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不器用と拙さ(2)

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 出かける前に事前に連絡を入れるのが礼儀かなとは思った。
 けれど別に時間を取ってもらう程の用事でもない。
 ほとんどろくに家に帰っていないような人のようだし、外出ついでにちょっと立ち寄って礼だけ言って置いて帰るつもりだった。とてもじゃないが上津原かみつはらと仕事以外で会話しようなんて塔子は思わない。
 仮に本人が不在でも、助教の万城目まきめはきっといるだろうから彼に預ければいい。むしろその方が気は楽だから不在であってほしい。
 お茶全般に一定のこだわりがあるらしい万城目にコーヒーなどを勧められても辞す気でいた。
 それぐらいすぐ帰る気で訪ねてみれば本人は不在で、万城目も出入りする学生の姿もなかった。
 しんと静かな無人の朝布大学獣医学部・内科学第三研究室に無断で入ってしまったこの状況。
 困った。
「だから受付の人……」
 いつもと同じく来客受付で名乗って用件を伝えれば、顔見知りの事務員の男性に「少しお待ちください」と止められた。塔子に背を向けて何処かへ行ってしまった彼は数分後に戻ってくると、「どうぞ」と言った。
 そうしていつも通りに上津原の部屋を訪ねたのだ。
「いないならいないって言ってくれたらいいのに」
 ど、どうしよう。
 別にやましいことなどなに一つないというのに、最初から隙間が開いていたドアから部屋の中をもう一度覗く。
 いつも腰掛けているモスグリーンのソファ。上津原のデスク、部屋の右側に設置された背の高い本棚が数十センチほど通路を開けた奥に大小のキャビネットが並び、壁の隅に洗面台が備え付けられている。
「やっぱり、誰もいない」 
 両腕に抱えた紙袋ががさりと鳴った音にびくっと塔子は肩を揺らし、とりあえずホテルで買った手土産のケーキと置きにきたものだけでも置いておこうとそっと室内に入って、テーブルに身を屈めて右手の指に引っ掛けるように持っていた持ち手付きの箱をそっと乗せて、はたと気がつく。
「はっ……こ、これじゃあ、まるで、ふ、不法侵入」
 こんな状況を上津原に見咎められたら、またなにを言われるかわかったものじゃない。
 けれどここまで来て、返しに来た借り物をまた持って帰りたいとも思わない。
「め、メモと一緒に置いていく? あ、でもそれはそれで結局無断で入ったことに変わらないし……。絶対、後でなんか言ってくる。電話かかってくる。大体、あの人なんですぐ電話かけてくるの!?」
 メールでやり取りしていたのは、最初の一ヶ月の間だったと思う。
 上津原曰く、メールより話した方が早いとのことで、対談原稿で塔子に確認する必要がある箇所について、その都度電話が掛かってくる。
 こちらにも予定があるのでメールでまとめてくださいと一度申し立てみたものの。
『四六時中家に引きこもってる喪女が、なんの予定だよ。ええっ』
 などと、問いつめられれば返す言葉もなく。
 月に一二度、短時間の内に数回から十数回鳴る電話にうんざりする日があるのだった。
 大抵、テープ起こしの原稿のデータが届いた当日か翌日。
 連載原稿に取り組んでいて電話に気がつかず、後で慌てて折り返した電話で耳が壊れそうな怒号を聞かされて以来、対談原稿が届いた日は単発コラムやコメントなどの比較的軽めの仕事か家事しかしないことにしている。
「ああ、あれは嫌……ただでさえ電話苦手なのに」

『いま気がついて折り返しただぁ!? いい度胸だな……いま夜の十一時だぞ、ジュ・ウ・イ・チ・ジ・ッ! どんだけ人の時間無駄にしたと思ってんだ、この時間泥棒女! 書いてる間は入り込むとかイタコかお前はッ』
 受話器から風圧を感じるような怒号の背後で、なにやら音楽と賑やかな複数の女性の声が聞こえた。
 たぶん、きっと、絶対に、女の子がたくさんいるお店だった。あれは。 
『だ、だから。あっ謝ってるじゃないですかぁあっ』
『ほう。あんたそれ、これが原因で工程遅れても早坂さんや印刷所の人に同じように言えんだろうな』
『む、無理っ……っていうか、全然余裕あります。まだっ』
『そっちは余裕でもこっちは余裕ねぇんだよ』
『キャバクラで飲んでる人に、い、言われても、せっ説得力なんてありませんっ』
『で、留守電聞いた上で掛けてきたんだろうな? おーい、ペン貸してくれっ』
『はっ、はぐらかしたっ』
『バカ、あんたの折り返し受けてからこっち仕事だろうがよ』

 カサっと、胸元でまた音を立てた紙袋にはっと回想から我に返って塔子は、紙袋の口からのぞく白い布の塊をなんとなく見下ろした。
 携帯電話を受け取りに戻ったずぶ濡れの塔子に、小言と揶揄からかい文句を交互に言いながらもタクシーを呼んで、これでも着てろと紙袋の中身を上津原は脱いで塔子に投げつけた。
 一体、いつから着たきりなのかわからない、お酒と煙草がやや匂う、生暖かい白衣を羽織るのは少しばかり、いや、かなり抵抗はあったけれど濡れて冷えてきた寒さに背に腹はかえられず塔子は言う通りにした。
 家に帰り着けば当然、塔子の服の水分を吸って上津原の白衣も濡れてしまっていて酷い状態になっていた。
 借りたままでいるわけにも、そのまま返すわけにもいかないため洗濯し、乾かしてアイロンをかけて塔子は外出ついでにと持って家を出てきたのだった。
 流石に、数ヶ月も経ってくれば、なんとなくわかる。
 万城目も彼を尊敬しているようなことを言っていた。
「悪い人ではないんだろうけど……たぶん……」 
「不法侵入は立派に悪人だろうが、ホラー女」
「ひぅやぁっ!」
 背後からの馴染みのある凄むような低音に、反射的にびくっと背筋を震わせて悲鳴に近い声をあげて固まった塔子に、捻り潰されたみたいな声上げんなといったぼやきが聞こえた。
 数秒経って、そろりと猫背の前屈みの姿勢で塔子が背後を振り返れば、閉じたドアにもたれて咥え煙草の上津原が塔子を睥睨へいげいするように見下ろしていた。
「おい」
「ドっ、ドアが開いててっ、人もいなくて……すっ、すみませんっ!」
 勢いで紙袋ごとホールドアップして塔子が目を閉じて叫ぶように詫びれば、「ったく許可無しで入れる場所じゃねぇぞ総務もいい加減だな」と上津原は呆れたように呟いて煙草を指の間に挟み俯き加減に細く煙を吐き出した。
 塔子の側を通り過ぎ、彼のデスクの椅子に腰掛けくるりと回ってソファの脇に立っている塔子に向き直る。
「何の用だよ」
「え、えと。この間は……ど、どうもありがとうございました」
「ん? ああ……別にそんなの、来週の対談時でも。そもそも処分しようか微妙なとこだしよかったのによ」 
 紙袋を差し出した塔子に一瞬怪訝そうに目を細めた上津原だったが、すぐにその中身を悟って肩をすくめ、足を組んだ。
「はあ……」
 あ、やっぱり処分するつもりだったのか。洗濯しても末期症状な染みやら煙草の焦げやらで酷い状態だった。ポケットにクリップとか潰れた煙草の箱とか色々入っていたし。
「でも、お借りしたものなので……あの、今日はテレビかなにかだったんですか?」
「あん?」
「いえ、いつになくきちんとした……」
 九州出張時にばったり会った時以来のスーツ姿の上津原に、塔子が彼のジャケットを軽く曲げた指で示せば、座り心地の良さそうな椅子にふんぞり返っていた上津原はうるせぇとぼやいて腕を後ろに伸ばして煙草を灰皿に押し付ける。  
「白衣ねぇから、仕方なくだよ」
「じゃあ返しにきたの正解じゃないですかっ」
「ああ!? 発注したらサイズねぇから取り寄せって言われただけだっ……おい、それ、なんだ?」
 不意に語調を変えてテーブルを指差した上津原に、塔子は目線を落しケーキの箱のことだと理解して手土産である旨を告げる。
 すると突然パンッと大きく両手を打ち鳴らし、椅子から飛び下りるように立ち上がった上津原に、え、えっと不可解の声を上げて後ずさった塔子は脛をソファにぶつけそのままバランスを崩して座り込んだ。
「あんた、たまには気のきぃたことするじゃねぇかっ」
「は、はぁっ?」
「いや~、戻ったらマキの奴はいないし仕方なく授業行って、これから臨床センターで預かって治療してる患畜の診察かと思いながら戻って来たら挙動不審なホラー女はいるし、最悪だと思ったけどよ」
 塔子の正面にどかりと音を立てて座り込んで、塔子が置いたケーキの箱をいそいそと開け、中身をつかみ出すとそのまま頬張りだした上津原を面食らったままソファに仰け反るように塔子はしばし眺め、軽く息を吐いて淑やかな動作で座り直した。
「もしかして……お昼まだだったんですか?」
「もしかしなくてもまだだよ」
「ですか」
「朝から授業と雑務と合間で弓月さんの取材受けて、実験の指示出ししてあれこれやってたら昼過ぎてたし、呼び出し食らって生協行く暇もなく授業……悪いがコーヒー淹れてくれ、適当でいいから」
「あ、はい」
 ああ……二つ買ったの全部。
 一つは万城目さんのだったのだけれど。
 そんなことを思いながら立ち上がり、塔子はよろよろと万城目が厳重管理しているらしい茶葉などを収めた備品棚へ向かうと、その棚の主のように鎮座しているコーヒーマシンにカートリッジをセットしてコーヒーを淹れた。
 カートリッジは色とりどりでいくつか種類があったが、よくわからないため上津原の言葉通りに適当に選ばせてもらう。プラスチック製のコップ一杯に入ったコーヒーをケーキの箱の傍らに添えるように置き、塔子は元の位置に再び腰掛けた。
「どうも」
「いえ」
 カチコチと壁にかかった時計の秒針が急に耳につくような静けさも束の間、コーヒーを啜る音がして、次いでかちりとライターに火を点ける音とほぼ同時に立ち上った煙の匂いに、塔子がテーブルから上津原の顔へと視線の位置を移せば、彼女がさっき彼に差し出した紙袋を開けている上津原の姿があった。
「じ、じゃあ……私は、これで……」
「ん、ああ」
 失礼します、と塔子が立ち上がってドアに向かいかけた時、これ以上低い声はこの男でも出せないだろうといった声で上津原が塔子を呼び止めた。
「おい」
「な、なに?」
「まさかと思うがあっちも寄んのか?」
「あっち……?」
 あっちってどこだろうと塔子が上津原に向き直って首を傾げれば、ソファの背もたれの縁に首を乗せるように寛いだ上津原が立原の名前を上げたのに、塔子は勢いよく首を左右に振った。
「そ、そんな……連絡もなしに、た、立ち寄る……よ、寄るなんて滅相もないっ」
「……おい、不法侵入の俺んとことはえらい差だな」
「べ、別にそんなつもりで入ったわけじゃっ……っていうか、そんなっ」
「ちょっと気になってたところで奇蹟のように誘われて……まー、暗がりでキスでもされそうになったけど、まんざらでもなかったんだろ」
「っ!? なっ、なに言って……なん、っで、そ、そんなことっ」
「お、なんだよ当たりか? かっかっかっ、三十路女がなに瞬間沸騰してんだよ気持ち悪ぃ」
「大きなお世話ですっっ! し、仕事じゃないんですか?」
 指に煙草を挟んだ手で膝を打っておやじ臭い笑い声を立てる上津原の言葉通りに、一気に上がった頬の熱を感じながら塔子が叫べば、おおっとそうだったと上津原は手にした煙草を咥えてジャケットをおもむろに脱いだ。
「茹でダコっつーか、茹でゲソみたいな三十路女からかってて忘れるとこだったわ」
 煙草を咥えたくぐもった声で言いながら紙袋から白衣を取り出しているところを見ると、どうやら処分すると言っていたのを着ていくつもりであるらしい。
「茹でゲソ……」
「タコほど丸くねぇだろ」
「いやだからって……いえ、も、いいです。帰ります」
「おお、ケーキご馳走さん……って、おい待てあんた」 
 踵を返した塔子を再び引き止めた上津原に、なんですかと塔子が反抗的に言って首を回せば、紙袋から取り出した折り畳まれた白衣の真上で上津原が不審げに鼻を鳴らしている。
「なにかいい匂いがする……」
「え? ああ、多分アイロンの時にリネンウォーターを使ったから」
「はあ?!」
 塔子が答えた途端、険しく顔を顰めた上津原に思わずびくっと塔子は身を縮める。
 上津原の目付きの悪さや、極悪な口の悪さや柄の悪さにもいい加減慣れつつある塔子ではあったが、突然いまのように機嫌を急降下されるとやはり怖い。  
「な、なにっ?」
「いい年した男が薔薇の香りさせた白衣なんか着られるかよ」
「し、知りませんよ、そんなことっ」
「ったく、動物相手だぞこっちは……本当、仕事以外はさっぱりだなあんた」
「どうせ……」
 なんで気を使って返しにきたらいらないだのなんだの言われて、小学生レベルな感じにからかわれた上、着るのか着ないのだかしらないけれどここまで酷いこと言われなきゃならないの。
「なにがどうせだ。相変わらず暗ぇ女……まあでも一通りのことは出来んのか」
「え?」
 知らず俯いていた頭を上げかければ、それを許さない押し付けるような負荷が上からがかかる。
 それがいつの間にか塔子のすぐ後ろまで近づいていた上津原の大きな手だとわかるまで塔子は十秒程を要した。
「あんた生活力なさそうだから。ま、病院に着ていくわけにはいかないが、当面、これでもよさそうな程度にはきれいになってるし。助かった。残念なりに頑張れや」
 ポンポンと二度上から弱い圧力がかかり、俯いたままの視界に塔子より先に部屋を出ようとする薄いブルーのシャツの背が見える。
 まだ若干、生暖かいような頭の上に両手をあてて塔子が頭を持ち上げれば、すでに上津原は姿は部屋から消えていた。
「……悪い人では」
 ないんだろうけど……。
 閉じたドアを眺めながら、ぽつりと塔子は呟く。
「とても失礼というだけで」
 そろそろと廊下に出た塔子は、ぴったりと研究室のドアを閉めてドアに背中を預け、深い溜息を一つ吐くと、来た廊下をまた戻るように歩きだした。 
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