイ、上津原さんは私のこと馬鹿にし過ぎですっ!!」
「はぁ?!」
 カクテル二杯目。
 脈絡のない非難と共に甘糟塔子が突然雪崩の如く崩れた。
「いっつも、いつもいつもいつも喪女だの挙動不審女だの言って……最近じゃホラー扱いまでするしっ」
「事実だろうがよ」
「……知ってたんでしょ」
「ああ? なにをだよ。立原に騙されたからって俺に八つ当たりすんなっ」
「ほらっ、やっぱりっ知ってるじゃないですかっ! どうして騙されたなんて言うんですかぁあああっ!」
「うっせぇ、店で喚くなっ! あんたの恋愛沙汰なんざ知るかっ!」
「……どうせ、喪女がいい気になって……とか、面白がってたに決まってる……そうに決まってる……だいたい失礼極まりないんですよ上津原さんは……口悪いし、怖いし、煙草臭いし、加齢臭だし、人の事なんかお構いなしだし……どうして女の人にモテてるんだか、そりゃ仕事は出来るのかもしれないけど……」
「カウンターに突っ伏して恨めしそうに人の悪口ぼそぼそ言うな、気分悪ぃの通り越して呪われそうで怖いだろうがよ。相変わらず喚くかぼそぼそかでしか喋れねぇ女だな……ていうか、いきなり酔うなっ」
「酔ってませんっ!」
「酔ってるだろう」
「酔ってないです!」
「いつもおかしいが明らかにおかしいだろうが。二杯飲んだら十分だろ。いい時間だし帰るぞ……どうせ降りる駅は一緒だし送ってやるから……」
 しかめ面で上津原は腰掛けていた椅子から立ち上がり、塔子の腕を軽く引いた。
 酒乱の失恋女の相手など面倒の極みだ。本格的に酔いつぶれないうちに帰らせた方がいいに決まっている。片手で頭を軽く掻き毟りながらとんだとばっちりだと上津原は胸の内でぼやいた。
 立原の件でこれまで溜め込んできたものが噴出しているらしいが、上津原にとっては知ったことではない。
「触らないでっ!」 
「おいっ」
 こういった状態の女性相手に半ば予想していたものの、大雑把な動作で腕を引いた手を突っぱねられ、これは相当だぞと上津原は嘆息した。
「失恋女なんて放っといたらいいじゃないですか……ご飯とか連れてかなくたって……別に、しかもおいしいし、パエリアとかよそってくれたりして何気に親切だし、いまもちょっと優しいし……」
 カウンターから顔を上げて甘糟塔子がじっと見詰めてきたのに、一瞬、なにか気が迷いそうになったのは気の迷いだ。
 酔っても表には出ないタイプらしい。
 平生と同じ顔色で、それでも回った酔いにやや目が潤んだ甘糟塔子は黙っていれば十人並みの美人であり雰囲気は出るものだなと、ちょっと感心してしまったくらいではあったが雰囲気だけの話である。
「なに企んでるんですか」
「は?」
「大体これって松苗さんの企画だし、松苗さんいい人だけど仕事に関しては容赦も人道もないし……」 
 半ば当たっているものの、弱った女にたまの親切心を起して接してやったら、なぜ全員ぐるになって騙されているといった被害妄想へと流れるのか、鋭いのか卑屈なのかどちらにしても屈折し過ぎている。
 しかし、そんな言葉が出てくるあたりそれ程酔ってはいないのかもしれない。
 これ以上飲ませてろくな結果にならないのは自明で、連れ帰るつもりでもあるが残る理性が多いのに越したことはない。
「別になにも企んでない。帰るぞ。いまからなら終電一本前には乗れる」 
「放っといてください、このまま一生誰にも相手にされない喪女なんて……」
「あんたその根暗なとこさえなきゃ、それなりだろ」
「じゃあ上津原さん、私と付き合いますっ!? 付き合いませんよね!? 適当なこと言わないでくださいよおぉぉわぁぁぁあっ……!」
「だからいちいち喚くなっ! やっぱ酔ってるじゃねぇか、面倒くせぇ!」
 バーといってもテーブル席も多くある比較的カジュアルな店で、客の話し声でそこそこざわついている店だからよかったものの、ぐずぐずと涙声まで発してカウンターにかぶりついている甘糟塔子と彼女を帰そうとしている自分の様は、他人から見れば痴情のもつれ以外の何物でもないだろう。
「どうせ……独り処女のまま孤独死する運命なんです。そのうち読者に訴えられて詐欺罪で獄中死です……」
「どこまで妄想豊かなんだよ、おい」
 そうこうしているうちに終電が過ぎてしまい、とりあえず煙草に火をつけ溜息と共に煙を吐き出す。
 上津原の背中の向こうで甘糟塔子はぐすぐすと嗚咽まじりに、幼少期から大学卒業までの暗黒な学生時代の諸々を本当に呪詛かなにか唱えるかのようにぼそぼそと呟いている。
 ほとんど内容は聞き取れず興味も向けずに彼女が落ち着つくのを待って隣で飲み直していた上津原も、多感な年頃にそれだけ色々ぼやくことがあったら人間不信にもなりそうだとは思った。しかしだからといってそれは免罪符にはならんぞと煙草を灰皿に押し付けた。
 地下鉄で二駅、歩けない距離ではない。ぼそぼそといっていたのもやや下火になってきたしもういいだろうと上津原は塔子に向き直った。
「おい、本当にもう帰るぞ」
「帰りたいなら一人で帰ってくださいっ」
「支離滅裂な状態の女置いて帰れるか。なにかあったら困るだろうがよ」
「別に上津原さんに……関係ない、し……」
「キスもした事ねぇ引きこもり喪女がなに言ってんだ、おい寝るなよ……最悪極まりないぞ、あんた」
 頬を叩くが一向反応がない。
 酔いつぶれた女を放置して外に出るわけにもいかず、店員にタクシーを頼んだが二本目の煙草が吸い終わっても到着の知らせがないのに痺れを切らし催促すれば、何度呼んでもタクシー会社が応答しないとのことだった。
 もういいと吐き捨てスマートフォンを取り出して、酔っ払い女を放り込むために近場のビジネスホテルの部屋を探せばそこそこ高級なホテルまでもすべて満室。
 ほぼ年中無休の大学教員には無縁なものなので忘れていたが、考えてみたら世間は三連休を迎える金曜日だ。
 閉店時間になり店を追い出され、道路に出れば流しのタクシーは繁華街に流れている時間帯らしく周囲は閑散としていて、目の前にそびえ立つ高級ホテルが入っているビルだけが人の神経を逆なでする煌びやかさで輝いているのに上津原の中でなにかが振り切れた。
 前後不覚で肩に寄りかかっている甘糟塔子を横抱きに、上津原は目の前のホテルのエントランスまで無言のまま進み、不審と困惑を顔に出さないよう必死で抑えるフロントマンに唸るように告げる。
「急患だ、なんでもいいから部屋用意しろ」

 エグゼクティブクラブフロアのダブルルームかスイートルームなら空いている、と二択を迫られればダブルを選ぶしかない。部屋に着いてすぐ甘糟塔子は目を覚ました。覚ましたが。
 やはり酔っていた。
「……ここ、どこですか? 上津原さん」
「ホテルだよ。バーのビルの隣にあっただろ」
「ああ、なんか高級そうな……私、上津原さんに襲われる?」
「襲うかよ」
「はあ……じゃあなんでまたこんなところに」
「あんたが前後不覚に酔っ払ったからだろうがっ……おいっ!」
 ばたんと倒れ込む様に正面から寄りかかってきた塔子に、勘弁してくれと血管が切れそうな苛立ちに上津原は額を掴む。
 ホテルの部屋の通路で、どうして甘糟塔子とこんな状態になっているのだか。段々、本気で腹が立ってくる。
 大体いくらなんでも無防備過ぎる、この女。
 自分じゃなければ、完全に誘っているか襲ってくださいとでも言わんばかりで……。
「まさか、誘ってないよな?」
「……え」
「自分から真正面に寄りかかってきて、あんたこの状態でなにあっても文句言えねぇぞ……」
 そうだ、大体、この女は無防備過ぎる。
 立原の件といい、そうでなくても自分を除く対談関係者の男共からなにかしらの思惑を抱かれているというのに。
 例えばだ、裏庭で出くわしたのが弓月だったとしたらどうなる?
 マキなら? 早坂さんなら? まああの二人の場合は、その場で当たり障りのない慰め言って終わるだけだろうが、あの腹黒カメラマンだったらそうはいかない。
 このまま無事で済んだら、他の誰にでも同じことを繰り返すのじゃないか?
 そんなことを考えながら、甘糟塔子の口元に顔を下ろし、アルコールの余韻が残る舌を舐めていた。
 すぐ、いつも通りに過剰反応で喚き立てながら突き飛ばすかなにかするだろうといったつもりで。
 つもりで……。
「……んっ……」
 なに雰囲気出してんだよ、この喪女がああっ!
「……ぁっ……っ……」
「おい、喪女……やらしー反応すんな……」
 結構、悪くないとか思ってしまうだろうが。据え膳か、これは……いや俺までトチ狂ってどうする。酔いが回ってきたか。
「ちょっと、ヤってもいいような気になってきただろうが」
「んっ……ぅう……ン……」
「だから、妙にいい声で……って?」
「……るぃ」
「ん?」
「うぅ、気持ち……悪い……」
 それなりに女性とは色々あったものの、キスの最中に突然しゃがみ込んでそのまま床にうずくまり、口元押さえて吐きそうにされたのは初めてだ。
 いや、本気で吐く寸前だろこの女はっ!
「おい、待て、バスルームまで我慢しろっ!」
「うぅ……っ」
 ほとんどうずくまったままの甘糟塔子をバスルームまで無理矢理引っ張り、放り込む。
 さすがに女が吐いてるところを見られたくはないだろうと後で飲ませる水を備え付けの冷蔵庫から出して、バスルームのドアにもたれて出てくるのを待っていたが辛そうに呻いてばかりいるらしいのに、仕方なく中に入って近づいた。
 嘔吐感はあるが吐けないでいるらしい、酷く酔うとそういう時もあるが。
「吐き方知らないのかよ」
「……ひっ、ぅゥ……」
 徹頭徹尾面倒くさい、というより、有り得ない。
 上津原に指を突っ込まれて、ようやく吐くことのできた甘糟塔子の背をさすりながら溜息以外に出すものは上津原にはなかった。
 華奢な背中が痙攣するように震えている。
 もう吐瀉物が落ちる音がほとんどしないのに嘔吐が続いていた。今度は吐くのが止められないらしい。
 ひっ、うっ……っと辛そうな掠れ声を立てている、口の中に残る吐いたもののかすが気管に入りやしないかと気が気でない。
 はあはあと荒い呼吸がどんどん加速していく様子をしばらく眺めて、まずいなと上津原は塔子の額に手を当て引き寄せた。
「落ち着け」
「……ん、っ……うぅ……」
「ちょっと胃とかが驚いてるだけだ、ゆっくり呼吸しろ……大丈夫だ」
 ごほっ、げほっと苦しそうに咳をしている塔子を宥めるように、肩をさすりながら静かに落ち着いた声で上津原は囁いた。
「っ……、……」
 吐き疲れてぐったりと崩れかけた両肩を支えしばらく様子を見る。
 急に動かすとまた吐こうとするかもしれない。
 荒い呼吸が落ち着くまで後ろから抱き留めるように支え、もう大丈夫だろうと頃合いを見計らってから、ペットボトルを差し出し無理に飲ませずに口の中だけゆすがせ、力なく寄りかかる塔子を支えながら動く。
「立てるか?」
 こくりと頷き震えながら立ち上がる女をベッドまで連れて行き、衣服を緩めて寝かせ、時計をみればもう三時前で帰るのも馬鹿馬鹿しくなり、そのままソファに横になって着ていた上着を毛布がわりに寝てしまった。
 夜が明けて目が覚め、穏やかそうに眠っている甘糟塔子にほっとすると同時に上津原は誓った。
 この女には酒は飲まさない、絶対。

 ***** 
  
 ポトリと、指に挟んでいたままの煙草の灰がシャツの上に落ちたのに、上津原は回想から我に返った。
 あの女、綺麗さっぱり忘れているらしいが。
「……~~っ」
 灰皿に煙草を押し付け、俯き加減になったまま首の後ろに手をやって唸る。
 だからあれは医療行為だ、ヒトの医者じゃないけど仕方がないだろあの場合は。
 たしかにキスはしたが、あれはまあある種の戒めというか……いや、戒めってなんだよ……あのカメラマンじゃあるまいし。
 しかも、あの女にとっては……。
「いや、だから、そういうのと違うだろうがっ」
「はあ……そうですか。大変そうですね」
「あ?」
 聞き覚えのある生真面目な声に上津原が慌てて顔を上げれば、万城目まきめが郵便物らしいものを片手に立っていた。
「お前、いつからいた!?」
「え、なんですか、血相変えて……つい、さっきですよ」
 どうやら、なにも悟られてはいないらしいと確認して、上津原は煙草の煙を吐き出すように細く息を吐いた。
「背後に立つ前に声かけろよ、びっくりするだろうが」 
「いやなんか唸ってたんで、声かけてはまずいかなと。思う様に進まないとか……珍しいですね」 
「なにがだよ?」
「なにって科研費の書いてたんじゃないんですか?」
 万城目の視線がノートパソコンの画面に注がれていたのに、あ、ああ……と曖昧な返事を上津原は返した。
 そういえば申請書類を書いていた途中だった、散々面倒かけた上に離れても仕事の妨害までしやがってあの女。
 苦虫を噛み潰したように顔を顰めている上津原の様子に、それ以上、万城目はなにも尋ねてはこなかったが、ああそうだこれ届いてましたよといって茶封筒を差し出してきた。
「今月の『新星』」
「新星……」
 びりりと茶封筒を破って中の冊子を取り出せば、表紙にいま現在もっとも見たくない名前が目立つ色と大きさの文字で上津原の目に飛び込んでくる。
 そういやもうすぐ締め切りじゃないのかあの女、九州ん時に締め切りがどうのこうのと一晩中……たしかいまぐらいの時期だったはず。
 男に振られて人に迷惑かけてる暇があったら仕事してろよ!
「おい、マキ」
「はい?」
「んなもん、俺がいま読めると思ってんのかっ! この、バカっ!」
 万城目から受け取ったばかりのものを、腹立ち紛れに上津原は出入口のドアに向かって投げつける。
「し、申請書行き詰まってるからって、パワハラやめてくださいよっ!」
「うるせぇっ!!」 
 よりにもよって巻頭インタビューとかふざけんなっ、あの女。
 がたんと乱暴な音を立てながら上津原は机に向き直ると、やり場のない怒りを一向進んでいない仕事にぶつけることに決めてノートパソコンの画面を睨みつけた。  
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